論26.声と哲学

○哲学する心

 梅原猛氏が亡くなりました。私が哲学に、そして美学に興味をもった最初が「哲学する心」という氏の著書でした。そして橋本治さんも。
自分が何者なのかもわからないときに、何で生きていこうかという現実に直面するときに、人は考えるのでしょう。それは、哲学しているのです。

○沖縄文学のリーディング

 石牟礼道子も亡くなりました。水俣のことを小説にした人です。その名を久々に聞いたのは、臼井さんにお目にかかったときです。目取真俊(めどりましゅん)という芥川賞作家の作品の読書会でした。沖縄文学といっても、戦後の反戦、反米文学です。いろんなことを言われましたが、とにかく「戦争をしてはいけない」と。強く厳しい眼尻で説かれました。
そういう体制になったらどうしようもない、奄美大島の2000人のキリスト教信者も20人の日本軍兵が上陸するなり改宗してしまったと。
氏も信者なのですが、「私もそうしてしまうと思う」と。だからこそ、その前に、芽を摘まなくてはいけないと。
市井において、そういう生き様を、全存在をかけて、ことばと声を使う人に久しぶりにお目にかかりました。 そういえば、こういう人、ことばと声と説得力の一致する人が少なくなったと思うのです。

○同じ別世界で

 私が20代でドブロブニクに行ったとき、そこで知り合った人2人は、わずか数年後にユーゴスラビア紛争に巻き込まれて、敵味方になって戦いました。それ以降、連絡はとれていません。
私も、10代まで、戦争などは特別なことで、自分とは別世界のことと思っていました。今よりも世界はずっと広かったというか、別世界と別の存在のものといった方がよいでしょう。ベトナムもカンボジアもアラブも、戦争をしていたのに、とても遠かったのです。そして、そこにいる人も。
日本も、明治になってからだけでも、幾度となく戦争をしてきました。第2次世界大戦後は、主体的には行っていないだけなのです。

○重なり合う

私は、50年生きたとき、明治が、生きてきた期間のわずかに2倍くらい前のことに過ぎず、戦後といっても、決して他人事ではなかったことを改めて思い知ったのです。そのとき、50年前ごとに何があったかを500年前まで調べました。その500年を4倍にしたとき、AD以降の人類は、親しい存在になりました。
空間の方は、地球の裏側、何回かブラジルやアルゼンチンまで二日がかりで飛行しているうちに、地球上の人間全てが、身近な存在になりました。
決して、自分と違うから、自分のあわなかった悲劇にあったのだと分けられなくなったのです。どんなことも、自分や今の日本人に起きておかしくなかった。というのは、阪神淡路大震災と東日本大震災で、まさにリアルになりました。関係者が何人か巻き込まれたからです。
そこまで、かなりの時間がかかりました。何という想像力と共感力のなさだったのでしょう。

○事由、または事情

 生き難く不条理で不可解なことは、この世にいくつもあります。眼を開き、関心をもてば、すぐにでも生きづらくなるほどです。それでも、一人ひとりの経験は固有のもので、いくら聞いて寄り添ったつもりでも、その人に成り代わることはできません。
 研究所では、「ここに“すべて”を賭けて来ました」そんな人もたくさんみてきました。そのうちの多くは、そういって自分を追い込む、あるいは、こちらを本気にさせようという意図がみえました。いや、30年ほどやってきたら、みえるようになりました。
それでは続きません。意気込みが息切れして続かないことで、結果としてわかります。私も、10代より“すべて”を賭けているつもりだったので、こうした“すべて”の程度はわかっていたつもりでした。
同じような経験をしても、そこからどういう意味を見出すのかは、人それぞれに違います。まさにその意味こそが問われます。

○私の哲学

ここにいらっしゃるまでの経験、そんなものは、私は問うてはいないのです。しかし、そうして語るのを聞くのも必要なことがあります。でもその意味を語れる人は少ないのです。そういう人は続きます。続くことで、結果としてわかります。
ここで、それに、ことばを与えられたら、それが歌になれば、あるいは、ことばにならなくても声になれば―と思ってきました。そういうのが、私の学んだ、というか、実践していく哲学ということかもしれないと思うのです。これまた、続いてきた結果でわかってきたことです。

