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あの頃

 今回の旅行は僕の希望で実現した。「どうしてもあの頃に戻りたい」という強い希望である。
 思い付いた時にLINEでなんとなく田村に相談したのが始まりではあるが、その時は「まあいつかね」と流れてしまっていた。
 僕も当時はそこまで強い希望は持っていなかったが、最近になって妻が二人目の子を妊娠していることが分かり、「二人目の子が産まれたらいよいよ身動きが取れなくなるから」と改めて田村に相談を持ちかけたことで実現に至った。
 最初は前向きでなかった田村も、僕の意図を聞いてから気が変わったようで、「10年前のあの当時着ていた服を着て集合しよう」と言い出すほど乗り気になっていた。
 当時連れ合っていた仲間達も僕たちと同様に人生のステージが上の階層にいく過渡期にあるようで、子供がまだ小さいから…とか、妻が妊娠中で…等という理由で都合がつかず、結局スケジュールが合ったのは僕と田村だけだった。
 置かれた環境は僕たち二人もさほど変わらないはずではあるが、彼らは一足先に「ケジメ」を付けることができていたのだろう、と僕は納得することができた。

 過ぎ去ってしまった過去への憧憬と思慕の念に抗う決意をすることを、僕は「ケジメ」と表現している。まだ「ケジメ」を付けることが出来ていない僕は、30歳になった今もなお学生時代に戻りたいと強く思っているし、当時の生活の方が今の生活よりも何倍も楽しいものだったと思ってやまないし、その考えの結果今の生活が疎かになってしまう時すらある。
 自分が「ケジメ」を付けることが出来ていないと自覚したのはごく最近のことで、それからというもの、僕は「今を生きねば」と悶々と日々を過ごしている。

 僕たち二人は、事あるごとに「あの頃に戻りたい」と話していたように思う。仕事で耐え難いことがあった時、妻と喧嘩をしてしまい家に帰るのが億劫な時、子育てが上手くいかず苛々としている時、決まって思い起こされるのはあの頃の生活だった。
 何も無いようで全てがある生活。時間はありすぎて余るくらいで、少し寂しくなれば近くに友達が住んでいて、皆人生のステージは一様に同じで。あの頃に戻れたら、もう一度だけ10年前に戻れたら、どれだけ楽しいのだろう。どれだけ幸せなんだろう。きっとあの頃やり残したことは全部拾ってくることが出来そうだ。そんなことを考えていると、僕はどうにも心が苦しくなってきて、止むを得ず田村に連絡を入れることが多かった。「あの頃に戻りたい」と。
 僕たちはあえてこの旅行の計画は立てなかった。「あの頃に戻る」ことが旅のテーマだったからだ。限りある時間に追われる今の生活からお互い抜け出し、一日だけあの頃のような怠惰に近い生活をしてみたかった。一度だけで良かった。あと一度だけ、一日だけあの頃に戻らせてくれたら、それで満足すると思っていた。

 金沢駅の鼓門で落ち合った時、田村はあの頃の服は着て来ていなかった。
「なんだよ田村、あのダサい黒のダッフルコートはどうしたの」
 僕は彼に笑いかけると、
「流石に恥ずかしいじゃん。自分だってあのマウンテンパーカーはどうしたの」と返ってきた。
 学生時代によく着ていた赤色のマウンテンパーカーは、実を言うと最近まで大切にクローゼットにしまってあった。昨年末の大掃除の時に、妻に「もう着ないなら捨てるから」と捨てられたのだった。

 集まったもののなんのプランもない僕たちは、とりあえず大学を見に行くことにした。
 休日の大学は閑散としており、もの寂しく見えた。木枯らしが葉を揺らす音がしたので見上げると、鈍色の空が目に入った。
 金沢らしい空だった。今にも雨が降り出しそうなこの曇天こそが、金沢の空だったことを思い出した。
 おかしいな。いつも思い出すのは雲一つない青空と煉瓦色のキャンパスの外壁との美しいコントラストなのに。この人気のない寂れた構内と空を見て、「ああ、懐かしい」と感じる自分に強い違和感を覚えた。
「こんなんだったっけ、大学」
 僕はポケットに手を突っ込んで歩きながら田村に問いかけた。
「こんなんだったと思う。大学」
 僕たち以外に誰もいないキャンパスをとぼとぼ歩きながら、田村はぽつりと返事した。

