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「ひとと森がともにある」を通して、視点を届ける


視点という教養

コテンラジオの深井龍之介さんとa scope野村高文さんの本
ポッドキャストを通してしか聞かないけれどもかなり尊敬しているお二人。

ちょうど最近とても考えていることの裏付けのようなことも言ってくれていたので、ちょうど、私のなぜ自然なのか、地域なのか、人なのか、
そして結局どんな世界を目指すのか、ってところを書いておこうと思う。

結局自分って何したいの??
これもこれも好きだし…
勉強も好きだし…。
でも勉強は社会に出たら役に立たないっていわれるし…

そんな感じに悩んでいる人がいるなら、ぜひこの本を読んでほしいし、ポッドキャストを聞いてほしいし、ちょっと暇があって私の考えも見てみたいというのならばこのnoteを読んでほしい。

僕たちが生きる現代は、教養がとても大切になってきています。というのも、現代は「個人が生き方を主体的に選ばなければならない、史上初めての時代」だからです。
~中略
だから、「何に価値があるか」を一人一人が考えなければいけないんです。「How」じゃなくて「What」や「Why」が、万人にとってすごく大切な時代になってきています。

視点という教養 リベラルアーツの力を考えるより抜粋

現代は今まで考えなくてもよかった、生き方、について根本的に疑って考えなければならない時代になったそうです。

まあ、そうでなかったとしても個人的にはそういうところを考えながら生きていった方が楽しいし、これからに残る本質的な幸せというものを残せるのではなかろうかって思っているので、そうだよねえって気分で読んでいました。

視点という教養
この本では、物事を多面的な視点で見る、このことの面白さと、これからの、多様性の時代、いろいろな考え方をしてもいい時代に、思い込んだ視点から脱却して少しメタ的な視点から世界を見る必要性を、
お二人の、深井さんでいうと歴史、といった専門分野において深く理解して考えて根本を探ったからこそ見えてくる、世界の本質的なものをチラ見せしてくれながら伝えてくれています。
私では到底まねできないので、気になる方は本家の方を。

私は、まだこんなに深い視点で物事をみれていない。
一方で、生き方や、人間のありかたというのはとても面白いと思うし、確かにそれで悩んでいる人が多いような感覚を感じるし、これからの時代、そういった哲学的なものは必要になってくると感じています。

だから、まだ足りない私の視点から、
でも今ちょうど今、これからの人生がこれからの設計次第で、(どの世代でもそうですけどね)周りの多くもどう生きていくかを考えがちな私の目線から書いてみようかなあと思います。

今回は結局自分って何をしたいんだっけ??
なんのために生きてるんだっけ??
勉強するの、知るの楽しいけど、それって結局何にも役に立ってなくないか

こんな人に向けて。

ここから↓下は本の内容とは関係なく、本を読んで頭に浮かんできたことを書いています。

好奇心、知識欲がもたらす、幅広くまたは深い教養(今すぐ使えるとは思えない知識)は役に立つ

どうやって役にたつか、今までそんなに明確に示されてきていないから別にここでもそれを明確に示せるとは思ってないけど。
視点という教養では、現代の自分の思考の手法(どういう経路でどのような前提のもと思考を行っているか)を客観的に見ること、メタ認知ができる、そういうような事例をたくさん示してくれている気がします。

例えば、自分がどう生きるか。
自分とは周りの人や動物の中でどんな立ち位置で存在しているのか
何を目的に生きるのか
自分の考え方ってどんな考えるルートをたどっているのか

こんなことに、好奇心により得た知識って見えるようになっていくんじゃないかって思うのです。ちょっと俯瞰して、そこでの出来事を自分の人生に当てはめたり、他のことに当てはめたり、割と価値観が広がったり、するのではないかと思うのです。

たとえ自分がその回答を欲していなかったとしても、それを欲している人は世界にたくさんいます。

例えば、私は今、森の中の水循環の研究をしています。
水が岩から湧き出ているところから湧水の量と水質とかを直接測って、データをとってそれを分析して山の中の流れを分析しているわけですが、
これはこのnoteでよく言っているひとと自然の関わりには直接は関係ないし、ひとの幸福度にも関係ないし、ましてやモノが売れる理由とか、人が心をオープンにできる環境とはまったくもって関係がありません。(私は話飛躍する系人間ですが、ここは頑張って飛躍しないとたどり着けないです)

