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22年前の介護日記

初出原稿:2022年10月14日

「3月8日のシンクロニシティ」という文章の中で、日記を書く習慣が私にはなく、それが苦手だったと書いた。
 無論、それは事実なのだが、人生の中で何度か日記を書く習慣を持とうと試みたことはある。ノートに毎日その日あったこととともに、雑感のようなものを綴っていたこともあった。すべて途中で頓挫し、現段階まで続けることはできていない。
 毎日続ける習慣としては、1日1回出走で定めたコースをロードワークで10km走る、ということを1月累計走行距離200kmノルマとして現在実行しているが、これは2014年から8年継続している。長期に渡って途絶えた期間があったが、ジョギングは2004頃始めたので18年ぐらい続いていると言ってもよい習慣だ。これだけ長期間習慣化できたものは10kmジョグだけで、これからもできうるかぎり続けようと考えている。
 かつて試みたが頓挫しこれからも習慣化できないだろう日記だが、デジタルテキストとして残っていたものがあるので、公開してみようと思う。
 2006年当時更新していたブログに「6年前の日記」と題して公開していたものだが、旧ブログが来年1月で閉鎖になるとの通知を受け、テキストデータのバックアップを少しずつ進める際再発見したものだ。

 だからタイトルは「6年前」だが、今から数えると22年前になる。

 1999年10月に父が脳梗塞で倒れ、半身麻痺の第1級障害者になった。
 介護保険制度が始まったばかりの頃で、さっそく要介護5認定になり3カ月間急性期病院での入院治療を終え、いくつかの病院を転院したあと、自宅介護を始めたすぐの頃である。
 日記は2000年9月から約1月分だ。
 父はこの後入退院を繰り返し、最終的には医療療養病床をいくつか併設した急性期病院に入れてもらい、2007年1月に亡くなった。
 まさしく自らの職を辞して自宅介護し始めた当初の頃の様子で、母ともども気力も体力もまだあった頃の介護日記だ。かなり生々しい表現もあって介護現場での臨場感が伝わる文章かと思われる。
 介護日記は、2006年2月1日にブログ記事として公開した時の序文から始まる。

※ ※ ※

6年前の日記

 父が脳梗塞で倒れて半身不随の寝たきりになってもう7年が経ちます。
 その間、いつ終わるとも知れない希望の無い介護生活が我が家の中心になりました。
 終わらない日々。
 これが終わる時は、決して嬉しいことにはなりえない。
 慣れ親しんだ家族が、親が、一人いなくなる時。
 それが分かりきっているのに、毎日明るく元気で生きていくことなんかできない。
 老いた夫が老いた妻を介護する、老いた妻が老いた夫を介護することの無理が、ここにあります。
 よく片方がずっと介護を続ける夫婦で、介護疲れで心中するということを耳にしますが、私にはそれがよく分かる。
 疲れてへとへとになって、もうやめたいと思うのは、家族も作れず未来もなく老いた親の介護を続ける一人っ子も同じなのです。

 莫迦なインテリ夫婦は、子供にはかねがかかるから子供はいらないだの、DINKS(ダブル・インカム・ノー・キッズ)だ、われらはお洒落な新しい夫婦だなどといって、楽して高収入手にした泡銭を、海外旅行だ、ブランド品だと浪費して、挙句の果てに、誰の助けにもならない人道援助ボランティアだの、反戦平和運動に精出したりする。
 そのようなバカな親のもとに生まれた一人っ子が、どれだけ未来のない辛い生き方を強いられるか、少しは考えたらどうだと思います。
 DINKS自慢していた小●悦子というのがいます。
 この女の顔見るたびに腹が立つのですが、こういう類の女が民放テレビには掃いて捨てるほどいます。
 このような女どもが、バブルの時代に大量発生して、フェミニズム病を蔓延させた。
 その結果が、今の「少子化」という国家存亡に係わる社会問題です。
 そんな女連中に報道の仕事をさせて、日本がよくなるわけがないのですが、妾囲いに精出しつつ、天下国家を論じるのが武士だ、という江戸末期を髣髴とさせる腑抜けた政治意識が老害連中にしみついているから、イメルダ・マルコスのようにでかい顔をしている。