 早々に手持ち無沙汰になってしまった僕たちは、当時住んでいたアパートを見に行くことにした。
 田村と僕が住んでいたアパートには、大きなイチョウの木があった。敷地の入口にある大木は、葉が色付く直前に大量の銀杏を落とす。アパートの住人たちがどれだけ急いでいても落ちた銀杏を踏まないようそろりそろりと歩くのを部屋から見るのが好きだった。僕たちはそのアパートに住み始めて初めて銀杏が落ちる頃に知り合った。
 ちょうど銀杏の季節に来ることができてよかったね、と田村と話した。匂いこそ記憶を辿るための一番の近道であるからだ。あの独特な匂いを目一杯吸い込めば、たちどころに10年前に戻ることができるのではないか。僕たちは期待に胸を膨らませてアパートに向かった。

 30代の男二人が肩を並べてぼんやりと新しいマンションを見上げる様は、情けないことこの上ないものだったに違いない。
 僕たちが当時住んでいたアパートは取り壊され、そこには背の高い新しいマンションが建っていたのだった。大きなイチョウの木も伐採されていて、あの匂いを嗅ぐことはできなかった。
 僕たちは言葉を発することができずに、しばらくそこに立ち尽くした。
 新しく建った知らない建物をただただ見上げることしかできなかったその時、僕を支配したのは悲しみではなく、疑問の感情だった。
 僕たちの青春の残滓はこうも簡単に消滅してしまって良いのか、久方ぶりの金沢はこうも空虚なものなのか、10年前の学生時代に戻るための旅がこうも退屈で良いのか。
「なんか、楽しくないね。僕たちが大人になったってことなのかな」
 しばらく二人で立ち尽くした後、僕はやっとのことで田村に話しかけた。
 田村は僕の問いかけには返事をせず、無表情のまま見上げ続けていた。彼は知らない建物を見ていたのか、空を見ていたのか、はたまた何か考え事をしていたのかは分からなかった。

 10年前を過ごした街を早々に見限った僕たちは、早めに金沢駅に戻ることにした。退屈で空虚な時間であったという体感が正直な感想だった。きっと田村も同じように感じているに違いない。
 10年前の記憶だと言うのに、やけに明確に覚えていて、道に迷うこともなかった。第二の故郷と言っても過言ではない。学生時代を過ごしたこの街は、あの頃の温度を保ったまま、久方ぶりの僕たちの来訪を「お帰り」と迎えてくれると信じていた。
「僕たちは別に金沢を愛していた訳ではないよ、きっと」
 数分前に新しいマンションを見上げながら、僕はそう気付いた。きっとそうに違いない。

 学生達が住む街を抜け、金沢駅に向かう。
 ぼんやりと街を眺めながら歩くと、道の先まで続く街路樹が全て赤く色付き、葉を落としてるいことに気付いた。今日金沢に来て初めて景色を綺麗だと思った。
「今日、確かにあの頃に戻れたのだと思う」
 しばらく黙っていた田村が久しぶりに口を開いた。
「10年前のあの頃も、きっと毎日『つまんない、退屈だ』と思いながら過ごしていたんだと思う。忘れてるだけで。きっと毎日がこんな感じだったんだと思う。その感覚に今日また戻れたんだと思う」
 やっぱりそうだ、と僕は思った。記憶の中の雲一つない金沢の青空と美しい煉瓦色のキャンパスは、脚色によるものだった。
 横を見れば共に時を過ごす友がいつでも傍にいて、皆等しく子供から大人への過渡期にあって。僕は金沢を愛していた訳ではなく仲間と過ごしたあの4年間を愛していた訳で。
 記憶の中のあの頃にはもう二度と戻れないことがこれで確定した。そう理解した途端に、目に見える景色がより一層美しく映った。道の端を赤く染める赤い落葉達、その落葉を散らしながら走り抜けていく北鉄バスの白と赤の車体、その車体の向こうに見えている雲の多い鈍色の空。
 木枯らしが頬を冷やすのを嫌って僕はふと横を向いた。ちょうど、黒のダッフルコートと赤のマウンテンパーカーを着た学生とすれ違ったところだ。彼らは何やら可笑しそうに、肩を揺らして笑い合いながら、学生街の方に向かって行った。
 僕は振り返ってぼんやりと彼らの姿を眺めてしまっていた。僕が愛した4年間と確かに今すれ違ったのだ。僕は思った。羨ましくはなかった。眩しくて、愛おしくて、美しい。そんな風景と、確かに今すれ違った。
 僕は手が冷えないようポケットに突っ込んで前を向き直して歩きながら、田村に返事をした。
「うん、確かにあの頃に戻れたよ。今」


おしまい


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