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B-REVIEWマガジン 2月号

※マガジンは今月号で一旦終了します。

【特集 意味のない物は芸術である by羽田恭】

 自分の兄が中学時代に作ったキャラクターがよくのたまっていた言葉である。
そんな言葉が思い起こしてしまうのが、先月今月と投稿をしてくれたたもつさんの作品だ。
この人の作品、意味がない。正確には意味をなさない。でも素晴らしい。素晴らしすぎる。
ファンとなってしまった。

 まず最初に投稿した「稚内」から見てみよう。

>千葉駅から外房線に乗り南下して
>稚内に向かう
>どんなに行っても沿線に稚内はない

 いや、なんで千葉から北海道最北端の稚内に南下して向かおうとするんだよ!
いきなり、コレ?!

>都会なのに美しいジャングルがある
>それが稚内

 だから、北海道!
そこそこ大きな街だけど!

>淋しさについて語れば
>寂しさから遠ざかっていく身体たち
>たどり着く先は稚内

 稚内に何があるというのか。

>外房線の沿線に稚内などあるはずがないのに
>茂原あたりから
>もしかしたらこのまま稚内に着かないのでは
>と思い始め 本当にたどり着かない

うん、無理。

>一事が万事
>バンジージャンプもある
>妻はバンジージャンプはしない
>高所恐怖症だから

 ここから不思議な世界にさらに入り込みます。
なんだこれは。

> 妻は台所から出ようとしない
> 台所には高いところがないから
> 可愛いそうな妻はこれからもずっと
> 呼吸も
> 深呼吸も
> 台所でし続けなければならない
> そっと稚内からバンジージャンプを撤去する
> 違う
> 本当に大切なのはそんなことじゃない

 この連、最初に一文字開けています。
色々大丈夫か、この奥さん。どうしてこうなった。
この人も不思議な行動を取っている。混乱と正気の狭間を彷徨う、読者の分身か。
てか、稚内には元からバンジージャンプないし!
(実はたまに行くのです)

>稚内に雪が降る
>ジャングルにもやがて降り積もるだろう
>生きているものは皆寒い思いをするだろう
>妻を怖がらせないように
>外房線は低く低く進む

 どう突っ込めば。

>稚内にたどり着かないまま
>外房線は安房鴨川で折り返すと
>稚内を目指して再び千葉へ向かう
>車内はそんな乗客で溢れかえっている
>いくら勝浦があっても足りない

 もうこれ、目指していない。
迷っている。
乗客は何が目的なのだろう。
勝浦でもう、降りてくれ。

>足りないものを埋めようとして
>自分が埋まっていく
>ありとあらゆる自分が埋まっていく

 何が足りなかったのだろう。
何もかもが足りなくて、でもそれがわからないから稚内を迷子になりながら目指している。
妻も、要するに人生の迷子すぎて台所から出られないのか。
そこに自分が入ってしまったのか。しかもたくさん。

 どうだろう。
ここまで意味をなさない詩はあっただろうか。
詩には意味や意図をはっきりさせないものはある。
でもそれらとも違う気がする。
 この作品では一つの文の中だけで見れば、意味は成立するも、同じ詩、むしろ同じ連の中で見れば意味が崩壊してしまっている。
言葉遊びとも違う。
意味が、ない。
それでいて叙情性、ユーモアを感じさせてしまう。
 こんな詩がかつてあったのか?

 続いて投稿されたのは「図書館物語」。
番号を振った一行詩を並べた形式だ。

>01 図書館にパンが落ちていたので男は拾って食べたのだが、それはパンではなくムカデ>の足だった。

だからいきなり、コレ?
すでに異世界へ踏み入れてしまったよ!

>03 図書館で借りてきた本を途中で読むのを止めて、魚は自分の鱗をしおりの代わりには>さんだ。

諸星大二郎の絵で光景が見える。
諸星のギャグと少し似てる作風かもなぁ。

>05 図書館が休みの日、館長は網と虫かごを持って野原に昆虫図鑑を捕まえに行き、もう>昆虫図鑑は要りません、といつも副館長に叱られる。

どんな世界だ。
館長おもろい。

>06 泥棒は図書館にあるすべての本を盗んでしまおう思ったが、海の大好きな子どもがい>ると可愛そうなので、「海辞典」だけは残して行った。

>07 翌日、泥棒が図書館に行くと、「海辞典」は貸し出し中だったので、すっかり安堵し>てシナモンパンを買って帰った。

シュールだ。

09 図書館の本がすべて盗まれてしまったので、館長は空っぽになったすべての書棚を丁寧に拭き掃除して、とりあえず、昆虫図鑑を十冊並べた。

10 盗んだ本を返してください、と毎日泥棒の夢の中に図書館が泣いて出てくるので、泥棒は本を返しに再び図書館に忍び込んだが、昆虫図鑑十冊のスペースのところだけ本が並べられず、受付カウンターに「世界美術史体系全十巻」を平積みして置いて帰った。