 父が寝たきりになって1年目の頃は、私も元気がありましたから、そのあたりのメディア批判にも元気があった。
 最近は年もとったし、元気もなくなってきたので、いわゆる「顔もみたくない」という状態になっている。
 最近は、民放テレビを全く観ない生活をしているので必然的にこの手の腐った女連中の顔も見ないですむから、心穏やかに生きることができています。
 ファイルを整理していて、6年前に少し書いた日記の一部がでてきたので、すでに書かなくなった、私の終わらない日々の記録をちょっと公開してみようと思います。
 ばかばかしくなって僅か1月でやめた介護日記でしたが、なかなかこの頃は元気でしたね。

――――

2000年9月14日

 今日から日記をつけてゆきます。
 起こったことを簡単に、記録をつけるつもりでやってゆきます。

 台風一過で残暑が厳しい。愛知地方では伊勢湾台風以来の被害であるという。新幹線のなかに18時間閉じ込められた人もいるそうである。
 本日父のリハビリの日、タクシーで病院へゆくのだが、乗せるのに手間取る。何度やってもうまくいかない。タクシーの乗降口が狭いためである。私が乗せるたびに父はどこかに頭をぶつける。頭をぶつけられて、父は笑っている。
 寝たきり半身麻痺になってから父はよく笑うようになった。よく泣くようにもなった。
 いつぞや選挙の際、新潟に車で帰った時の田中角栄を彷彿とさせる。田中角栄さんも脳梗塞だった。
 車椅子に坐って笑う父の痩身は、仏の坐像を彷彿とさせるものがある。老いると仏にちかづく。
 死体のことを「仏さん」と呼ぶのは末期に訪れる急激な心身の変化を感じ取った近親者の感性からでたものであろう。言葉の背後に潜む蓄積物の膨大さを感じる。
 父は脳梗塞で半身麻痺になった。わずか一日で、第一級障害者になる。それが人間の体なのである。
 自宅介護になって二週間。二人がかりでやっても大変なのだから、一人での介護がいかに重労働であるか判然とする。子供を育てることより老人、身障者の介護のほうが間違い無く大変だ。
 夕食前、ぼーっと父が天井をみつめているので何をみているのか訊いてみると「雨」と呟いた。
 雨漏りが気になるようだ。我が家は父が大工だった祖父の真似事をして自分で建てたものだ。だからそのようなところは始終気になるようだ。老いて体が言うことを聞かなくなったので修繕をすることが叶わなくて歯がゆいのかもしれない。
 午後よりやはり雨。蒸し暑さは雨の予兆だった。

2000年9月15日

 雨。夕刻より止む。
 今月26日から「フレッツISDN」になる。これで時間を気にせず、夜も早いうちからネットに接続できるようになるので嬉しい。私はその嬉しさに縋って今生きている。
 精神の奥底に潤しがたい渇きをかかえもつ者は、例えば、明日やると決めた着物の繕い物であるとか、壜のなかに僅かに残った酒であるとか、明日発つことになっている汽車の切符であるとか、そういうものに縋ってようやく明日に生き延びるのである。
 (※ [注] 三島由紀夫『愛の渇き』から援用)

 今朝、テレビではサッカーの日本代表チームがどこかの国と試合をして勝った、勝ったと騒いでいた。
 まるでもうメダルをとってしまったような騒ぎかただ。どこかの民放の実況アナウンサーは日本が得点した時「ゴール」という言葉を28回も連呼したという。
 かつてバルセロナで岩崎恭子が金メダルをとったレースで、実況していたアナウンサーはおそらくNHKの人であろう、オリンピックには馴染みの声であった。
 彼は200メートルの極めて短いレースを極めて密度の濃い言葉で伝えた。後半追い込み型の岩崎は、残り50メートルの折り返し後ペースをあげ、トップに追いすがった。その際実況アナはこう言った。
「日本の岩崎にチャンスがある」
 なんと的を射た芸術的な言葉であることか。これ以外に的確な言葉がないのではないかと思えるほど的確であった。これがまさしくプロの言葉技である。
 彼は終始落ちついていて、決して叫んだりしない。岩崎がトップでゴールする寸前、解説者は「そのままいけ」と興奮ぎみであったがアナウンサーは違っていた。それでいいのである。水泳経験者で、自身もメダル獲得を目指したことがあるのだから、解説者が感情的になるのも当然であるし、伝えるプロであるアナウンサーがどんな場面でも冷静で的確な言葉を発するのも納得できる。それが役割というものである。
 28回「ゴール」を連呼した民放アナウンサーは一体何者であるのか。自分が誰であるかも分からないのではあるまいか。結果、彼らの言葉は意味のない騒音としか聞こえなくなる。無節操という言葉が彼には相応しい。

