論27.人生、生活、そして声

○死

 昔、死ぬことは恐ろしく、自分は死にたくないと思っていました。ですから、他人のために死んだ人は、「すごい」と思っていました。「自分にはできない」と、いざそうなったら自分だけは助かるように動くのではないかと思っていたからです。
しかし、年月というのは恐ろしいもので、今となれば、死も、その頃ほどは怖くないと思えてきました。
昔から怖いことに並んでいて順番がくればそれをしなくてはいけないことがありました。注射とか、50m走とか、プールの飛び込みとか、それと変わらない感じです。親世代だけでなく、同世代の親しかった人と死別することが出てきたせいもあるでしょう。
私が死ぬということは、私にとって、私が存在しなくなるということです。私は考えられなくなります。結果として、私の死も存在しません。
どんなに親しい人が死んでも、それは他人です。死んだら、もう生きている人の心の中でしか生きられません。
逆にいえば、死んでも生きていられるのは、私の死の場合、私以外の人の心のなかです。やがて、その人も死んで、私も消えていくのです。
 つまり、考えるから死があり、考える人がいて、生死もあるのでしょう。
 
○健常者と障害者

社会人になって、人は、明日のことを考えるから悩むのだと教わりました。動物は悩まないのです。一本、足を失った犬をみて、かわいそうに思うのはこちらだけです。その犬は、その条件で生きて不自由を感じないから、憐れむ必要はないということを聞きました。
人の場合、周りの人はかわいそうと思い、本人はそう感じられていることを察してしまうかもしれません。他の人と比べたり失った前の状態と比べたりすると苦しむでしょう。しかし、それを受け入れたところでは、もう自分をかわいそうとは思わないはずです。世の中のマイノリティとしての不便さを感じることは、日々、あると思うのですが、心を病んでいる人よりも堂々として生きている、メンタルが鍛えられた人も多いからだとも思います。
何をもって障害というのか、何と比べられるのか、その必要があるのかが問われます。
誰もが、定年したらフリーになる。いつか親やパートナーとも別れる。体も不自由になるものでしょう。
完全な人間がいない以上、人間=障害者であると思ってください。それにしても、肉体的ハンディで障害と言うことばを使うことに抵抗があります。

○死の存在

 話を戻して、いつまでも生きていたいと多くの人は当たり前のように思います。私は、幼い頃は若くして死ぬ予感と、ここには記しませんが、そうした現実があったので、30歳、40歳くらいまでは生きたいと思っていました。そういう人は生き急ぐものです。
幼くして死ぬ子がいると、とてもかわいそうと思ったものです。でも、かわいそうなのは親や周りの人です。
本人には、死は、存在しないのです。存在しなくなるのに、自分のもっているものも、友達も、命も関係ありません。死んだら関係なくなるのです。
ですから、死があるから生が充実するということは、とてもわかるのにわかりたくなかったわけです。若さも同じです。老いるから若さがあります。
永遠の命や若さが自分にあったらどうでしょう。そうでない周りの人はうらやましがるかもしれませんが、自分にとっては何なのでしょう。
50年の人生と100年の人生は、長さにして2倍違いますが、何だか50年の人生の方が充実していそうにも思えませんか。とはいえ、私は長寿者をそれだけで尊敬するのですが。

○役立つのかという問い

 こうした人生を戦死のように、いきなりぶっちぎられてしまうとしたら、どうでしょう。国のためにお役に立つのが死ぬことだとしたら、私たちは自問しなくてはいけません。何の役に立つために生まれてきて死ぬのかと。    「社会のためにことをなすのは義務」とも言われているのですが、そこに本人の意思がなくては奴隷と同じでしょう。
価値や意味は、他人によって与えられるといったことと混同しがちです。生きていると、人の役に立つときもあれば、立たないときもあります。今、役に立たないとしても後で役立つこともあります。
それは、ある時点で切れば、役に立つ人もいれば役立たない人もいるわけです。
それ以前に、私たちは、役立つために生まれてきたのでしょうか。役立たないからといって生まれてはいけないのではなく、生まれてしまったのです。ですから、ただ生きていけばよいのです。
それよりも、役に立つというのを、誰がどう決めるのか、これがすごくシンプルに国家のためとかになると、それは、地域や家族のためでもあるから否定しづらいのですが、それに誰もが役立つべきだと考えるようになります。ということで、考えなくなってしまうというのなら、絶対によくないことなのです。
役立つと役立たないで人を分けたら恐ろしいことになりましょう。それは歴史を紐解けば、すぐわかることでしょう。

