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『禁じられた遊び』 紫陽花

山紫陽花が少しずつ色を濃くしている。紫陽花が咲くと、シジュウカラの弔いを思い出す。小学生の頃、シジュウカラを飼っていて、その世話は私の役割だった。鳥籠に敷いていた新聞紙を取り換えて掃除したり、庭のハコベを摘んでの餌やり、飲み水を用意するのも。

その世話が少し億劫になり、それを怠ったある日の午後、学校から帰ると、細長い容器に白いからだを逆さまにしてシジュウカラは硬く冷たくなっていた。喉が渇いて、頭が抜けなくなるほど水を欲していたんだ。初めて死というものを目撃した忘れられない出来事だった。

丁度その頃、田舎から祖母が来ていた。母が長いこと入院していて、まだ小さかった私たち姉妹の世話をしてくれていた。

私は死んだ小鳥のために、金属のお菓子の缶を用意して、中に紫陽花の花を敷き詰めて亡骸を納めた。摘み取った花はしんなりしていたが、青紫の色が亡骸の白さを引き立てて綺麗だった。そのことで悲しみが少し薄らぎ、自分がしでかした罪が軽くなるような気がしていた。私は缶を庭先に埋めて手を合わせ、お弔いをした。

ところが、おばあちゃんがそれを見ていて、缶はダメだ、土に還れないからと言った。缶はおばあちゃんによって掘り起こされ、後は心配しないで、と言って亡骸を土に戻したのだった。あれから半世紀もの時が経ち、シジュウカラもおばあちゃんも天に昇った。シジュウカラははきっとおばあちゃんに感謝しているだろう。

ハタ、と思い出した。同じようなことが描かれていた映画があった。アコースティック・ギターの美しい調べが脳裏に流れたが、あまりに遠い記憶でしばらく思い出せない。

題名が思い出せずにネットで調べると、1952年公開のフランス映画『禁じられた遊び』に行き着いた。戦争下の幼い子どもたちが、死んだ動物の墓をつくるお弔いごっこ遊びのために、十字架泥棒を繰り返すという物語だ。身近な大人や動物が、あっけないほど簡単に命を落とすという、70年も前の映画で描かれた惨状が、今ウクライナで現実に起こっている。この痛ましさと愚かしさ。『禁じられた遊び』がデジタルリマスター版で先頃上映されたとか。

死んだら土に還る。命あるもの全てが行き着く先。
この単純で厳粛な真実から目を背ける現代の暮らし。おばあちゃんの言葉を実感できるようになるまで、私もあの時から更に時間が必要で、還暦を過ぎた今になってぼんやりと行く末を想像している。




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