 夕刻、今度はシドニーオリンピックの開会式があったらしい。私は無論みていない。その時間、私は父の大便の世話をしていた。
 母が昨夜下剤を飲ませたので今日は三度も便がでた。緩い便なので、排便感が狂うらしく、父が極めて聞き取りにくい言葉で「大便」と言い、今からしたいと訴えオムツを開いてみた時にはすでに出てしまっていた。何度もオムツ交換をしなくてはいけなくなった。まだでるというのに交換してしまったらオムツがまた汚れるだけだから、出し切ってもらうため尻をふいたあと簡易トイレに坐らせた。結果、排尿だけで終わった。
 半身麻痺だから自然運動量が不足するので腹筋が弱る。運動しないと腸の働きも悪くなる。便を押し出す力すらなくなってくる。
よって最も怖いのは便秘なのだ。便がでないと下剤を飲ませてでもださねばならない。そうすると通じがありすぎて今度はオムツで手をやくことになる。
 寝たきり老人や身体障害者にとって、たかがトイレと雖も一苦労だ。
 リハビリテーションに、トイレで排尿排便をするという訓練は非常に重要だから、洋式便座ににせて作られた介護用簡易トイレに運んで坐ってするようにできるだけしてやらねばならない。介護する側も、家族がすると要領をえず重労働になる。重労働とはいえ介護する側がサボったら折角病院で理学療法士の方々がしてくださったことが元の木阿弥になってしまう。父より二歳若いだけの母と私と二人がかりで父の用足しをさせる。
 左半身麻痺で、左腕をいつも縮めた状態で動かさずにいることが多い。それが長時間に及ぶと筋肉が硬直したまま固まってしまう。そうならないように介護者は始終ほぐしてやらねばならない。
 自宅介護になって約3週間で、母も疲れが極まってきたか、父が倒れる以前と同じようになってきた。文句ばかり言うようになった。母の愚痴がだらだら続くと父は黙って何も努力をしなくなる。その結果脳梗塞になったようなものだ。これは生活習慣病の一種である。
 私は母の以前に戻ったような小言を遮って、「文句いう前にどうやったらいいのかを考える癖をつけよう。習慣をかえよう」と忠告する。
 
 夜、私が父を風呂に入れた。
 室内用の車椅子に乗ったまま風呂場へ行き、湯をかけて体を洗ってやるのだ。どうしても尻が不潔になるので父は痒くて掻き毟ったらしく。傷がある。不潔だとなお悪くなるので、父を私に縋るように立たせて尻を洗った。姿勢をうまく保てず、洗い方は甘かったが、やらないよりはましである。次回はもっと入念に洗ってやろう。
 入浴といっても湯船には入れない。父は湯船に浸かりたいと言った。可哀相だができないと答えた。介護のプロですら危険だからしないことを素人がするわけにはいかない。何度も体に湯をかけてやり、少しでも入浴した気分になってもらおうと努力する。
 オリンピックがどうしたか我が家には全く関係がない話である。

2000年9月16日

 今日も雨。オリンピックで日本がメダルを3つとったらしい。柔道男女がそれぞれ金、水泳平泳ぎ100Mで銀。興味はないが相対化させるために時事にも言及しておく。

 変わらぬ一日。父の下の世話をし、介護一般をする。簡易トイレに移るとき、父必死に立つ。
 立って歩いてトイレにいく、風呂へ行く、という希望が、父にはある。
 去年の10月救急車で県立循環器病センターに運んだ際、MRIによる脳の断面撮影をみて説明を受けた。その時点で重症であることはわかっていた。死滅した脳細胞が再生することはなく、リハビリによってある程度動くようになっても立って歩く事はすでに100%不可能だ。いわゆる生涯寝たきりなのだ。
 しかし父には希望がある。倒れる以前の肉体を快復できるような気がしている。だから介護者も、
「早く立って歩けるようになろう。リハビリを一生懸命やれば歩けるようになるから」
 と嘘をつく。
 嘘からでた希望ほど嫌いなものはない私が、何のためらいもなく嘘をつく。
 すると父は「ハイ!」と返事だけは元気になるのである。
 私のためには気休めや虚構の希望など要らない。ただ明日は晴れて、涼しくなればいいなと思うのみである。