○律する

 日本人が年功序列できたのは、農村社会ということだけでなく、狭い国土でもあり、競争が少なく穏やかだったからでしょう。強いリーダーシップ、並外れた能力のあるリーダーがいなくとも、何とかやってこられたということです。
 どこでも最初は、上の者に従うものです。しかし、人間ですからだんだん慣れてきます。長くいると、どこでも存在は認められてきます。上の者は去り下が入って、相対的に地位は上がります。自分の振舞いも周りに通じていくので、楽になってきます。しかし、そこで、自ら律して厳しくしておかなくては、その外の世界では通じなくなるのです。
多くは、マンネリに陥り、なまけてしまうのです。仲間ができ、同じようなことをくり返すだけで日々過ぎていきます。派閥ができ派閥同士の権力闘争になったりもします。そして、内々で堕して、腐ってもわからなくなるのです。

○堕す

 放っておいてだめになるのを諫める師や友がいるうちは、まだよいのです。しかし、上層にいくと、もはや、相当な覚悟や志のない者は、知らないうちに堕してしまうのです。歳をとると共に先に生きようとしなくなるからです。だからこそ、以前は、孫のことや子孫の代まで考えたものですが。
それが昨今は、多くの組織、特に、伝統のあるところ、スポーツ界や体育会のハラスメントなどに表面化し、みられるようになったわけです。
 その多くは人間関係、なかでも、お金、地位、名誉、男女関係ということです。
宗教では、この3つをきちんと管理します。もちろん、排除もするわけです。そのために、衣食住まで徹底するのでしょう。それを 自ら律するのは、聖人でもない限り、難しいから寺へ修行に入るのでしょう。それは、多くは、大自然の奥地にあるのです。

○参拝と自然

 自然への畏敬を求めて、私はよく旅に出ます。寺や神社が好きというよりは、そこへ至る道のりが厳しくつくられているので、自ずと心身をリフレッシュできトレーニングになるからです。
 マンションなどに住んでいると、わからなくなりかねませんが、私たち日本人もまた、自然の脅威にさらされて生きてきました。今も、下には地震、横には津波、上から豪雨や大雪と。害獣におびえて暮らしていた先祖とでどれほど変わったというのでしょう。
それを忘れるから「想定外の出来事」などというのです。大自然の力を想定して、コントロールしようなどと考えてうまくできた試しがないのです。

○一つの答え

 正しいことを求める人も、それに答える人も、「それが正しい」ということを、どのようにしてわかったのかと疑ってしまうことがとても多くなりました。
その答えやそこへの至るプロセス、手段を売ろうとしている人がいて、それを買いたいという人がいるから商売、ビジネスになるのでしょう。
私は、そうしたビジネス自体を否定するわけではありません。しかし、そんな売買できる程度のものを求めたり、与えたり、教えたり教わったりして、本当に本心から満足できるのかと思うのです。
いや、むしろ、この時代ともなれば、そういうものが満足できるものであって、そうでないもの、正解がないとか答えられないものとか、どうなるのかわからないものなどは、求める気にもならず、満足できないと思われているのでしょう。
こうしたあいまいさをビジネスとか、法外な商売のように言われたこともあったので、あきれてもいたのです。それゆえ、私は、答えでなく、問いを与え続けてきたし、これからもそうしていきたいのです。

○ビジネス観

アートや芸術にも、ビジネスの面はあるし、ビジネスというだけで、とんでもないものだという使い方をするような浅学の人もいます。それでは、相手にもできないし、放っておくしかないのです。会社や企業や商売というのを全て悪行とみなして、労働搾取のようにしかみられない人もいるのです。
そういう人に限って、アートでも成立させられず、そういうシステムを嫌いつつ、実のところ、それに頼って生きているので、さらに恨みを強めていって一生を終えるのでしょう。
私は、アートで成り立たせることの大変さを知っているので、多くの人には早々にビジネス社会でまっとうに生きるようにも勧めてきました。ビジネスは、等価交換なのでわかりやすいからです。
 アートもまた、それでプロとなるなら、企業人と変わらないくらい、世の中や人との関係や価値や意味を把握しなくては成り立たないし持続しがたいからです。文化としてパトロネージして、何とか持続させていくのでも、どこでも精一杯という状況を知っているからです。
もちろん、プロというのは、それで生計を立てることですから、アーティストがプロにならなくてはいけないとは思いません。

