見出し画像

初期映画とは何か

初期映画とは、映画の「誕生」から約10年の間に制作された作品群を指す。このころの映画は、ヴォードヴィルの演目の一つであり、映画それ自体で完結する芸術ではなかった。また、物語性が前提にされていない点も、初期映画の特徴である。映画史家のトム・ガニングはこのころの映画作品を「アトラクションの映画」と呼び、観客によるそのような映画の受容について、次のように述べている。

アトラクションの映画は観客の注意をじかに引きつけ、視覚的好奇心を刺激し、興奮をもたらすスペクタクルによって快楽を与える――虚構のものであれドキュメンタリー的なものであれそれ自体が興味をかき立てる独特のイベントなのである。〔……〕映画製作へのこうしたアプローチを規定するのは観衆への直接的な呼びかけであり、それに基づいて映画興行師が観客にアトラクションを供するのである。ストーリー展開や物語世界の創造と引き換えにショックや驚きのような直接的刺激を強調することで、物語に没入させることよりも演劇的な誇示の方が優位に立つ。

トム・ガニング(2003)中村秀之訳「アトラクションの映画:初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」長谷正人、中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル : 沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会、308頁

すなわち「アトラクションの映画」とは、物語の作用よりも「ショックや驚きのような直接的刺激」に対して、当時の人々が映像の快楽を見出していた点を把握するための概念である。

ダイ・ヴォーンもまた、初期映画の物語性ではなく、「動き」にその特性を見出す議論を展開している。ヴォーンは、リュミエール兄弟の手による『港を出る小舟』を取り上げ、初期映画の観客たちは、この映画におけるキャストたちの動きではなく、小舟を取り巻く波などの自然の力に驚嘆していた点を指摘している。

小舟が波に襲われたとき、男たちが自分たちの努力を小舟のコントロールに差し向けなければならなかったからである。つまり、自生的瞬間の挑戦に応じることによって、彼ら自身もその自生性に組み込まれてしまったという事なのだ。予測不可能なものが背景から出現してきてフレームの大部分を占めてしまったというだけではない。それは主役たちをも自らの支配下におさめてしまったのだ。

ダイ・ヴォーン(2003)長谷正人訳「光あれ:リュミエール映画と自生性」長谷正人、中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル : 沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会、37頁

ヴォーンはこのような、撮影者の想定を超えてフィルムに収められた自然の力を、「自生性」と呼ぶ。

これら初期映画に関する議論は、物語性が備えられる以前の映画を劣ったものとしては捉えず、初期映画それ自体が豊かな映像経験であった側面を浮かび上がらせるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?