○経験と意味
 
「なぜ、ここに来たのか」と「どうして、ここに来たのか」は、似ているようで違います。「なぜ」は理由、「どうして」は由来です。意味と経験の違いともいえます。「何のため」と「どういう道を経て」といえばよいでしょうか。
 「なぜ」は「何のため」「何の目的」で、「何をしに」「何をするために」「何をしたくて」と派生していきます。未来へつながっていきます。
相手の身の上話を聞くことは、自らの身の上にこういうことを考えることになります。つまり、経験からの処理です。それは、自らの経験の中でしか、相手を理解しえないからです。だからこそ、私は、私の経験の中だけで位置づけてはよくないと思ったのです。
「私もそういうことがあったよ、でもね…」方式で応じるのは、けっこう安易にできることです。
若いときに研究所を始めた私は、それは避けなくてはいけないと、なぜか思ったのです。
今、考えると、「私も…」といえる経験も不足していたし、私の学んだ結果を教えるのではなく、私と学んでいくプロセスをスタートさせるところからだったからです。
ですから、教室でなく、研究所なのです。今も未だ浅学ゆえ、同じ考えです。でも、こうして、少しずつ理由を語れるようになってきました。

○決め事

 この世界がそのようにあるのは、そのようにみているだけです。つまり、みる人によって違います。みるときの気分でも違います。しかし、それでは世の中、お互いに生きるのに、いちいち大変です。そこで、いろんな決め事があります。そして、大体は、それで動くようになっているのです。
そこで順応しやすい動きやすい人と、そうでなく動きにくい人が出てくるのは当たり前です。
それが多くの人に長い間、息詰まるほどに生きられないほどになると、革命や一揆や反抗となります。それに伴って悲劇が起き、ときに動きやすい人と動きにくい人が入れ替わります。
保守と革新の入れ替わりみたいなものです。そうした政治の転換は、どこでも生じてきたのです。なら、自ら後先考えず変えてしまえ、ぶっ壊してしまえというのがアナーキーです。多かれ少なかれ、大体の人は、そういう心をもっているのです。人間ですから(しかし、アナーキーでは入れ替われないので、失敗して最悪の独裁になったりするのは、歴史上の必然です)。

○約束事

個人でみると、反抗期などというのも、その一つの表れでしょう。世の中には、慣習、習慣、決まり、ルールと、生活のなかに従わなくてはいけないことが満ちています。
それは、区別であり分別です。民族、国、性、年齢と、いろんな属性があります。住民、地縁、親子孫、血縁というつながりも、約束事です。ですから、約束を破る人もいるのです。
あなたも私も、大体は約束を守っているでしょう。しかし、それを破ることもできるわけです。
 しかし、大半は、体制のなかで、そんなことを考えず気づかず、まして、実行せずに生きています。それを破ることは、より生きづらくなることだからです。そんなことができると考えることが救いになることもありますが、生きづらくなることが多いからでしょう。
先の政治体制でいうと、これまでと入れ替わるもの、動きやすいものがとって変わらないと失敗するということになります。
 この約束事が世間であり、常識です。でも、それは決め事ですから、破ることもできるのです。

○青春の蹉跌と脱サラ

家での約束事なら、若いときに、それに逆らったり家出した人は少なくないでしょう。家や親という体制があったから反抗したのでしょう。
自分の夢や生きがいを求めて、他を批判します。しかし、自立というのは、自己完結できるものではないのです。自己以外のものとの関係で新しいあり方をつくり出せなければ、居場所はないのです。家に帰ります。
サラリーマンが独立して失敗するのもそのパターンです。独立しても、新たな人間関係がつくれなければどうしようもないでしょう。どちらにしても、同じであろうが異なろうが、体制の下に自ら組み込まれていくのに変わりはないのです。

○苦行と修行

目的は、「○○のためにする」のですが、必ずしもすぐにうまくはいきません。すると、ただ、生きていることが意味をつくるところで底を打てないと、自殺しかねません。
ここで、「なぜ」という目的、意味でなく「どうして」という経験が支えるともいえます。
ともかくも、結果として、生まれて生きてここにいる、目的ではなく、存在に意味を支えさせることです。
苦行と修行は違います。苦しいのを我慢しても仕方ない。あきらめるということになります。それは従うとか、無駄といった運命論ではありません。選択するのです。
常に同じで変わらないもの(=我)などないのですから、そこから自己を見直すのです。

○属性と関係性

 ようやくことばを覚え始めた頃、自分の名前を呼ばれると、自分がそういう名前だと思い、「○○ちゃん」と自ら自称します。「ぼく」とか「わたし」というのは、人称代名詞、自分の代わりに置き換えて、使うものです。そして、名より名字(氏)を名のる方が多くなります。
子供なら「○○さんとこの子」となります。そうして、その属性に、他人が期待する役割に応じていくのです。 つまり、役を演じていく、というと月並みな言い方ですが、役割を演じるとともに、仮面をも被っていくのです(ついでにいうと、人とモノの間でも同じような関係が生じます。モノも因果もどうみていくかということによるのです)。
他人との関係で自分が決まってくる、その関係をどうつくるのか、人間=人の間と書くことの謂われです。