2000年9月17日

 今日は日曜だから、父が施設へゆく日だ。老健でのデイケアだ。風呂へ入れてもらい、食事をとってレクリエーションに興じるらしい。最後に入院していた病院が河畔につくった老人介護施設である。知り合いが居るわけでもない。大して楽しくもないと口では言うが、行きたくないとはいわない。人がいっぱいいるからだ。若い看護婦さんや介護士がいるから行きたがるのだ。独りでいるのが不安であるらしい。家にいるときも周囲に人がいないと不安が募るようだ。
 先週は迎えの車の到着が随分遅れて10時少し前まで漫然と待った。30分以上も前に父は着替えをすませ、車椅子に乗って待機していた。だから今週も同じような気でいたら迎えが連絡もなく9時過ぎに来た。母が慌てて着替えをさせて車椅子に乗せようとすると父は久しぶりにいらいらして慌てている。
 介護者が粗忽になるとそれ以上に介護される側の精神は不安になる。どんなときでも落ちついていなければならないと思う。
 昨夜は大変だった。股間にかゆみがありオムツをむしりとって掻いた。オムツをしないまま父はそのまま小便をし、布団を濡らした。その後始末に奔走しているときに、迎えの車が予定より早く来たのだ。だからみな慌てた。
先週はなぜか介護士の女性がセダンできたが、今日はマイクロバスで迎えにきてくれたのでほっとした。

 オリンピックは、女子柔道でひとつ銀メダルをひとつとったそうだ。相撲は武蔵丸が一敗で優勝。関心はないが、とりあえず付記しておく。

2000年9月19日

 晴れ。暑いぐらいの陽気。
 庭先に瀟洒な紫色の花が咲いている。桔梗である。
 週二回のリハビリの日。私が外出用の着物を父に着せ、タクシーに乗せる。今日は屋根の開く車が来てくれたのでやりやすかった。花嫁が乗れる車である。
 今は結婚式場が全盛期だが、昔は家から花嫁を送り出したものだから、角隠しで嵩高くなった頭がひっかからぬようにとタクシーもそれ仕様の天井の開くものを作ったのだろうが、すでに需要がほとんどない。
 けれども寝たきりの身障者を乗せるという場面でこれが意外に役に立っている。運転手さんも親切でよい。
 着替えをしているときしきりに体が痒いと父が訴える。
 麻痺した左手は父の意思に従わず、色々なところを強く摑む。緊張して力が入るとどこかを摑んでしまうので、着替えさせようとするとき邪魔になる。

2000年9月20日

 午後階下で父が大声をあげているので慌てておりてゆくと小便をしたいのだという。私がうっかり屎瓶で取るのを忘れていて尿瓶探しに手間取るうちにオムツのなかでしてしまった。
 尿とりパッドをとりかえて、尿を吸ったものの置き場所を捜していると、いらいらして怒った声で、簡易トイレのうえにおいておけと父が命令するので、そんなくだらないことで怒るなと言い返し喧嘩になりそうになる。
 病院にいるころは周囲に色々な人がいたので気力も持続したのだろうが、誰とも会わない自宅介護は、介護する側される側双方徐々に気が滅入って来る。車椅子に乗せて散歩にでも連れていってやったほうがいいかもしれない。
 オリンピックの結果、いくつかメダルとったはずだが、関心がないので分からない。だから今日書くのはやめておく。

2000年9月22日

 小雨。
 昨晩から父が寝汗をよくかいていた。始終寝てばかりいて覇気がない。何か調子が悪いのか聞いてみても「わからない」とよく聞き取れない言葉で言うのみである。
 母が不安になって病院へ連れてゆくという。父に、介護している側にとって体調崩していても分からないから意思表示ははっきりするように言うと、また脳梗塞が再発したかもしれぬという不安から、父、少々ヒステリックになる。
 死ぬ、ということが怖いのだということがよくわかる。
 死が怖いから、父はよく笑うようになったのだ。
 車椅子に坐らせてみるとしっかりした顔になる。顔色も決して悪くないので、それなら心配ないだろう、大丈夫だろう、と云うと少し落ちついたようだ。
 とても聞き分けのよい、躾のよい子供のような単純さで私の言うことを父は信じる。
 5時半にタクシーで病院へいったが、8時ごろになっても帰ってこない。心配になって病院に確認の電話を入れたら、今点滴中です、という答えにしばし安心した。
 けれども、電話を切ってすぐ、父と母はタクシーで帰ってきた。確認しないまま病院側が答えたのである。結果的には大事はなかったが、いい加減さに閉口する。
 父の体調不良は、水分をあまりとらないためらしく、もっと水分をとるよう言われたらしい。父の気持ちはわからないではない。介護の者がいないと小便は寝たまますることになる。それが嫌で、水分をとらず、お漏らししないように我慢するのだ。
 思うままにならぬ体の不憫を感じる。オムツのなかより尿瓶へ、オムツのなかより簡易トイレに坐ってやりたいのである。それが自身へのプレッシャーとなって小便すまいという方向へ向かう。
 確かに始終下の世話をしなければならないのはわれわれにとって大変だが、そのような辛さを父が負わねばならぬなら大変でも世話するほうがよい。
 それを父にどう伝えるのか、言葉が見つからぬ。文句も言わずにただにこやかに冗談を言いながら世話をつづけるしかないのかと思う。