○本当の基本

 私は、ここのトレーニングに自分の名もつけていないし、本家とか元祖などということも謳っていません。商標もとっていないし、とる気もありません。
どこよりも基本を行っているという自負はありますが、それは、それゆえ誰もが簡単に得られるものではないことも知っています。
だからといって、ここ以外では得られないものでもないとも思っています。
ですから、専売特許にすることもないのです。名前や方法にこだわっても基本を得られるわけではないし、もし得られたら、それはそれでよいことで、目くじらを立てることでもないのです。
それを免許取得のようなビジネスにしている人がいても、その肩書を目当てに習いに来る人がいて、ビジネスとして回っていても、それでよい人たちなのだと思うだけです。

○消化と昇華

ただ、何か正解とか、唯一正しい方法とかいうようなことを言われると、どうかと思うのです。
人をもって、誰かの名の権威で語られているものなど、所詮、それがなければ何の違いもわからせられない程度のものです。検定やランキング、免状、肩書大好きな日本人のコレクションの対象に過ぎないと思うだけです。 まさに「それで?」です。誰かは、偉いかもしれないけど、そこにいたから、知り合ったからといって何なのでしょう。
 本人の生活や人生のなかにどのくらい染み渡って消化=昇華しているものなのかが全てです。それは、一目で、一聴きで伝わることもあります。何度会ってもわからないくらいのものなら仕方ないではないでしょう。
声は、文化的なものとして応用すると、普遍的にならないケースもあります。声を離れて、せりふや歌で問われがちでもあります。それも発音やピッチ、リズムなど、本来、全く違う観点で見られて、その誤りにさえ気づかれないやっかいなものなのです。ですから、こうして伝えようとしているのです。

○自らを問う

私は、声を表現のレベルでも捉えてきました。生活といっても、人格や思想でなく、リアルに声ということなので、さらにややこしいのですが、問われるのは、声を土台に人生を歩んでいるのかということです。
となると、ヴォイトレなどに関わらないところで、もっと声の基本をふまえ、実践している人たちは、世界中にも日本にもたくさんいます。日本に関しては、ヴォイトレなどに囚われている人の方が、浅く声を扱っているとさえ思えます。
 この分野で、切実に、本質的な問題に取り組み続け、必要なことを学び続け、研究している人は、ほとんどいません。医者は、治療とリハビリのために、トレーナーは、歌の上達やせりふ、滑舌、発声のために、尽力はしているのですが。
そういう立場とそれを求める人の存在は、私は認めています。私がどう思おうと、現実、そこから利便を得ている人もいて役だっているのでよいことです。
でも、たった一つの答えが正しいような思い込みで、他の分野でいうと入門以前のことに囚われているのが残念なことです。そんな答えは無力であり、自らの声がどうなのかという問いこそ必要とすべきなのです。

○一人から始める

 ニュースなどで取り上げられた人がいたら、その人の身になって考えてみるというのが、私の学んだことでした。その身の上に思いをはせ、同情するのではなく、その立場の現実におかれたつもりで対処を考えるということです。
そして、私は、多くのシミュレーションをいつも試行してきました。いざ、そうなったら最良の選択などできない、いや、自分でも信じられないくらい最悪の選択をしてしまうことがあると思うからです。
そして、私などと比べられないほど立派で世慣れした人たちでさえ、そういう選択をしてしまったのをみてきました。そのくらいの人だから、報道されて伝わってくるわけです。
私は、一方的に非難できずいつも誤ってしまった人に同情するのです。非難されるほど、そうした世間を非難したいと、世論に背くアマノジャクに羽がはえたのです。
人は追い込まれたら馬鹿なことをするし、それこそが人間らしいことと知りました。よくない意味でもあるのですが。
選択での愚かさとなると、いわゆる、犯罪者でさえ、非難する気になれず、それは仏教やキリストの教えともつながるのかと思ったりもしました。
それなりに生きていると、一つ間違えば、あるいは、運が悪ければ自分もそういう目にあっていた、そういうことをしてしまったというのは、けっこうな数になります。
全ての困っている人は助けられないと思うのですが、だからといって一人だけ助けても仕方ないと思うのはおかしいのです。私は、全てでなく一人なのですから、まず一人に対していくこと、それで充分でなくても、それからでも始めることだと思ったのです。