○対等と多様

人類の歴史が「人間を対等(同じ)に、かつ、多様(違う)である」のを認めようとしてきたというのなら、そこは、大いに称賛できることです。
それがうまくいくのかは、異なることに、どこまで耐えることができるかによります。特に、これまでの約束事を変えるとなると、当初は、かなり大変なことです。
その受容を苦しむか楽しむかになっていくのでしょう。その受け止め方によっては、この世の全ては、苦しみとも楽しみともなるのでしょう。

○実存

 誰もが様々な条件を引き受けて生きています。生まれた世の中も違えば、生まれ、育ち、年齢、性別、顔、スタイル、体、頭、心、能力、性格までが異なっています。 それをとやかくいうのではありません。それらを業や運命という人もいます。
しかし、その多くは、どうにもならないことではありません。それによって全て決められていることはなく、それにどう対していくかが求められていることが多いのです。
「運命に従うのではなく、主体的に生き方を切り開く」というのは、私が若いときに流行していた哲学です。

○ことばからの人を信じる

 人を信じる、人のことばを信じる、本当のことや真実を求める、この3つは、同じようでいて異なることです。ここにいらした人も、何かを信じてきたことでしょう。
真実は、科学で証明できないことですから、その人のことばを信じるしかありません。
「私を」ではなく、「私のことば」を信じたのなら、よいと思うのです。少なくとも、科学的に正しいということばよりは、ずっとよいことでしょう。

○残ることばの向こうへ

私が死んでもことばは残ります。私のことばとしてではなく、私も忘れ去られて、ただことばが残るとしたら、そのことばに真実があるのです。ユーミンも、「私が死んで忘れ去られても、“詠み人知らずの歌”として残っていくことが理想」と言っています。そして、きっと、そのことばの意味するところは、私たちの生まれるずっと前からあったはずです。
ことばが、そのまま真実というのではありません。ことばに、真実に触れるきっかけとなる何かがあるのです。 ことばから想起されるものを信じる、私からいうなら、それは、ことばを支える縁の人の声そのものなのですが、リアルな声でなくても心の声でもよいと思います。私が、伝わらないと知った上でことばにしたためるのは、そのためです。

○説明しないこと

私を、こうして、わからないなりに動かす力があって、それが、ことばになります。誰かに作用したとき、その人が「私を」信じたら私は説明しなくてはいけなくなります。私を私が説明するとしたら、そのために嘘が混じりかねません。自分でわからないのに語らなくてはいけない、納得するように説明する役割を期待させられるからです。
それがずっと残ったり、伝わったりしていくほどのものなら、それは私に説明できるほどつまらないものではないはずです。

○わかる

 トレーナーは、少なからず、レッスンにおいて、相手の心身を特別な状況におくことになります。すると、意識が変じて「わかった」という人が出ます。それが、多くのビジネス、占いやカウンセラーの売りになるから、多用されています。早くわかることを期待して来る人が多いせいでもあります。
 「本当の声、真実がわかりました」と言ってもらえることがあります。それは、本人によければよいと思います。安っぽいカウンセラーのように、共に感動し、共感し、認め合ったりするほど、私は親切にはなれません(本物とか真実などを感じることに意味を見出さないというのではありません。それを常に究極に、私は求めています。それが生じたら、ことばなど出ないでしょう。いらないでしょう。ただ、感動を分かち合うだけだからです)。

○役割

そうした誰もが手軽に味わえる異次元体験は、刺激としてよいこととも思います。しかし、それが世の中に、相手にどう役立ち意味をもつのかにしか、私の本当の関心や意味はないのです(言うことはかまいませんし、そうした気づきは共有したいものです)。
もちろん、私は、あなたがそれに意味をもつと感じ、あなたに役立ったというので満足してもよいと思うのです。あなたの求める私たちトレーナーの役割としては充分です。
私は、カウンセラーではなくトレーナーですから、あなたが世の中に意味を、価値をつけてこそ、学び、気がついたことが活かされてこそ、第一のステップと思うのです。
それで「わかった」と悟ったようなことを言われても、「それで?」です。それは、入口の1ステップに過ぎません。いや、入口のある方向がみつかったとか、入口というのがあるのに気づいたというくらいです。それからなのです。私たちがあなたに役立ったのなら、嬉しいことです。しかし、本当は、それをあなたが世の中に役立ててこそ、本当に喜べるというものです。