11 朝、カウンターの上に置かれた「世界美術史体系全十巻」を見つけた司書は、淡々とそれらをもとの位置に並べ、十冊の昆虫図鑑を淡々と館長の机の上に平積みして置いた。

 この詩の特徴にそれぞれが独立しているものの、微妙なつながりがある事。
てか館長。草が生える。

>17 南西角にある海で館長が大きなクジラを釣り上げて図書館を壊しそうになった日か>ら、「遊泳禁止」の看板の隣に「釣り厳禁」の看板も立つこととなった。

>18 館長は、もしかしたら自分は本ではないかと思って、自分の体を捲ろうとするけれど、>いつも三ページ目から先が捲れないので諦めてしまう。

だから館長。
てか、館長もどんな体だ。
こういう点が諸星を思い起こす。

>26 図書館に一台しかない公衆電話がどこに繋がっているのかわからないことが最近に>なって発覚したが、それでは今までいったい誰と話をしていたのか、謎は深まるばかり>だ。

これを書く発想は凄いと思う。

>31 開かれた窓の外にはゼリー状の空が広がっていて、誰かがテーブルに置き忘れて行っ>た歴史書を風が捲る音だけが静かに響く、ただ水溜りのようにある午後の図書館。

こういう締めも上手い。

 シュールレアリスムを思わせる風景。
それに漫画的な館長の行動。
まさに詩的な抒情性。
それらが絶妙に組み合わさっている。傑作なのでは。

1月3日に投稿された卒業式を見てみよう。

>砂漠で椅子を並べている僕の耳元で
>佐々木さんがささやく
>卒業生たちは丁寧に会釈をしながら
>前方から順序良く着席していく
>人は生きているとささやきたくなる
>だからいつか人は死ぬの
>と、佐々木さんがささやく

やはり情景が不思議なことになっている。
細かいリフレインが心地いい。
この細かいリフレインがこの詩の特徴となっている。
この連が特にそうだ。

>さ、さ、ささ、ささやく佐々木さん
>さ、さ、さささ、ささやかれる武田くん(僕、なお仮名)
>おさ、おさ、おさおさ幼馴染の酒井くん

最後の文、発想が並みじゃない。これをやるのか。

>〇ここで武田くん(僕、なお仮名)による酒井くんに関する述懐
> 酒井くんについて語ろうとするならば
> 僕の幼少期まで遡る必要があります
> これでも僕は良くできた子供でした
> 気が利くし
> 特に工作などが得意でした
> 就学前にはそれなりのものを作り
> 何とか賞に応募し
> 何とか会長賞をいただきました
> 僕が酒井くんについて語れるのはこれくらいです
> それから数十年が過ぎて
> 今、僕は砂漠で佐々木さんにささやかれています

 酒井くんについて何も話していないぞ、オイ!

>着席した卒業生たちが行儀よく砂に埋もれていく
>笹舟を作り終えた佐々木さんの冷たい手が
>直射日光で火照った僕の頬に触れる
>そこに僕と佐々木さんの境界線は確かにあるけれど
>佐々木さんとささやきは既に一体となって
>見分けがつかなくない
>このままずっと椅子を並び続けなければいけないのか
>という絶望で心が満たされて幸せな気持ちになる
>壇上は遥か彼方となり地平線に隠れそうなのに
>滑舌よく卒業生代表の答辞を読んでいるのが
>酒井くんだとはっきりとわかる

 ええと、シュールだ。
文章でシュールレアリスムの絵をやっている。
絵画的に感じるのだ。
強烈に現実なあまり、その結果無意味になったというか。
積み重なる不条理にカタルシスを感じる。

最後に1月10日投稿、「増えろワカメ」を見よう。

>気がつくと増えている磯野のワカメちゃん
>ワカメ、増える
>増えるワカメちゃん

一連目の最後の三行がこれ。
この詩の全てが詰まっている。
長谷川町子がこの文章を読んだら何を感じただろうか。

>これまで声は
>山本嘉子
>野村道子
>津村まこと
>が担当し、前二氏は既に他界している
>けれどワカメは死なない
>永遠に死ぬことはない
>ワカメ、命について語ってくれ
>永遠は誰に約束されているのか教えてくれ

