論16.鍛える

○能力の開発

 仕事のITによる効率化の反動としてだけではないと思いますが、どこでも誰でも心身の解放の必要性が高まってきました。身体の緊張、心の抑圧をどう解放したらよいのかがわからなくなってきたのでしょう。そこで、心身の解放、柔軟性を取り戻すものが求められるようになりました。で、早く楽に誰でも同じようにできるもの、という効率化狙いになって、いろんなものがブームになっては去っていくのが現状です。しかし、実のところ、マンツーマンのレッスンでもワークショップなどでも、かなり特別な状況においての気づきを効果にしています。

 あなた自身を早く変えるとしたら、あなたに入っているものを新しく異なるものに置き換えます。この時に、トレーナーのなかには、これまであなたに入っているものを否定する人もいれば肯定する人もいます。否定した方が早く大きく変わるし徹底します。が、自己崩壊のように思う人もいるし、周りの印象がよくないので、今は、肯定するトレーナーが多くなりました。そこまで責任も負えないし、時間をかける方が本人のためにもよいからです。それで、依存を高める方向にいきやすいのです。

○出力より入力

 あなたに入っているものがだめなのでなく、絶対量として足りないことがほとんどです。それと、本人が自ら限っている能力に、可能性があるから引きだし、高めたり、それに気づき取り出したりする、そのことで変わるというのは違うのです。自分のものが20あって、10は出ていて、10は出ていないから、残りの10を出します。出し切れたらOKというなら、自己啓発です。人は脳の3~7パーセントしか使っていないとか、潜在能力とかいうことで知られてきたことです。

10から100が出たら大変革です。普通は、そこに90を入れないと出てきません。それを50しか入れずに出せるなら、その人の才能でもあり、綱渡りでもあります。そうして、もはや元の10があるのかないのかなどわからないようになると、問うても仕方ないのです。それを上書きしたといってよいでしょう。

○結果をみる

 私は、結果をトレーナーのもつレベルを追いつき超えたか、異なるものとなったかでみます。ある部分についてでみてもよいです。そうでないのは、趣味、お稽古事です。それでもよいし、自己の意志か、依存かを問うても、目的が自己満足なら本人がよければよいのです。

 一人前、一流レベルになりたいのに結果としてそうなれていないのなら、この指導の体系を厳しくみる必要があります。

 私が嫌うのは、トレーナーが「よい人」でありたいために、ほめて、能力のない人、いや、能力をつけられない人をまわりに侍らせ、数を誇るのに、そのまま、心地よい人間関係だけでつなぎとめているパターンです。まさにファンクラブづくりです。

○身体意識の向上

 発声の体感としては、寄りかからず開かれるようにする方向で、腰から決まることを目標にしてください。

 四股から肩入れは、イチローの打席前の一連のストレッチ運動で有名になりました。体勢が崩れても簡単には転ばないバランスの調整能力は、ふしぜんなフォームで粘るような鍛錬で成しえます。

身体意識の向上に、歌舞伎では六方(東西南北天地)を踏みます。足裏(湧泉)から手の掌(労宮)、親指と人差し指(合谷)、足裏の感覚を捉えるのです。それは、かつては日常の仕事や動作、武術などで身についていきました。盆踊り、ドジョウ掬い、ソーラン節などでも腰を落とし、腰を入れることを昔の人は知っていました。そこはみぞおちの脱力、緩めることにもなります。野口晴哉氏の活元運動での邪気の吐き出しなどもヒントになるでしょう。

○発声技法

 声をうまく出せるようになった人は、しぜんとそのようにしてきたのです。これは、武道でも健康法でもスポーツでも同じです。ヴォイトレも、当初はそうして発展してきたと思われます。つまり、すぐれた声を出す人をみて、そのプロセスを辿ったのです。

 ヴォイトレの基本は、声の育成プロセスそのものでの再生強化調整の方法といえます。そこを逸脱するのは極力避ける方がよいと思うのです。目的によっては、応用されるのはやむをえませんが、目的を定めるときは充分に注意することです。

○部分とつながり

 「鍛錬する」ということが、否定されてきているように思います。鍛えることを否定する人の根拠の一つは、個々の筋肉を鍛えなくとも全体の機能を結びつきをうまく使えば、もっと大きな力が働くということです。そこには個々に鍛えることで、そういう結びつきが妨げられるという疑いがあるのでしょう。

 以前に、「野球のトレーニングで、『筋トレはバランスを崩すからトータルの動きの中でつくる』という考えと、『マシンジムなどでの弱点補強も必要』という2つの考えがある」ことを述べました。この点でスポーツと芸事は異なるわけではありません。この「部分と全体の問題」は、必ずしも明確に分けられるものでないと思います。

