アナログ派の愉しみ/映画◎ベルイマン監督『恥』

わたしの知るかぎり
最も戦慄させられるラストシーンだ


「とても妙な夢を見たよ。ふたりで楽団に戻り、バッハの協奏曲を演奏している夢だ。あんなころがあったなんて信じられない。自分の流す涙で目が覚めた」

 
窓から朝日が注ぐベッドのうえで、夫(マックス・フォン・シドー)はそんなひとり言をつぶやいている。さっさと起き出した妻(リヴ・ウルマン)のはだけたパジャマから乳房があらわにこぼれているのは、前夜に交わした愛の営みの名残りだろうか。洗面台に向かって髪を洗いはじめると、追憶に耽る夫に対しても髭を剃るように促すのだった。スウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマン監督の『恥』(1968年)の冒頭だ。

 
この夫と妻にどんな過去があるのか、ほとんど明かされることはない。かつてオーケストラでヴァイオリン奏者同士だったらしいが、どういった事情で結ばれて、なぜオーケストラを辞めたのか、そして、身近な家族や友人知人との交流を絶って、どうしてこのバルト海のわびしい島へやってきたのか、以来4年、ふたりだけで粗末な家屋に住んでコケモモなどを栽培しながら逼塞した生活を送っている理由は何か……。夫は心身ともに虚弱でしょっちゅう頭を抱えてうずくまり、妻がそろそろ子どもがほしいと訴えても曖昧にやりすごす。盛んにいさかいと仲直りを繰り返すふたりだが、そこにはなんの進展も希望もない。

 
まったくもって不甲斐ない夫と妻は一体、何者なのだろう? 実は、かれらこそ『ロミオとジュリエット』の末裔だ、とわたしは理解している。シェイクスピアが世に送り出した永遠の「悲恋」のカップルがもし劇中で若い命を散らすことなく、所期の計画どおり駆け落ちを成功させたとしたら将来にどんな生活が待っているのか、その後日譚を、現代を舞台に描いたのがこの作品だと見なしたい。

 
ふたりの怠惰な日常は突如、断ち切られる。前触れもなく戦争が勃発したのだ。この映画が撮られたのは東西冷戦たけなわの時代で、そのはざまにあったスウェーデンの国民からすれば、いきなり頭上を襲う戦闘機のイメージは生々しいものだったろう。さして戦略的価値がありそうもない島が猛火に包まれ、近在の市民たちが屍をさらすなかを、夫と妻はやみくもに右往左往するばかり。恐慌をきたしたふたりはわれを失って、妻は避難するためのカネを目当てに好色な市長に身を委ね、その市長がパルチザンに捕らえられると夫は慣れないピストルで処刑したばかりか、ふたりの家に逃げ込んできた少年兵までも欺いて殺害してしまう。両眼にはいつしか狂気の光を宿して。そんな夫に対し、ひたすら嫌悪感をもよおす妻も離れられずについていくことしかできない。

 
ふたりは手に入れたカネを渡して、ひそかに島から漕ぎ出すボートに乗り込んだ。他の避難民と水や食料を分かちあいながらも行き先が見出せないまま波間に揺られるうち、ひとりふたりとみずから海中に没していき、やがてあたり一面におびただしい兵士の死骸が押し寄せてにっちもさっちも進めなくなる。ついにふたりも息絶えようとするとき、妻は夫の胸に凭れながらそっと語り出した。

 
「夢を見たわ。きれいな通りを歩いていて、片側には白いアーチと円柱のある建物で、反対側には緑の公園が広がって木々の下を小川が流れている。高い壁はバラに覆われていて、突然、戦闘機がやってきて火を放つと、炎に包まれてバラはとても美しかったわ。燃えさかるバラが小川に映っていた。私は赤ん坊を抱いていた。私たちの娘よ。抱きしめると娘は唇をぎゅっと押しつけてきた、私の頬に。私は必死で何かを思い出そうとしていた、だれかの言葉を。でも、思い出せない……」

 
なんと恐ろしくも美しい夢だろう。冒頭の夫の夢がただの自己憐憫とするなら、この妻の末期の夢は無明の果てにおのれを焼き尽くす紅蓮の心象風景だ。必死で思い出そうとして思い出せないでいるのは、もとよりイエス・キリストの言葉に違いない。

 
その意味で、ふたりがあたかもボートを棺桶のようにしてじっと横たわる場面と、『ロミオとジュリエット』の終幕においてふたりが地下墓所で抱きあってこと切れる場面とは、ぴったり重なりあう。可憐なロミオとジュリエットから、不甲斐ない夫と妻へと、自分たちが火を点けた愛の炎を守りとおせずに現実世界の前にあえなく敗北していく姿を、もし「恥」と呼ぶなら、およそ世間一般の夫婦とはみな「恥」を生きながら「恥」に気づかないフリをして一生を終えるものではないか? 映画はその問いを突きつけてくる。わたしが知るかぎり最も戦慄させられるラストシーンのひとつだ。


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