○理論とコントロールの前に

 伝統、文化、教育、環境、それに観光を入れると、今の日本でよく使われるキィワードになるでしょうか。最近は、何にでも科学的とか科学といって、理系の頭で賢く考えられた理屈、理論をもって、何らかの正当性を与えようとします。
スポーツには、物理的な力の計測で把握できる面が大きいので有効でしょう。ユニフォームや靴、用具などと共に、選手の実力に何%くらいかプラスできると思います。
しかし、アートにおいては、関わり方としてみると、自分に必要なもの、大切なものにどう活かすかです。それを徹底していないのをどう使えるというのでしょうか。
まず力をつけ、力を出してみることです。コントロールとは、自分での抑制、自制です。力をつけるのと調整するのを逆順にしてはなりません。

○もの

 声への態度、声のあり方、関わりのもち方、これについては、他の所のヴォイトレ関係の人から聞くことは、ほとんどありません。
声をどう使うのか、みせるのか、どの声がよいとか、どう声を出すのかとかから始まっているからです。それは、実践であり、声からでなく、相手との関わりから決まってくることです。
それに対して、基礎を固めていけば自ずと求められるように出る、それが私の声へのマネジメントです。出るまで待つものです。
その栄養は聴くことです。表現から、ひびき、声、息、体を引き出すことです。歌手なら、歌が中心となりますが、役者、声優も、ことばと共に声を聞くことです。声との関わり方が問われるのです。
心身が欲する声、身としては、それは飢えたときの食べ物のように、体からの声が必要です。そして、美食グルメのように、心からの声を求めます。声は、感覚と豊かなイメージに支えられています。感覚とイメージなしに声もヴォイトレもありえないのです。
 食べて声を出す、食べないと声は出ません。しかし、声のために食べているのでしょうか。睡眠も、同じように問うてみてください。
生活のなかの声、生きることでの実践の声が、少しは身に近く感じられるでしょうか。

○気と志

 その気にならない限り、どうにもならないのですから、その気になるまで待ちます。そうなりそうなら、その気にさせることもありますが、この時代、無理には押し付けません。
それは、愛情のなさ、自身のなさ、責任のなさからくるのかもしれません。
誰しも、次の時代に対応させられるように育てるといえるほど確信がもてるわけではなく、他の選択肢も増えたのです。「いま」「ここで」「自分が」「絶対」というのが弱まったために、一点だけ凝視して励めないのは、私も、ここにいらっしゃる人も、同罪です。
「その気」とは、志でもあります。その気になっていない人には、どんなトレーニングも何ら意味がない、後に効くのは後に気づいたらですが、ハードにトレーニングだけなら暴力まがいになりかねません。ヴォイトレは、人並外れた体力、筋力をもって有利になるスポーツではないのです。肉体的、物理的にはそこまでハードにはなりようもありません。

○自己満足から抜け出す

 「こんなにやったんです」と言う人が、何年かに一人くらいいます。本当にやっている人は言わないので、これは、口に出して言う人のことです。心で思っている人も入りますが。「できない」というよりは、思ったほど「認められない」ということへの不満もあるのでしょう。本人としては、「できた」とか「けっこうできている」という感じもあるのでしょう。
日本の教育は、他の国の教育のよい面を表だけとって「褒めろ」「認めろ」「励ませ」と大転換したので、そうして育った人は、外からの上っ面のことばがなくては実感できないのでしょう。すると、トレーナーもそれなりに合わせなくてはならなくなります。
続かなくなる、やめてしまうなら、引き受けた以上、失敗になりかねません。中断して何も身につかずでは、お互いの不利益であるからトレーナーも、時流に沿って導くことに専念します。
でも、一言でいえば、「変わったのか」です。それも「変わった」とは「違ってきた」ことで、その違いをどういうくらいにとるのかです。だから、難しいのです。

