アナログ派の愉しみ/落語◎柳家権太楼 口演『心眼』

最後に発した裂帛のひと声に
鈴本演芸場の客席は息を呑んだ


新型コロナが世間を席巻する少し前に、東京・上野の鈴本演芸場で柳家権太楼(ごんたろう)が演じる落語『心眼』を聴いた。あいにくの雨模様もあって客席はがらがら。だが、そこには『五体不満足』の乙武洋匡の車椅子の姿もあり、かねて親しいらしく権太楼は高座にあがるなり乙武に声をかけて、これから障害者を扱った演目を行うことをあらかじめ告げたのだった。

 
幕末から明治にかけて活躍した大名人、三遊亭円朝の作になるこの噺は、目の見えない按摩の梅喜(ばいき)が帰宅したところからはじまる。その顔色が尋常でないのに気づいた恋女房のお竹が事情を尋ねたところ、はるばる横浜まで流しに出かけたのにお呼びがかからなかったばかりか、自分が育てた弟の金公のもとへ無心に立ち寄ると、「また食いつぶしに来やがった」と罵られて、悔しいやら情けないやら、と泣きじゃくる始末。いっそ首をくくろうかと思ったが、せめて片方だけでも目を開けてもらえるよう、茅場町の薬師さまに信心するつもりで帰ってきたという。そんな亭主の言葉に、女房は「あたしも自分の寿命を縮めてもいっしょに願かけしよう」となだめた。

 
そして、二十一日の日参を重ねた満願の日、とうとう梅喜の両目が開く。得意先の上総屋の旦那と連れ立って浅草仲見世まで歩いていく道すがら、初めて目にする世間の何もかもが珍しく面白く眺めているうち、旦那の弁に、女房のお竹は気立てのいい貞女ではあるものの大変なご面相で、人三化七(にんさんばけしち)どころか人ナシ化十の醜女と聞かされて落胆する。そこへ、これもかねて得意先の芸者・小春が通りかかればえもいわれぬ美女で、「あたしはかねて男前のあんたに岡惚れしていたの、目が開いたうえはぜひとも所帯を持ちたい」と誘ってきたものだから、梅喜はその気になって待合にしけ込み、「お竹なんぞはすっぱり離縁する」と怪気炎をあげて……。

 
この先のネタバレは差し控えるとして、すでにおわかりのとおり、ここで直視している差別意識のありさまは、身体の能力へのこだわりと、容姿の美醜へのこだわりが交錯するところで成り立っている。その両者のこだわりを、今日のわれわれはいっそう増長させているのではないか。というのも、始めは気楽に笑っていた観客が、やがてわが身をそこに見るかのように重い沈黙に閉ざされていったのだ。そして、最後に梅喜の心眼が開き、権太楼が裂帛の気迫で発したひと声に、わたしは背筋がおののき、並びの席の男性客は「すごい……」とうめいた。

 
心眼は古来、禅や武道の基本とされ、剣豪・宮本武蔵も『兵法三十五箇条』のなかで「観見二ツの見様、観の目(心眼)つよく、見の目よわく見るべし」と教えている。それは臍下丹田(せいかたんでん。ヘソの下あたり)に所在し、ここでこそ真の実相を見て取ることができるという。われわれにとって、いまや落語『心眼』はその重大さに気づかせてくれる貴重な機会かもしれない。ただし、こうした内容だけにテレビではお目にかかれまいが、幸いにも権太楼の朝日名人会(2016年4月)でのライヴがCDになっていて、あの日の衝撃を彷彿とさせてくれる。

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