 一つは、時間という要因です。小さい頃から10年以上かけて、毎日続けてきた人に3年で追いつこうとしたら、しぜんにバランスをとってだけでは無理でしょう。部分を鍛え強化を急がざるをえません。

 鍛えるのが、そのまま目的になるのでなく、その上で全体の中に組み入れて自然に統合されていくように考えましょう。つまり、バランスが一時崩れても、いずれバランスがとれるようにできたらよいのです。そうでないというなら、アスリートは試合だけしていたら上達するということです。そんなものが通じるとしたら、それはほとんど歴史もない競技や素人の間でだけのことでしょう。

○無理の否定

 「鍛える」というのは、無理強いとか痛めるというイメージがついてしまうので、今や避けられていることばになっているのでしょうか。マッチョな筋トレのイメージなのでしょうが、心身を鍛えるのは、かつては生きていくための基本でした。

 スポーツはともかく、芸事に「鍛錬」を使うのによくないということもあるのでしょう。でも、それをいうなら、スポーツや武道だけでなく、芸人も職人も、皆、無理をしています。決して身体によいことをやっているわけでないのです。それゆえに、引退とかがあるのでしょう。

 発声については、筋肉の力そのものの働きでなく声帯での呼気の変換ということだから、ということで方向から「鍛える」イメージはよくないという考えには一理あります。とはいえ、スポーツも筋肉の力で競うのでなく、それに基づいた心身の使い方ですから、そこでコツやバランスは欠かないわけです。単純に力を入れたらよいとか力持ちが有利ではないのです。力を働かせるために力を抜くのですが、フォームを保てる力は必要です。そこを混同しないことです。そこでフォームが大切にされる点で、私は発声と共通していると思います。発声は、呼吸に関する筋肉はじめ、全身の体、声帯でも筋力、全て使えなければよい発声にならないのです。

○「鍛える」の否定

 「鍛える」を否定する人には2タイプいるようです。元より鍛えていない人、声が弱く(声量がなく)少し大声にすると声に異変が出る人やそういう人に関わるトレーナーです。声の弱い日本人には多く、特に歌い手で高音を使う人に多いです。

 もう1つのタイプは、大声や強い声で鍛えて声を壊したり声域をコントロールできなかった人です。自らは鍛えていながら、そのプロセスは間違えた、不要、無駄だったから、他の人はやってはいけないという反省型も含みます。この2タイプの考え方の傾向と思い込みは、前に詳しく述べたので参考にしてください。

 となると、私は、「鍛える」肯定派と思われるかもしれませんが、それでは日本の声楽家、テノールやソプラノと一緒に教えることはできません。一緒に研究所でやっているということは、多様性を認めているということです。つまり、相手の目的、タイプ、レベル、これまでのプロセスによっても違ってくるということです。同じ人でも目的が違えば手段、プロセスは違います。

○ともに含む

 鍛錬と調整を分けているのは、理屈上のことにすぎません。同じメニュでも、ある人には調整、ある人には鍛錬になるのです。いえ、正しくは、どんな人にもすべてのメニュは、声を出す以上、鍛錬と調整をともに含むのです。その比率や優先をどうするかこそが、レッスンの考え方、トレーナーの個性にもなると思います。

 ということでは、単にやり過ぎや方向性のミスを、鍛錬や「鍛える」ということで否定している人が多いように思います。つまり、高すぎ、大きすぎ、(特に高くて大きすぎ)長く出しすぎ、休憩が少なすぎ、短すぎなど、負荷がかかりすぎていることでよくないのです。雑であったり荒っぽいのも、そこに含まれます。それは、言うまでもなく、喉に負担と疲れをもたらし、調子を損ねる原因となります。

 私は、日本人は心配しすぎ、過保護で、あまりにも状態にこだわりすぎ、そのときの調子だけでみているように思えてなりません。安全にきれいに響く声だけを求めてきた結果が、パワーが出ない、出せないという結果ではないかということです。

 ですから、あえて、この時期において、もう一度、声のパワーから考えてみることを提唱しているのです。もちろん、「鍛える」や鍛錬に悪いイメージをもつ人、トレーナーは、あえて、このことばを使わなくてよいと思います。

○声のパワー

 声を使う人にとって、身体、肉体を支えとしていることは、楽器のプレイヤー以上に問われていることと思います。それが欧米に追い付けないからと、リラックス、弛緩する方に行ったともいえるのです。昔は、野口(三千三)体操、今はアレクサンダー・テクニックとかが、必ずしもそうした問題解決の本質をついているものでないことを加えておきます。