○伝わるレベル

違えばよいというのなら初日の一コマのレッスンでも違いは出ます。初心者の半年くらいなら、違ってくることでは、もっとも大きな幅となります。
学校の教室で全く先生の話を聞かなかった子が、先生の話をじっくりと聞き、予習復習をしたくらいの差はつきます。0~30点の人は、簡単に60点くらいになるのです。
トレーナーは、それを認め、褒めたらよいだけという人もいるのです。そうしてもいるのです。2、3倍の効果が出たとか、30~50点上がったといえるのは、しっかりとやっていなかったのをやったというだけです。
しかし、求めていることは、そういう大雑把な変化をするレベルとは次元が違うのです。際立って変わらない限り、やさしいトレーナーは認めても、世間は、業界は認めてくれないのです。それは、80点を90点にしていく、1割アップに何年もかけていく中レベルから上の世界です。
トレーナーの念頭に世俗の上の水準がなくては、仲間内のトレーニングと同じことではないでしょうか。人に伝わらないくらいの変化をいちいち変わったと言っていては、真に変わる必要を感じなくなるかもしれません。それに必要な努力の必要を感じ、伴わせていけるものかとも思います。
人に伝わるほどに変わった、それだけのものが生じたなら、周りの人にもすぐにわかります。何よりも、本人が感じます。トレーナーは、そこでは、何も言わなくても頷いていればよいのです。

○実体としての声

 その人の求める度合いによって上達も変わるのです。声は、わかりにくい基準でもあるので、トレーナーが導くとしたら、そこだと思うのです。
「声は、わかりにくい」と言ったのは、気分次第でよくも悪くもなるくらいのあいまいなレベルでみているからです。気分次第のよいなど、全くよくないと断じてこそ、際立ってよいというのが少しはわかってくるかもしれません。
できてもいないのに「できた」と言うトレーナーは、「できているのでは」と聞く人をつくり出しているのです。
他でのレッスンのキャリア10年と言ってここにいらしても、初心者と何も変わらない、声どころか呼吸さえ、これまで何をしてきたのかわからない、大した声も出てこないという例が、普通なのです。
歌ってきたというなら、もはや日本人は皆、カラオケで歌っています。そこでの違い、何をできているのかを示さない限り、キャリアではないでしょう。
 変わったというのは、伝わることです。声において、こんなにわかりやすいことはないのです。
お腹から声が出ているでしょうか。「声は、わかりやすい」のです。私が、体や呼吸よりも声をベースにして、生きるゆえんです。
呼吸の達人は、確かにいるでしょう。でも、呼吸は、みえないのでわかりにくいです。多分、呼吸をみなくとも達人なら気でわかるようにも思いますが、声は嘘をつきません。みえなくても、聞こえる、実体だからです。
 その点で「悟り」とかよりもよいと思います。でも「悟った」人は、悟ったなりの答えを返してくれます。悟ると、何やら悟った坊さんらしくなります。それでよいと思うのです。

○感受する

 死を強く意識すると、全てのものが変わります。いえ、みえ方が変わるのです。大切なもの、重要なもの、幸せなものしかみえなくなるでしょう。くだらないこと、どうでもよいことにかまっていられなくなるからです。
 不幸や悲惨、地獄としか言いようのないことの続く世の中で、どうしようもない不条理を認めるには、そうした発想の大逆転しかないのでしょう。
毎日のように理不尽なことは起こっています。しかし、感受性が鈍いから正常でいられるのです。その「正常」は、もはや異常です。こうして、いつも、どこかで論じられてきたようなことを、今さら、ここに浅学の私が述べても仕方ないでしょう。
とはいえ、そうしたものは、誰かが常に掘り出し、捉え続けないと滅びてしまう、そして、さらなる不幸を呼び込むのです。
 よく、「祈り」しかないということが言われたと思います。しかし、祈りの後も人は生きるのです。そこでどう変わり、どう生きるかなのでしょう。そうした状況の中にしっかりと浸って、しっかりと歩もうという覚悟をもつことだと思うのです。

○研究する

研究はしているつもりですが、まだわかったとは到底、思えないから、研究し続けています。ですから、「わかった」などという輩をみると、ありがたく拝聴してみるのです。
言っていることを聞いたり、論文や本を読んでみるのですが、どうしてこんなことで、「わかった」と言えるのかがわからないということだらけです。この分野は、不毛なのかとさえ思えてきます。
宗教とアートは似ていて、科学によって測れるものではないというのが前提です。そのうえで、医学や薬のように、条件を区切ったところで役立つこともあるし、役立たないとわかることもあるのです。だから、無駄ではないと思って、そういうこともサイドメニュとして学んでいます。

