アナログ派の愉しみ/音楽◎山崎ハコ 歌唱『飛・び・ま・す』

吟遊詩人という
呼称がふさわしい


生まれて初めてまとまった量の酒を飲んだのは、そろそろ高校の卒業を間近にしたころのことだった。東京・国立市にある中高一貫の男子校へ6年間通ったせいで、生徒同士だけでなく教員とのあいだにも「同じ釜の飯を食った」仲の親密さがあった。そして、ようやく大学の試験を終えた春休みに、その進学先がロシア文学方面なのを面白がったのだろう、気さくな人柄の国語教師が夕食に招いてくれたのだ。

 
学校に隣接した教員住宅。古めかしい木造家屋の畳敷きの部屋で、奥方の手作り料理が並んだテーブルにかしこまって、つい先日まで教壇から見下ろしていた人物と相対して勧められるままグラスを手にする。当時はいまと違い、高校を出る時分になればアルコールや煙草をたしなむことが社会的にある程度容認されていたから、おたがい気兼ねなくビールを煽ったのだが、まあ、こちらはまだ不慣れにつきさほど酔いが進まず、むしろ教師のほうが酩酊状態を呈しはじめた。

 
「だから、お前はダメなんだよ」と、突如、相手が呂律のまわらない口ぶりで言い立ててきた(絡み酒というのもむろん初体験だった)。そして、おもむろに立ち上がるとステレオ装置をごそごそやって、「こういうのを聴かなくちゃいかん」と、夜更けにもかわらず大音量で鳴らしだした。それが山崎ハコのデビュー・アルバム『飛・び・ま・す』(1975年)との出会いだった。そろそろ眠気に負けかけていたわたしも、その異形の歌に頬を張られたような衝撃を受けて目が覚め、翌日すぐにそのレコードを買い求めた。

 
この新進のシンガーソングライターが、自分とほとんど年齢の変わらない女の子であることに驚嘆した。流行歌といえば、同世代の森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花のトリオ」をはじめとするアイドルたちが、GNP世界第2位の経済大国に見合った都会的なラブソングを大量生産して、われわれも浮かれていたときに、こんな泥臭い心象風景があったとは! と同時に、自分の内面にも確かにこうした農耕民族的な情念がひそんでいることに気づかされたのだ。

 
アルバムに収められた全10曲は、私見ではつぎのとおり起承転結を成していると思う。

 
【起】「望郷」「さすらい」「かざぐるま」
【承】「橋向こうの家」「サヨナラの鐘」「竹とんぼ」「影が見えない」
【転】「気分を変えて」
【結】「飛びます」「子守唄」

 
まず【起】では、もはや故郷を失い根なし草として生きていく孤独がうたわれ、【承】では、そうした生活のなかで出会った男との腐れ縁に眼差しが向けられる。これらの歌を聴くと、わたしも自分の傷口を舐める甘美さに涙しないではいられない。そして、【転】では、そんなウジウジした体たらくに対して、いきなり「うまく気分を晴らした者が勝ちさ それができないあんたなら バイバイ」と強烈な蹴りを入れられ、アルバムのタイトルともなった【結】の曲では、明日に向かって静かな決意が表明されるのだ。

 
山崎ハコはのちに、デビュー30周年記念のコンピレーションCD『ゴールデン☆ベスト』(2006年)のライナーノーツで思い入れの強い作品を問われて、こう応えている。「今聴いても衝撃的なのはデビュー盤(飛・び・ま・す)かな? こんな高校生はいないよな、と(笑)。この娘はすごく偉かったと今誉めてあげたいです。私は自分でハコの世界が好きなんですね。田舎の土の匂いがするような世界観ですね」――。異形な世界に衝撃を受けたのは聴き手ばかりでなく、どうやら作り手本人も同じだったらしい。芸術家が一生に何度も体験するわけではないエネルギーの大爆発だったのだろう。

 
もとより、まだ10代だった山崎ハコが見つめた孤独は生ぬるく、その手がつかんだ決意はしょせん頼りないものだった。しかし、彼女の生ぬるい孤独と頼りない決意の歌に、わたしはどれだけ慰められ力づけられたことだろう。

 
このアルバムと引き合わせてくれた国語教師はすでにこの世になく、いまは東京・福生市の墓地に眠っている。わたしはと言えばサラリーマン生活で40年あまりの歳月を重ね、世間からすれば恵まれたほうかもしれないが、当人としては高校生のころにはおよそ想像できなかったくらい山あり谷ありの道のりをウロウロさまよってきた。この間、LPからCD、リマスター版CD……と買い替えながら、つねに『飛・び・ま・す』のアルバムはかたわらにあって寄り添ってくれた。日本の風土が生んだ精神。その意味で、吟遊詩人という呼称が山崎ハコにはふさわしいと思う。


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