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金魚は何を見つけたのか?─編集後記─

4月から始まったnote記事もはや3ヶ月。
ここまで、13本の寄稿記事と3本のお知らせ記事をお届けしました。

「金魚」を一つのきっかけに、小松川・平井のまちの魅力を再発見してゆく。
そんな目的から更新を続けてきましたが、今回はここまでの記事を振り返りながら「金魚」がどんなものにたとえられ、何を見つけたのか、考えたいと思います。


まずは、活動のスタートにもなった、平井五丁目駅前地区再開発事業地の仮囲いの記事。1枚1枚の金魚たちには、書き手の想いが「色」や「模様」として表現され、それが集合して街に新たな景観を加えました。ミヅキさんの七宝柄の金魚は「縁をつなぐもの」として描かれています。


どうやら金魚は、まちの「隙間」を「自由にひらひらと泳ぐ」ものであるらしい、そう気付かされたのは、内海さんや村田さん、Tさんの記事からでした。
高架下の金魚の壁画に、路上の金魚鉢、中華屋さんのメニュー表。日常に「鮮やかさ」が加わり、「非日常」になるような、隙間の試み。それが力になる。実物の金魚でも、壁画、プリント絵でもいい。


金魚が選ばれるのは、身近で人懐かしい、小さな「自然」の担い手だからかもしれません。もちろん、それは伊東の記事のように、金魚が「江戸川区」の歴史や特色を伝える「シンボル」であるというのが大きいのかもしれないけれど。


金魚は時に空間だけでなく、時間をも泳ぐ。金魚をきっかけに、「想い出」がポツリポツリと呟かれることもありました。津守さんや丸山さんの記事では生々しい「命」の記憶と、どことなく不思議な街の光景が「掬い」上げられています。


こうやって眺めてみると、金魚からさまざまな「物語」が語られてくるようです。
「落語」にも「浮世絵」にも、金魚は引くて数多だと教えてくれたのは、小もんさんや庄司さんの記事でした。庄司さんはその積み重ねられたイメージを「オープンデータ」として活用したり、「デジタル金魚」を考案されていますが、それも金魚が「人工」的に生み出された生きもの、ということがあるのかもしれません。


もちろん、金魚が住むのは「池」「金魚鉢」であり、時に「河川」でもあります。
どうして河川に流れ着いてしまうのか。KANA.Tさんの記事には「金魚が洪水の際に逃げ出し、周辺に住む人々がそれを掬って楽しんだ」という、「水害」時の厳しくも和やかな記憶が差し込まれています。


ということで、今回はこれまで記事のきっかけとしてきた「金魚」がどんなものにたとえられ、何を見つけたのか、考えてみました。金魚が見つけてくれたのは「  」の中であって「  」の外かもしれません。


文責(分析):伊東 弘樹





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