○宗教

最近、多くの洗脳者が自覚もなく、そんなことで全能感を与えて褒めたり認めたりして同士を増しているような世相なので、少し言い方が厳しくなっているのはご容赦ください。
私は「オウム」事件を思い出してなりません。あの件以来、私のなかでマントラ“Aum”は、純粋に保てなくなりました。「A-」「-M」については、今は、音声学で、乾いたままに処理しています。
 麻原は、宗教で、政治、社会、科学まで絡めて、ことばとパフォーマンスをもって、ある特定のエリート層を洗脳せしめ、社会的事件を起こしたわけです。
それは、その力にさえ及ばなくなった現代の宗教、哲学、芸術のリアリティのなさを証明したのです。特に、知識人、宗教人、学者までが、見抜けなかったどころか、称賛さえしていたことへの不信は、今もって尾を引いています。

○自立の基礎

 研究所では、自立させるために必要な基礎を与えるところでありたく思います。それは基礎のための基礎でなく、世の中に、他人に対して働きかけ、価値となる、役立つ、意味をもつものとして通じるものです。それが技術、テクニックと言われることはあります。しかし、テクニックのためのテクニックであってはなりません。

○「その中で」

 YouTubeなどでのノウハウは、まさにそういうことでは、お手軽で安く(ただ)、ゆえに安っぽく、大して何にもならないものです。それを見抜けない人も多くなったのでしょう。その中では、どれがよいのかと質問してきます。
「その中で」ということがわかっていないのです。「その中で」というのは、本人が選ぼうとして選んでいるのでなく、選ばされているのです。それが特殊な狭い枠内ということを考えられなくなるのです。ゲームで勝てば人生もうまくいくと思っているようなものです。文明の利器を利用するのはよいことですが、これでは利用されているだけです。ゲームは、それをつくり出したり売ったりしている人の手の内、「その中で」で踊らされているだけです。そこでトップになろうとビリになろうと、何ら変わりはないのです。人生でうまくいった人が、お金を気持ちよく使い世の中へ回るのにギャンブルは有用なのだと思いますが、依存している人は問題外でしょう。
ときに、うまく使い分けている人もいます。しかし、そういう人は「どの宗教が私にはよいですか」というようなことは聞かないでしょう。聞かれても、まともな僧なら答えないでしょう。あなた自身の心の問題です。

○教えるのが生きがい?

でも、世の中は、そうまでして答えたい人、教えたい人、そういう仕事に就きたい人が多いようです。そうすることで意味や価値を得たい人が教えるのです。ですから、これは教えるという形で相手に与えるのではなく、相手から得ているのです。そういう人は、それが生きがいなのです。
教えるのが生きがいという人は、その熱意で相手を教わるのが生きがいにしてしまうのです。
その浅さで成り立つものは、他では成り立たないのです。せいぜい、その2者間が、さらに浅いところにおいて、です。100パーセント教え切れたところで、クローンをつくるだけです(私は、「ミニ福島」などが出るのは、ゾッとすると言ったことがありました)。
それをいつまでも拒まないのなら、それでよいともいえます。共に生きるのもよいことでしょう。
しかし、本当に共に生きるということは、死ぬときも一緒ということです。
命を賭けてしているのか、なしたのか、そこを、後世の人は、みているのです。2者間で、ないしは「その中」でクローズしていては、誰もみられないのです。

○修行

麻原の死刑には、カリスマ化され永遠の偶像として布教が広まるのを心配する声がありました。しかし、彼は情けない形で捕まり、その後の裁判でのさらに情けない態度でしたから、冷めて離れた信者もいました。あれだけ他の人を巻き添えにしたのに自分の命を惜しむところを見て、信心も吹っ飛んだことでしょう。捕まる前に死することもなく裁判で主張もせず、本性を現してしまったのです。そこでこそ、彼は、世の中に問うべきだったと思います。
修行といっても社会と切り離されるものではありません。社会に、より大きなものをもたらすための基礎作りと応用の勉強です。
昔、アウトローだった人は、エリートとか普通の生き方というレールが約束事のようにあったから、そうでない生き方を選んで、そう思われていただけのことです。で、エリートは、その逆に憧れだけです。

○基礎とは何か

「トレーナーがいうことを鵜呑みにするな、しかし、一度はきちんと飲み干してください」と言ってきました。というのは、自分で考えないで基礎をつけるのでは、その先に使えないからです。
 声を使うのは応用ですが、それは、発声とかせりふとか歌という技術のことではありません。それは基礎のなかでの応用です。世渡りというのが、基礎からの応用です。
社会に通じること、仕事がきて、それが続くこと、それがプロです。アートの領域に入っているなら、大したものです。
そこで成り立たせられる人は、基礎をどうこう問われなくても、本人に自覚がなくても基礎があるものと私は思います。うまくいっているのなら、基礎はあるのです。 いや、うまくいっている間は、基礎として働いているものがあるのです。