○正解と邪念

大きな誤りは、科学で説明できる分野にアートをもっていこうとしてしまうことです。そこで、もうアートと関係なくなっているのに、何か真理や正解があるように語られることです。
それ以前に、正しいこと、新しいこと自体には大した価値はないのです。基本というのなら、こうして浅く切り取られたノウハウが出ることで失われていくと思っておく方がよいと思います。
私の研究は、そんなことはどうでもよく、生きていくこと、人生や生活、ステージにおいて大事なことの元になることです。しかし、そうしたノウハウだけではどうにもならないことを知らせるためにノウハウを語ったり、書いたりしているのです。
余計なことを考えるなと言っても考えてしまう頭には、とことん考えさせて邪念を払うしかないと思うのです。
考えるべきことを考えましょう。

○生きがいと道

 私は、ヴォイトレをライフワークとしていますが、生きがいとは思っていません。そんなに楽しいものでもないし、ほとんど充実しているわけでもないのです。ただ、今まで、それをやってきて、やり続けているという状況を受け入れて生きているのです。
 つまりは、やってきてしまったし、やっていくだろうというなかにあるので、生きているように、空気を吸っているようにリアルなのです。
 だからといって、仕方ないとか、やむを得ずやっているわけでもありません。他のことに比べたら、この生涯、もっともエネルギーを投じてきました。今もかなりのエネルギーを投じていると思っています。
声道とか声禅とでも言いたいくらいに、研究所は、私の道場です。その時間は、この世に投げ出され、生き急いできた私の、唯一の休み処でもあります。だから、安易にここには来ません。
ライフワークであることで、もっとも中心にある活動が休み処というのは伝えにくいことです。しかし、私には、他の仕事やレジャー、旅、映画など方が活動、運動のようなものに思えるのです。休んでばかりでは身体によくないので、スタジオを出て旅するのです。

○続ける

こうして体験を意味づけてこそ行動が変わっていくと思うのです。行動が変わってからの意味や価値が問われるのでしょう。よくわからなかったことを悟るようになる、ことばがみつかる、あるいは、つくり出して伝えられるようにしています。そこに創造、そこから表現として問われるのです。
自分自身の体験は具体的ですが、それも語れるようにしないと他人に伝わりません。共有してもらわないと共感されません。価値も認められないし、生じません。
 それが数回で全て終わるのでは、「正答がありました」で、人生も終わりです。そこから問い続けるのです。いつも始動するのです。

○忍耐

 自由で何をしてもよいといっても、そこには承認がいるのです。承認する人たちと自分とは必ずしも平等とはいえません。
どこかに入るにも不法侵入になり、捕まると自由を奪われます。居住一つでも、借りるとか買うとか泊めてもらうとか、お金とか許可が要ります。所詮、人が以前に認めた約束事に過ぎませんが。
 何よりお互いにということで他の人の自由も認めるのです。それは、自分の不自由になりかねません。そこで他人に寛容にならなくてはいけないのですから、自ずと忍耐を強いられるのです。
一方的に誰かだけに、その不利益が偏らないようにフェアにしていくのが、人類が英知で生み出した制度ではあると思うのですが。

○罪と業

 したことを背負っていく、罪は、刑務所で務め、許されても、業は残るのです。しかし、人類は、「許すこと 赦すこと」で歴史を動かし、少しずつ不幸をなくしてきました。人は、罪を犯してもきましたが、救いをも求めてきたからです。
少しずつでも、人類は、よくなっていると思っています。それは、すごいことですが、いつも同じ過ちをまた犯そうともしています。そして、少しずつ改めていっているのに、地球がもってくれるのか、ですが。

○覚悟

 問題には、直面して、それに向きあい、とことん取り組む覚悟がいります。
 こうして書いて、おもしろくもないから、読んでもおもしろくないはずですが、書いているのだから、その行為は私には嫌いではないと思われます。

人でなく、その真理を信じることです。
もう一人の私とのズレをみることです。
選んだ生き方の全う具合を知ることです。
行動を律するのは初心によるところが大です。
見据えて今を問う、継承して見直すことです。
人の様、他人との関わりをみることです。
人と出会い続けていくことです。
思いの共有と思いやりに思いをはせることです。
死を目前にすると必然なことが迫ってきます。

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