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『もの』と『私』深みのある『もの』と深みのある『私』

 もうすぐ9月が終わる。今年は、秋服の出番はないかもしれないと思いながら、三井アウトレットパーク倉敷をウィンドウショッピング。色やデザインに魅かれて思わず手に取ってしまう秋服。可愛いと思う気持ちは湧くものの、その服を着る場面を想像できず、そっと元に戻す。ふと見ると、お店の奥に所狭しとハンガーにかけられた夏服。商品タグには70%オフの文字。9月の中旬まではお店の中央でマネキンが着ていた。でも、今となっては、あんなに奥の方に追いやられている。何となく寂しい気持ちになる。もし、誰にも見つけてもらえなかったら、あの服はどうなるのだろう。きっと、来年には来年の流行の夏服が登場する。そう考えると、服の賞味期限は短いのかもしれないと思う。

 毎シーズンごとに、流行ファッションが登場する。ウィンドウショッピングをしていると、今季の流行りは大体見当がつく。
 Youtubeでは、多くのモデルの方やインフルエンサーの方が、今年のおすすめの秋コーデをGUやGRL、UNICRO縛りで教えてくれる。きっと、冬になっても同じことがされるだろう。

 流行に敏感であることに憧れは抱きつつも、中々購買行動に移せない私は、大きな買い物袋を抱えた方々を見て、ふと思う。私たちは、目の前の服を本当に欲しくて買っているのだろうか…と。大好きなYoutuberさんが言ったから、周りの人の多くが着ているから、今年の流行りだからなどという理由で、『買わされて』はいないだろうか。無意識に購買欲が高められていることもあるのではないだろうか。もちろん、そのような理由で買うことがいけないとは思わない。私も、憧れの女優さんがCMを務めている柔軟剤を大量買いしたことがある。

 ただ、一度立ち止まって考えてみることは必要なのではないだろうか。『私は、本当にこの服が必要なのか』と。毎年、毎シーズン更新されるファッションの流行。その流行りは本当に必要なのだろうか。お気に入りの一着を大切に着続けることに魅力はないだろうか。

 私は祖母からお下がりをもらうことがある。その服を着ていると、友人の多くが、「オシャレだね」と言ってくれる。同年代にも通用するのである。

 流行は回ってくる。だからこそ、長く、大切にされた服は、一周回ったときには、かっこいい深みのある流行となるのではないか。

 私は、作った方の想いやこだわりを知ることのできる買い物がとても好きである。地元の観光地である倉敷美観地区には、そのようなお店が多くある。製作者の方がお店をされているので、製作工程を見せてくれたり、こだわりや作品への想いを製作者の方の言葉で伝えてくれる。そんな時間がたまらなくワクワクする。

 ものを長く大切に使うことは、製作者の方の想いをあたたかく包み込んで守り続けること、製作者の方の存在を大切にすることだと思うのである。

 次々と新しいものが生まれ、それを簡単に手に入れることができるようになった社会。購買欲を掻き立てられるような新しいものを次々と生み出すことを求められる社会。でも、次々と新しいものが生まれていくにつれて、古いものとされていくものも同じくらいあるのではないだろうか。古いもの、それは、簡単には説明できないそれまでの歴史(=意味)が刻まれ続けているものとも言える。そのように考えられることのできる私でありたい。

  服だけではない。すべてのものの賞味期限が短くなっている気がする。

 でも、そんな中で、目の前の『もの』を作った背景にいる『製作者』の方にまなざしを向ける意識を持つことが社会で生きる一人として必要であると思う。その意識は製作者の方と会ったり、話したりすればもっと濃く、深くなるだろう。古い考え方だと思われるかもしれない。しかし、ものを長く大切にすればするほど、そのものと自分との歴史が、そのものと自分との思い出が刻み続けられていく。案外悪くないと思う。ものを大切にし続けることは、そのものとともに生きる自分自身を、深みのある自分としてくれるのではないかと感じている。

 まとまらない文章。上手く言葉にできない文章。そんな文章であってもすごく時間をかけて書いている。何度も読み返しては、再び言葉を紡ぐ。誰のためでもなく自分のために書いている。この文章もまた、未来の自分が読み返したときに自分の心を豊かにするものであると信じている。

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