○プロシンガーの基礎

日本のプロシンガーの多くは、ここにいらっしゃると「歌唱の基礎がない」「きちんと勉強してきていない」と言います。音大や声楽の基礎を念頭においているのでしょう。
しかし、私からみると、歌唱の基礎は充分すぎるくらいあります。そうでなければ、歌のステージに人は集まりませんしお金もとれません。ただ、最近は、他の要素に負っていることが多く、発声の基礎がないということが大半ということです。
オーディションや試験に合格する一定基準での基礎などは、ある目的とかある期間に限ってしか通用しないものですから、基礎とさえいえません。
こうしたことを広くみるなら、『日本で通用しても世界に通用しなくては基礎ではない』ということです。20世紀に通用しても21世紀に通用しないことでも、同じです。

○したいこととすべきこと

「したいことを自由にしてください」とは言いません。したいだけでするのは、自分の理由だからです。自分の気分次第の理由では足りません。頭で考えたものは、頭で考えるのでブレます。
それを知るために、興味のあること、したいこと、なりたいものを目指して始めるのはよいことです。
初恋のようなもので、破れてこそ次に活かせる経験になります。そのまま叶うことは少ないというのは、自分の一方的な思い込みだからです。恋は欲とは、よく言われます。自由=したいことなら、まさしく単なる欲です。
義務、使命といえるようなこと、すべきことをすることです。それを自由と考える方が的を得ていると思うのです。

○あちらからの価値

 「歌いたい」から「歌ってみた」それでよいならそれでよいのです。YouTubeもカラオケも、使いようによっては、個人の認証欲求を満たしてくれます。しかし、そう長くは続かないでしょう。ただ、日本人は、芸より人に集まるので、歌や声の価値を切り離して論じられなくなっています。人に嫌われるほどすごいプロが本当にいなくなりました。
多くの人に長く聞いてもらいたいとか、売れたい、それで生活したい、となると価値を問われるのです。こちらが聞いてもらうのでなく聞かせて欲しいという、あちらがいなくては成り立たないのです。
 自分が役者や歌手になることを選ぶのは、選択の自由です。しかし、それは、ただ選択の自由を行使しただけです。実力が伴わなくては不自由にしかなりません。周りを幸せにできる価値を自分にもたせなくては、不幸にしかなりません。
歌もせりふも声も、相手を幸せな気分にも不快な気分にもします。価値をつける訓練をして高めていくことに専念していきましょう。
すべきことをせずには、したいことは成り立たないのです。
「○○してみた」をアップしたというなら、そういう人はたくさんいるわけです。誰でもできるのです。とはいえ、親しい人以外はみてはくれなくなると思います。

○できることから

 会社で働くことが「気楽な稼業」であり続けるとは思いません。もし、その価値を安定収入だけにおいて思考停止して生きているのでは、自己満足狙いの歌い手と似たようなものです。しかし、収入に見合うだけ世の中に貢献しているから続いているという点で、否定しているわけではありません。
むしろ、したくもないができることから入り、そこで価値を高めていることに注目すべきです。その後に、すべきことを見つけて極めていく人も中にはいるのです。ビジネス、仕事から入るのは、「その中で」を破る有効な方法でしょう。

○論ぜず悟らず考える

 「それがどうした」「それでどうした」などと言いたくなるような、つまり、その先を聞きたくないような話をする人は少なくありません。
 私は、同じ質問攻めにあうことに飽きてQ&A本の出版の後、Q&Aの専門サイトまでつくりました。
とどのつまり、誰にも共通の答えがないので、同じ質問をされても同じように答えるわけにはいきません。
まず「やってみましょう」であって、そのために情報交換するのです。主体的に問いを交えていかないと先に進んでいきません。
そこは、相手の気分をなだめ、落ち着かせて、楽観的な答えを質問に返せばよいカウンセラーと違います。誰をも勇気づけ、褒めたり、励ましたり、喜ばせたりするのが得意なトレーナーもいます。いえ、とても増えてきましたし、そのタイプでの応対が求められる時代となってしまいました。
しかし、実践の方法を示し、実行を勧め、そこに可能性や希望をみて展望を語るのが、大切と思っています。
 わからないものは考えるからわからないのです。問題にするから問題になるのと同じです。ですから、考えないという手もあります。しかし、私は、考えない人をうらやましいとは思えません。考えるのは、苦しくも楽しくあるからです。人間だから考えるのです。

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