2000年9月24日

 今日も父は施設へ行った。午前10時からで迎えに来るのが9時半前後。その際手伝いをしなければならないと思っていたら気がついたら10時をまわっていたので、驚いて階下に駆け下りると、すでに出て行ったあとであった。
施設からの迎えの人に手伝ってもらったとのこと。てっきり母が寝過ごしてしまっていると思っていたので、ほっとした。
 帰ってきた父は小鼻の横に怪我をしていた。エレベーターから降りる際前のめりに倒れたという説明があったそうだが、父は自力で立つことも歩くこともできないのだから、施設側の人間の不始末ではないのか。身動きのとれない口も利けないのをいいことにいい加減な扱い方されたのではないかと立腹する。
 障害者や介護を要する老人も単独ではどんな扱いを受けるか分からない。扱いが悪ければ理路整然と文句を言う家族がどうしても付き添っていないといけない。そんな福祉であっていいのかとの憤懣がまた湧く。
 父に事情を聞いてもどうもはっきりしない。一度どんな扱いを受けているのか見に行ってみなければならぬ。付添いのいない病院や介護施設は密室の典型である。決して安心できないというのが私の考えだ。

 オリンピック女子マラソンで日本人が金メダルをとったらしい。相変わらずテレビによるドラマ仕立ての伝え方が気に入らないが、選手に悪感情もってもしかたがない。猿まわしの曲芸は、猿回しの親方がやっているもので、舞わされる猿の罪ではない。むろん、猿がスポーツ競技者、猿まわしの親方は大衆である。

2000年9月26日

 今日父リハビリの日。母がベッドから独りで車椅子に乗せた。車椅子に乗せること、簡易トイレに坐らせること、タクシーに乗せることは母には大変で、よく失敗したため、いつのまにかいつも私がやるようになっていた。
 父はどうも今日虫の居所が悪かったようで、「楽しくなかった」と言っていたらしい。入院時には看護婦さんや理学療法士の人たちがいつも父に話しかけてくれて、それが嬉しく、退院後も通院とリハビリは休みたいとも言わずよろこんで行っていたのだが今日は違ったようだ。どういう心境の変化か分からぬが、常に色々内面で葛藤しているだろうことは薄々分かっている。
 自分の足で立って歩きたい、自分独りでトイレにいきたい、など、健常者ならば当たり前のことが極めて困難であり、そんな当たり前のことができるようになることに生きることの希望すべてがあったりするように思われる。その希望の燭火が、灯ったり、消えたりするように思われる。
 麻痺した左手は本人の意思を全く聞かず、摑みたくないところを勝手に摑むらしく、着替えさせたり、車椅子から下ろしたりさせる際よく邪魔になるが、「じゃませんといてーな、いうこと聞かん左手やな」というと父は笑って右手で左手を叩いて叱るようなしぐさをする。
 自分の右手を左手が摑んで放さないので、自分自身の二つの肉体が格闘したりもする。左手は決して死んではいないが、父の意思以外のなにものかの意志に従って行為するようだ。それは誰の意志なのか?
 きっとそれは神の意志であって、父が神の御許にちかづきつつあるということである。私はそれを、神と呼び、決して死と呼ぶつもりはない。

 フレッツISDNの接続がなかなかできぬ。いらいらしてプロバイダーやNTT西日本のホームページを開いてみたら、全般的に接続しにくい状態にあると報告が掲載されていて、少し不安がやわらぐ。文句メールを送るのも、しばらく見合せることにした。