だけど、ここでよく考えてるのは、水って地面に浸透して私の目に見えなくなった後にどうやってそのいろーんな層の土の中を旅してるんだろうなあみたいなことを常々考えているのです(これが研究する態度として正しいかは議論の対象外で。。)
突っかかったから横に逃げていきたくなるやつと、それでも下に下に浸透していくやつがいるのかなとか。出てきたデータもそれがどんなことを表しているのだろうと、水の気持ちになって考える。

ちょっと大げさだけど、そこと客観的なデータと既往研究を合わせながら論文にします。そうするとなんてみんな論理的な考え方をしているのだ、と思うのですが、割と担当教官も論文にするときにかっちりした構成にしているだけで、考え方としては大まかにとらえ、あとからミクロな部分を付け足していく考え方をしていたりして、なんだかんだとそういう感覚で考えてみることも大事だったりするのかもしれないと思いながらやっています。

あとは、実際に年に何回も現地の湧水へ出向いているのですが、季節によって、流出量が全然違う。
たまに新たな湧水が現れたり、出てたはずの湧水が枯れていたり。

現地に行ってそういうものを身近に見ると、ちょっとめんどくさくなっていた研究も、やっぱり、「なぜ??」「中身はどうなってるの??」がたくさん浮かんでくるのです。
好奇心のままにいろいろ調べたくなるし、いろいろ分析してみたくなります。

人の好奇心と行動の源は、「こうであるはずだ」という思い込みが覆された瞬間なのだなとか、リアルでモノを見るとその好奇心って倍増するなとか、好奇心がうまれるとそのあとの行動がものすごく楽しくて幸せなものになるなとか
そんなことを考えています。
そしてこういうのは他の人にも当てはまるのかなとか。

ちょっと本とは言ってること違うかもしれないですね、まあ、これはこれで、いろんな面を考えながら感じながら研究してるし一つのことで無限に感じることはありますってことが伝わればいいです。


正解は正解かどうかなんて自分が死んだ後にもわからない、近づいていたり、探り続けるを楽しめばいいんじゃないか、人生って楽しいよ


なんかね、
私は環境問題解決したい系とかソーシャルビジネス関係とかよく見られがちな人間なんです。
確かに、自分より相手優先しがちだし
人と自然の関係性とか言ってるし
地域おこしとかジビエ問題系にみられるようなことやってるし

だけどそれとはちょっと違って
ひとってそんなに生きる意味もってないと生きちゃいけないような特別な存在じゃないし、自然と比べたら本当にちっぽけで自然に対してできることなんて限られてるし、でも思った以上に人は協力したら何かできる気がするし。
自然のように長い目で100年後のこととか考えてたら自分の今にそんなにこだわらなくてもいいかとなるし。

そんな、ことを自分がやりながら、他の人にもその要素を届けられる表現者を目指しています。
だから表現方法はビジネスっぽいけど、抽象画家になるイメージでいます。

で、そういうことを考えたときにやっぱり人から見られるものと自分の想うものにはすごく乖離があって。
「環境問題を解決したいんでしょ??」
とか言われるけど
確かにそれはできたらいいけど

私にとってはそれが最優先というか、手段の一つでしかなく、
目指す理想的な世界ってまだ疑わしいなと思いながら、今描いています。
いろんな人と一緒にああでもないこうでもないと試しながら、
私が死んでも、みんなで未来をちょっとだけよくするために、
人が生きててよかったと思える世界を作るために
色々試しながら自分のできる範囲でできることをしている世界に住んでいたいし、死んだ後にそういう世界が残っていたらとっても幸せだなあと思います。

そういう探り続けるところまで含めて楽しいと思います。

自分の本質の部分は割と見えてきているのだけど

世界の正解は我、としてはあるけど
皆、としては、みんなで探り探りを楽しみつつぶつけ合いつつが理想だなあって思っています。

正解を求めようとしすぎると、100年後も100パーあってる正解なんて見るからないからしんどくなるだけだよ



せっかく生きてるなら
生きててよかったって言えればいいです




ではでは




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