声優をここで出すことでさらに独自の世界へ入っていく。
永遠性をこうして出すとは。

>波平はかつて陸軍に所属していた
>増殖し続けるワカメを銃剣で突く波平
>その隣で増えるワカメに足を取られて転び
>泣き崩れる甥のフグ田タラオ
>それでもワカメは増え続ける
>いちワカメ、にワカメ、さんワカメ、せんワカメ
>ワカメが単位になっていく
>増えるワカメ
>増えろワカメ
>もう誰にも止めることはできない

波平とワカメが戦っているよ!
ワカメが我らの認識しているワカメじゃなくなっている。
二重に、三重に、ワカメの意味が重なっているのもありカオス。
これが芸術か。

 どうだろう。
今まで投稿された作品をさらっと見てきた。
 技法として、一般に認識されている言葉の意味と全く違う意味を不意打ちで被せるやり方をやってくる。
「増えろワカメ」が典型だ。
シュールレアリスムでも行われる方法だと思う。
これを詩でここまでやるとは。他にいない。
あえて想定される展開を裏切るのもこの技法に入るかもしれない。
「卒業式」の結局酒井君について何も語っていない所とか。
 また言葉の感性もいい。
「卒業式」で心地よく行われる執拗なリフレイン。
>おさ、おさ、おさおさ幼馴染の酒井くん
これがやっぱり秀逸。
>一事が万事
>バンジージャンプもある
こういう韻の踏み方も気持ちいい。
 「図書館物語」「稚内」の絵画的な描写も特徴だ。
これらの詩を諸星大二郎に漫画化してほしい。
この不条理やナンセンスは諸星が好みそうな作風だ。
 何より、詩の実力があるのが一番かもしれない。
図書館物語最後を飾る詩は、叙情性にすばらしく富んでいる。

 現代詩フォーラムを主な活動の場にしているらしく、かなりの作品がここに投稿されている。
ぜひとも読んでほしい詩人です。
意味のないものは芸術。
まさか今この言葉をかみしめるなんて。

 最後にたもつさん。
次は「みかんの皮を剥く」の投稿をお願いします。
異次元空間に迷い込んでしまったような感じをさせてくれる詩は、他にそうないので。


【息抜き4コマ by渡辺八畳】

画像1

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【おわりに】

いつか必ず、B-REVIEWという名前は歴史の星屑に埋もれ古典となっていく。その時私が何処にいるのかなど論ずるまでもなく知る由もないが、どこか、噂でそれを聞いて、一遍の詩を書き記したい。
古典にすらならなかったサイトは嫌になるほどあって、それらの多くが当事者間でしか、いや当事者ですら振り返られもしないのかもしれない。B-REVIEWに今何があって、どこを目指すべきで、その結果どうなるのか、どうなればいいのかなど何ひとつとしてわからない。それは無力さを思わせ、かつ自身の未熟さを呪うばかりではあるのだが、ひとえに「面白い詩を作りたい」気持ちと「面白い詩を読みたい」欲望を一定程度満たせる存在ではありたい。何故なら、それが文章投稿サイトとしての根本的なものであり、私が求めるものであるからだ。
B-REVIEWを私がどれだけ語り、自身の持てる能力の全てを尽くし、かつ考え抜いたところで、参加者がいなければなんの意味も持たない。逆に言うならば、私がこうして試行錯誤を重ねていられるのは参加者がいてこそであり、参加者不在の状況下では成功も失敗もない、無の空間がそびえるだけだ。
数ある投稿作の多くも一瞬のうちに忘れ去られ、ビーレビの受賞作なんて振り返られもしない。ましてや普通の投稿作なんてごくごく一部を除いてネットの海に飲まれて消えてしまう。はたして我々がネット上で詩を書くことになんの意味があって、何が残るのか、ひょっとして何の意味もないのではないか。
断言するが、意味なんて何一つない。そもそも意味などという概念を持ち出してくるのなら、極論をいうとほとんどの人において人生が有意義な意味を持つことはない。そして、残るものも何一つない。
我々のほとんどは古典にすらなれない。もしかしたら、ビーレビですら古典にもなれない存在なのかもしれない。
だからこそ、徒に人生を使い潰し、無駄なエネルギーを大量消費し、ビーレビなどという零細サイトで運営をする、もしくは詩を投稿することに面白さを感じるものだ。だって、どうせ古典にはなれない。いつかビーレビが終わり古典の道を歩みだしたら、その時は一遍の詩を綴りたい。


執筆:羽田恭/渡辺八畳/藤井龍平
文責:藤井龍平

2020.2.3

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