2000年9月28日

 陽気は良好、少し肌寒いほどだが日中は温暖である。
 今日も週二回のリハビリの日。タクシーに乗せて送り出すのもかなり慣れてきたのでうまくいった。
 午後、母が外出中階下で父の呼ぶ声を聞き、駆け下りてみると、いつもながら理解困難な言葉で何かを訴えられる。「飯」「5時」だけは聞き分けられたのでそこから何とか意思を解さんとするが叶わず。父は意思疎通を不可と悟ったか、何を言っているのかわからないな、と言って笑って言うことを諦めた。
 このところ独りでベッドにて横臥しているとあらゆる意欲が後退するのではとの危惧より、夕食の仕度をしているとき車椅子に乗せて、食卓付近に居させるようにした。目の前の食卓に置いてある豆や飴を自分でとって父は食したりするが、それでも気晴らしにはなるだろうという配慮からだ。車椅子に坐って姿勢を正すこともリハビリの一環として継続せねばならない。
 そのことを言っているのであろうと私は推測して、車椅子に乗せようかと訊くとそうすると言う。
 その前に小便はしたくないか、大便はどうか、と念のために訊いてみると小便をしたいと言う。オムツを開いてみるとすでに尿とりパッドは水分を含んで重くなっていたのでそれを処理して、まだ出るというので尿瓶を当ててやる。200ccほど排泄した。
 車椅子に乗せる際、パジャマのズボンが湿気ているので汗なのかと思うがオムツを丹念に調べなかったので後に小便で濡れていたと分かってわが迂闊さを悔いる。さぞ冷たい不快な思いを我慢していたことであろう。
オムツをはずすと失禁のため、陰部周辺は臭いが凄い。だから今日は必ず風呂に入れてやろうと思う。
 私がどうしても風呂に入れるという意思を通して夜風呂へ入れるが、湯船に浸けることができないので、ほとんど行水の如き入浴にならざるをえず、父がしきりに寒いと訴える。急いで体を洗ってやり、父が髭を剃っている間も体が冷えぬように湯をかけつづけてやる。
 湯の温もりの立ち込めた風呂場にて体をふいてやり、それから外へでる。少しでも寒い思いをさせないためである。急いでパジャマを身につけさせて布団へ入れ温めてやる。風邪をひかないようにと祈りつつそうする。
湯船に浸かりたい気持ちが強く、それが叶わぬことが悲しいらしい。いつか方法を考えて湯船に入れてやりたいと思う。そのためには父の体を楽々と持ち上げられるように体を鍛える必要がある。
 また運動に精をだそう。

2000年10月06日

 午後1時30分、突然家が揺れ出す。地震である。微かな揺れから徐々に大きな揺れへと変わって行くので、危険を感じて階下へ駆け下りる。二階を少しでも軽くするためと、父が逃げられるようにしようと思ってのことだ。階下では母が父に取り縋っていた。
 父の体が重くて咄嗟の時に動かせないので、落ちてくるものを自分の体で受け止めようとしたのであろう。我が子を守る母親のような反射である。父はちょっとしたことでも不安になり、不安になるとすぐに取り乱して泣く。それを聞いて母も取り乱すという連鎖反応の結果そのような状態になった。
父が咳をし、喉が痛いというので、厚着をさせようと押入れやら箪笥やらを物色していたとき突然地震が生じたということらしい。
 すでに揺れは収まっていたが、二人がかりで父を車椅子に乗せる。綿入れを着せて、靴下を履かせて、寒くないようにする。母も、私も、地震の危険を感じとって寝たきりの父を救うことだけ考えていた。自分が助かることなど考えていないことに落ちついてきてやっと気づく。そして、みんなが助かったことを心から喜んでいる。
 震度は4。阪神大震災時並であったらしい。
 地震発生直後すぐにテレビをつけたとき、速報では、北陸地方に地震発生で、震度3とでた。その後で、震源地が鳥取西部の地震速報が流れた。震源地の震度は6強。マグニチュードは7.1。後に訂正されて7.3と発表された。
阪神大震災なみの規模とエネルギーだが被害は比較にならないほど小さかった。なぜかは判然としている。震源が山奥の田舎で、人口密集地でなかったこと。それと地震の性質である。
 直下型で震源の深さは10kmらしいが、直下型かどうかはどうでもいい話だ。重要なのは断層のずれる方向である。阪神大震災で、断層は縦ずれと横ずれを同時に起こした。むしろ縦ずれのほうが大きかった。瞬間的に大きな縦揺れがあったのだ。だからか弱い木造の古い民家や、建築基準法改正前の、ビルが倒壊し、死者が多数でたのだ。今回の鳥取の場合は、ほぼまっすぐな横ずれで、地震も横の振動だけだった。そこが最大の違いである。
政府に臨時被害対策本部が設置されたがすぐに解散になったらしい。地方自治体で対処可能な程度とわかったからであろう。
 鳥取ではかつて1943年に震災が生じ、1000人の死者を出している。それから淡路の野島断層が1995年に動いて、再び鳥取で断層が動いた。その間姫路近郊で最も危険な断層とみなされる山崎断層も一度動き、震度4程度の地震を起こしている。1984年ごろのことだ。断層の活動も一巡したとみてよいのかもしれない。
 父はしばらく情緒不安定だったが、やがておちつく。母は、「神戸みたいにならんでよかった」とか、「怖かったなァ」とか、声色を変えて悲しいことを父に言って聞かせる。それを聞いて父が泣く。私には、母がわざと父を泣かせて遊んでいるように思えた。
 また、終わらないかもしれない日常に戻った。