 喉が、声が弱くなったから、それを壊さないように、より弱めにしてリスクを負わないようにしているのは、うつ病対策みたいなものにも思えます。

 この日本人の若い人の心身の弱化における問題にトレーナーがそのまま対応している現況で、さらにパワーダウンしていっています。仕事である以上、現状に対応しなくてはならないのはわかります。しかし、劣っていくことに現状のままで対応しているのは、結果として、さらに劣らせていくことになることを知るべきです。

 もはや日本はガラパゴス化しているのでしょう。その反動として、ヴォーカロイドやヴィジュアル系での個性で世界に出ていく、そのオリジナリティを日本の売りとみるのは、体のついた声、音の世界での歌、音楽を顧みなくなった証拠でしょう。その点で、私のように生の音、生の声を好む者には残念なことでしょう。

○フォームを身につける

 身体を有効にというのも、長いのか短いのか、自分の人生のなかで使うことを考えてこそ、トレーニングです。ですから、私は、ヴォイトレがトレーニングということでなければ、小さな頃から歌ってきたり、演じてきた歌手や役者の自然習得プロセスを理想的に思います。ヴォイトレをしないで同じことができたら、それはそれで理想的でしょう。しかし、そうでない場合、ヴォイトレをする必要があります。特に、早くとかより高度にという人にはトレーニングとして与えるのは当然でしょう。

 「スポーツは体に悪い」と唱える人がいますが、それを一歩進めたら、「生きていることも体に悪い」のです。呼吸は酸素の取り入れを基にするのですから、その最たるものでしょう。酸素は毒でもあります。マラソンやダッシュは過激でよくないからジョギング、ジョギングで死ぬ人もいるからジョギングはよくない…と、そういう弱化の動きのなかに、今の発声もあるわけでしょう。

 痛めるも活かすも、どこで分けるかです。筋トレは痛めて強くするわけです。人生を短く太くか長く細くかでも、価値観、いや、その人自身も選べないのが人生でもあるわけでしょう。まして、体や喉は、ということです。

○バランス

 身体の能力は加齢とともに老化し、少しずつ衰えていくのです。声も同じです。声帯も二十歳過ぎたら劣化していきます。どのようにメンテナンスして、よりよく活かすか、そこに調整という技術があります。とはいえ、状態での最大調整以上に力をつけていきたいのなら、条件を変えなくてはいけません。必要半分な量の確保のための一時の遠回りをよしとせず、バランスのうまくとれない期間まで否定するような浅い考えが一般化したのは残念なことです。あなたが、自己流でそれなりにやれていたとしても、それがベストとは限りません。

 水泳を習いに行くと教わるフォームはやりにくいし、一時はタイムも落ちるはずです。でも一年後には、そのフォームの方が楽で速くなっているでしょう。不足している条件をトレーニングで部分的に補強、柔軟や筋トレをしたら、もっとよくなります。それは、筋力でよくなるのでなく、筋力でフォームが支えられ、バランスもよくなり、力学的にも理想に近づいていくからです。

 というようなことも、何かを心身で学んだことのない人には、なかなかわからないのです。そういう人がトレーナーになると困ったことになります。

 どんなものでもフォームを身につけることで大きく変わるのです。フォームはつくり上げていくものです。不足する力をつけなくては形として整わないのです。そのプロセスは、慣れないうちはマイナスに出ます。習得の程度に従ってプラスになっていくことを知ることでしょう。たとえば、発声の上達の本質とは、口内や額、頭の共鳴への方向付けではないというようなことです。

○まとめ

a.天然、しぜんで力を抜いて出す。

b.鍛えて力で出す。

c.鍛えられている。力を抜いて出す。

 つまり、無理に分けると、何事でもこの3つのプロセスがあります。「鍛える」を否定するのは、bを否定しているのです。でも、そのためbに達することがなく、aの状態で留まるようになりました。

 声の場合は、育ちによって、すでに鍛えられているcの力を持つaもいるのです(海外のヴォーカリスト、外国人)。さらに、歌は、必ずしも声の力を必要としません。この日本では、特にそうなってきていますし、海外、特にアジアは似た傾向にあるのを感じます。つまりaで充分なヴォーカリストもいるということです。こういったことが特にポピュラーのヴォイトレをややこしくしているのです(bの力で出すという表現は、誤解とリスクを招くのですが、スポーツのプロセスのような意味であえて使いました。気をつけてください)。

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