アナログ派の愉しみ/音楽◎『オペラ・フォー・アフリカ』

これは善なのか偽善なのか?
もうひとつのライヴ・エイドが問いかけるもの


ある日、イエスのもとへ律法学者たちが姦淫の罪を犯した女を連れてきて、「律法ではこの女を石で打ち殺すことになっていますが、どうしましょう?」と詰め寄った。イエスが「あなたがたのなかで罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と答えると、かれらはひとりふたりと去っていった――。

『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」が伝える有名なエピソードだ。キリスト教のもとでは本来、悪に対してある程度寛大らしい。それはごく図式的に要約すると、悪とは善の逆であり、すなわち善は悪の上に成り立っているわけで、善と悪の双方はコインの裏表のようにいつでもひっくり返る可能性があるからだろう。もしキリスト教の文学や絵画から悪の題材を取り除いてしまったら、およそ貧困なものにならざるをえない、という事情からもそれは明らかだ。一方で、律法学者たちのようにわが手で善と悪をもてあそぼうとする者に対しては容赦しない。そうした偽善が社会にまかりとおったら、善そのものが成り立たなくなってしまうからだ。

果たして、これは善なのか偽善なのか? われわれの日常において、その問いが最もデリケートなニュアンスを帯びるのはチャリティー(慈善)の場面だろう。キリスト教の社会で行われるチャリティー活動に大小を問わず、とかく厳格なまでの態度が感じられるのは、みずからが偽善に滑り落ちないためのものかもしれない。

手元に一枚の中古CDがある。先年、世界的に大ヒットしたフレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)によって、1985年7月13日にイギリスとアメリカで開かれたライヴ・エイドがふたたび脚光を浴びたが、そのひと月後の8月18日にやはりアフリカ難民の飢餓救済を目的として、オペラ歌手たちがイタリアのヴェローナ野外大劇場に集ってチャリティー・イベントの音楽祭を催した。この『オペラ・フォー・アフリカ』と題されたアルバムはそのライヴ録音で、当時、国内盤は日本フォノグラムが2800円で発売し、売上はアフリカ救済基金に寄付されたという。

音楽祭は、のちに三大テノールのひとりとして名を馳せるホセ・カレーラスが発起人で、かれのうたうジョルダーノ作曲『アンドレア・シェニエ』からの「ある日、青空を眺めて」によって幕を開ける。オペラの全曲公演とは異なり、歌手も観客もリラックスしながらも、神に見放された人々の救済を訴えるアリアが高らかに響きわたると、いっぺんに会場の空気が火照ってくるのがはっきりわかる。

ついで、アグネス・バルツァ、ギネス・ジョーンズ、サイモン・エステスをはじめ、当時の錚々たるスター歌手が登場して、オペラやミュージカルのナンバーを披露していく。とりわけ圧巻は、カレーラスとソプラノのモンセラ・カバリエによるヴェルディ作曲『椿姫』からの「乾杯の歌」だ。ふたりの二重唱のはざまで、実際のオペラでは合唱が入ってくるところを観客たちが自発的にコーラスして補い、劇場全体がひとつのドラマとなった瞬間が記録されているのだ。そして、フィナーレはヴェルディ作曲『ナブッコ』からの「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」が出演者全員によって唱和され、ひとりひとりの世界への思いが口ずさまれる……。それは、たんなるお祭り騒ぎではない、ライヴ・エイドとともにもうひとつのチャリティー・イベントの頂点のようでもあった。

ひるがえって、日本の場合はどうだろう。何かと言うと「善意」を唱える声が世間にあふれるけれど、たとえば、テレビで毎年繰り広げられる大仕掛けなチャリティー番組などにおいて、そもそも自問自答は行われているのだろうか。これは善なのか偽善なのか? と。


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