2000年10月10日

 早朝3時ごろ、階下で父と母の話し声がするので、また排便かと思い下りてみると、そうではなかった。
 父が母に早く風呂へ入れと珍しく気遣うようなことを言い、母が「入りたいけど、風呂場まで行くのがしんどい」などと言っていたのだった。
 父が終始笑顔の優しい表情であったのがとても珍しいことだった。いつもは脳梗塞で言語中枢をやられているので、思いと言葉が一致せず、何度も同じわからない声を発し、それを私たちが必死に聞き取る。
何とか云いたいことを聞きとってはいるが、全く分からない時も多い。
「わからへーん」
というと機嫌の良い時は笑うが、機嫌が悪いと癇癪を起こしたりするのだが、今夜は機嫌がよいのだ。
 母が「風呂へ行ってから大便いわんといてね」と言い置いて風呂に入り、私が二階に戻った後、父が呼ぶ声がしたので、下りていってみると、父がしきりに何かを話したがる。長い時間かけて聞き取った結果はこうだった。
――地震の日以後、頭が可笑しい。テレビやラジオを聴いても時間が思った時間ではない。時間の感覚が狂っている。前後が逆になったりする。ボケたのではないかと不安である。――
 父は昔から無口で、自分のなかで起こる変化について訴えない。だから病気でも家族はきづきにくい。ほんの少しでも異変を訴えるとその10倍ぐらい危険だと認識しないといけないと私は理解していたので、父にこう問うてみた。
「変やったら今から救急車呼ぼうか?」
 そういうと父が急に不安そうな顔になるので、病院へ行きたがらないことの間違いについて説明し、病院へ行って何でもなかったらそれでいいことであって怖がることはない、私たちでは判断できないから医者にみてもらったほうが安心できるのであるということを伝える。
 母が戻ってきて父の言うことを勝手に解釈して大丈夫であると結論づけようとする。通院でも金曜土曜にしか主治医がいないのでそこまで待つと言うので喧嘩になった。
 母はこのような時の判断が常に遅く、先延ばしにしたがる悪い癖があり、それに私が従っていて父が重症になった経緯があった。
 父が倒れた時、私には脳梗塞の知識が全くなかったが母は講習を受け、対処方法すら勉強していたのに、決断を先延ばしする癖と、日頃の父の不摂生の延長のようなつもりで愚痴をいってばかりいたので、処置が遅れたのだ。 結果的に、よくわからないがすぐ救急車を呼ぼうといった私の判断が正しかった。
 それと同じ癖を示したので、私が怒ったのである。「私だったらすぐ救急車を呼ぶけど」といいつつ、父にどうするか訊いたが父も救急車を怖がるので、誤魔化しの言葉を連呼する。
 怒りを抑えつつ、様子をみながら今日のリハビリの際担当外でも診察を受けるかどうか決めるということになった。
 午前中リハビリ通院の用意をする際、様子をみて、診察は見送った。いつもどおりで危急を要する容態の変化がなさそうだったから、金曜土曜の担当医の時にしようということになった。ぼけたどころか、むしろ以前より何事もよく記憶しているようですらあった。
 けれども念のためということで私も母に伴って病院へゆくことにした。リハビリセンターにて、二年ほどまえ肩こりのリハビリを受けていたころの理学療法士の女性ひとりをみつけ、二年前のことを思い出す。あとはすべて知らぬ人だった
 二年前もそうだったが「ホットパットつけますよ」という意味で、「ホットパットつけてもいいですか?」という云い方がここの習慣のようである。すっかり忘れていたが、同じように云うのを聞いて、そのことを思い出した。
 父に若い理学療法士の女性が色々はなしかけてくる。それが父の最大のよろこびである。楽しげに笑い、帰るときは手を振ったりする。その様子をみても異常はないように思われた。
 タクシー乗車の手伝いをして、自宅へ帰りつくと、明日11日にシャワー付きの風呂に換える工事があるのだろうと父が確認してきた。業者と交渉した母すら忘れていたことを父は聞いていて憶えていたのである。
「それでボケたいうて心配してたら怒られるで」
 と笑い話で終わった。
 不安がないわけではないが、大したことがなさそうなので、父の情緒を考えて、穏便に対処することにした。

