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今私に見えている山は宇宙から見たら小さいのだろう

今すぐ書きたくなったので今あるものをすべて文字にします

私には今山が目の前にたくさん連なっているように見えている。
私は、多分他から見たらとんでもなくでかくて抽象的な人生の目的みたいなものを持っていて、それは自分でも抽象的、というかそれとは何なのか手段や形が見えていないもの。

「自分が死んだ後に残る本質的な人の幸せをつくる」
◆死んだ後に残っているものが、自分の生きている意義
これはきっと今後よっぽどのことがない限り変わらない気がする
◆死んだ後にどれくらい残ったらいいのか
→長く残るものであってほしい。
少なくとも2世代分(自分が生きたときに関わった人の生きる時間)
は残るものであってほしい。なぜならそれが自分が肌感として今感じられている自分の人生の可能性であるから。
自分はあと長くて60年くらい短くて明日くらいに死ぬと思うけど、60年と仮定したときにその中で関わる人たちは前後2世代分を自分の人生にプラスして生きてくれるだろう。
その人たちの人生が幸せになってくれたら、私の幸せはその分拡張するだろう。
少なくとも2世代分残るものを現時点では本質的な、とする。

◆幸せとは。
→その時、満たされている、と感じれていることでよい。
この世にいてよかったなと感じれていること。

入れ子のようだけれど、
私の場合、死んだ後に、そのあと長く続く「この世にいてよかったな」と思える人たちがいる、その人たちを生み出す価値観を残し、価値観の作り方を残し、価値観のヒントを残し、
「この世にいてよかった」と思える人たちがいる状態を作るには何なのかはたくさん試してみるしかない

だけど、これをかけらでも残せることが自分にとっての、
「この世界にいてよかったな」
と思えることだから、これを人生通して試しながらやる

こんな感じ。


こんなでかい人生の軸だから、
その山は遠くにあってまだ見えなくて

私よりずっといろいろなことを経験し、学び、進んでいる先輩がこの世にはたくさんいるのだけど、

その人たちには、もう少し、私より宇宙に近いところから見ているから
私が今上っている山でもうすぐ山頂だ!山頂に来れる私なんてすごい!と思っているところを、

それは前の前の山だよ~
まだそれをちょっと下っておっきいところに上り始めないといけないんだよ

って、そう見えているんだろうなと思う。

だけど私には、
この山はやっぱり山で

だけど、先輩をみていると、少しだけ、これは小さな山に過ぎないんだろうなということを感じる

だから、宇宙の目線から見たら小さな山に登れていることにうれしいなって思いながら、自分すげえじゃん、できるんじゃないか、って思いながら、

きっとここは、先輩のいう、小さな山で
ここに浮かれてたらまた大きな山がやってきたときに絶望するんだろうなってことを頭の端でわかりながら進んでいくしかないんだと思う


ダニングクルーガー効果

こういうの見ると、そうなんだろうなって思うけど、最初の錯覚するときって錯覚するのだから仕方がないんだろうな
錯覚の自信を得てる時になんて多分周りの山は見えない

だから、さっさとその山登っちゃって、
自分はもしかしたら錯覚の自信を得てる時なのかもしれないなあとか
想いながら

早く井の中の蛙を理解するフェーズに移るしかない

と、
まだ目の前の山が前に立ちはだかっていて全然全体像が感覚として見えるなんてことがない私は思うのです。

頑張って全体像をみようとする努力は続けているし、具体像を試して試してやってみることもしようとしているけど。


足りないね

足りないことが、まあ楽しい


先輩から学んで、
まだ見えてない世界が無限に広がってるなって思いながら、
絶望しながらワクワクしながら、

今見えてない世界を見に探しにその中に飛び込みに行こう


立ち直れないほどの大失敗をしない(数百万とか今マイナスになったら立ち直りに時間がかかる、数万くらいなら何とかなる)で、
小さな失敗をめっちゃたくさんして、
早く早くその大海までたどり着きたい。


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