 テレ朝のワイドショーがまた鬱陶しいことをやっていた。
 いつもは下らない事件レポートするレポーターが富士の青木が原樹海に入って自殺者レポートをしてこんなことを言った。
「自殺は決して美しくない。汚いもんだ。綺麗事の小説の読みすぎで自殺するのは莫迦である」
 何も分かってない愚かな男である。
 自殺者の死に様だけみて、汚いとは、よほど自分は綺麗に生きて死ねるつもりらしいが、たった一度自殺死体をみただけで「汚い」と言えるとは、不思議な感性だと憤ってしまう。象だって、トムソンガゼルだって死んだらハゲワシに食われて惨憺たる死に様になるのだ。樹海のなかにある死体は、むしろ野生動物に近いものであって、それが汚く見えると言うのは、自然のなかで生きられる生物ではなくなっている愚かさを自ら白状したに過ぎない。
 私には百歳の誕生日に周囲にちやほやされてへらへら笑っている老婆をテレビのニュースで見せられるほうが「汚い」と感じる。老人は、肉親の側で老いてはじめて、肉親や近親者にとってのみ価値ある老いなのであって、決してそれ以外のために老いてゆくのではない。普段は老人ホームのなかに纏めて捨てておいて見向きもしなくせに、百歳になったらやおら連れ出されて、縁もゆかりもない赤の他人のまえにその老体を披露させられる。肉親のために老いてなお生きるという役割を果たしもせず、赤の他人に「夢と感動」を与えるために「消費物」と化してなおへらへら笑っていられる恥も、誇りも、人間としての尊厳の欠けらすらもない老婆のほうが、私は断然「汚い」と感じる。こんな生き方はしたくないものだと腹の底から思う。人間ただ生きてさえいればいいというものではない。
 身障者も老人も同じ人間である。厄介払いのように施設に纏めて隔離したり、見ればいかに自分が五体満足に生きて倖せかを確認する物差しにするだけではないか。憐れみは自分より劣る者へ向けるものだ。劣る者の可哀相な姿をみて鬱憤を解消する。ただ生きているだけが倖せと再確認するなど、身障者や老人は大衆という名の豚の餌扱いだ。そんな豚として生き長らえて何が面白いというのだ。
 満足な豚が不満足なソクラテスより倖せであるという下らない時代をいつまで続けるつもりか。
 ワイドショーは正しく生きんとする者の生活意欲を削ぐ。これ以上家畜を勇気付けてどうしようというのか。ワイドショーがなくなればどれだけ不愉快な思いをせずにすむことであろうかと心から思う。

2000年10月11日

 夕方までかかって風呂の工事。
 職人さんは次に仕事が入っているらしく昼食もとらずに働いてくれた。午後4時ごろ終了。
 それから母が説明書をみながら一時間近く操作してみるも、よくわからず、気温も下がってきたので、父の入浴は明日にしようということになる。
自動給湯にしていたら湯がいっぱいになっていてもったいないので、操作の勉強がてら私が入ってみることにした。父を風呂へいれてやる役割は私がするのだから、勉強しなければいけないのは私なのである。
 父はシャワーをとても楽しみにしていて、工事直後に入れると夢を膨らませすぎていたので、午後8時頃母が隣でテレビをみていると、テレビなどみていないで風呂を沸かして来いとしきりに云うので、以前、この時間の入浴で寒かったことを思い出してもらい、明日リハビリの後すぐいれてやることにしたこと、新しい機械で私達にも使い方がよくわからないこと、工事が思ったより長引いたこと、などを説明し納得させるのに難儀した。

2000年10月12日

 リハビリ通院の日。
 かえってきてすぐ風呂に入れるように私が準備する。
 早目に湯船に給湯し、ふたをあけたままにして、浴室を温めておくのである。
 昼過ぎに父帰宅。
 室内用車椅子でそのまま風呂場へ連れてゆきシャワー中心の入浴をする。頭から不用意にシャワーをかけていると、父は「息ができない」と訴える。風邪気味で、施設へのデイケアーと週一回の自宅入浴をパスしたので、久しぶりの入浴であった。
 父に、気持ちよかった、という確認をとって、何となく倖せな気分になった。

以上。

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