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女傑列伝 高杉晋作を看取った女

こんばんは!
志士たちの人生に関わった女性です。

野村 望東尼(のむら もとに)、1806年10月17日生
尊王攘夷思想の放蕩の歌人です。

福岡藩士の娘に生まれ、和歌や書道はもちろん、地元で尊王思想を学びながら所帯も持ちましたが、54歳の時に夫が亡くなったことで、大阪に出向き大隈言道(江戸末期の歌人)の元を訪ねたことが、彼女の人生のターニングポイントになりました。

文久元年、赴いた大阪と京跡で、正に時代の潮流を眼下にすることとなりました。
島津久光の上洛、寺田屋事件など物情騒然とする京都の様を体感して、さらにその中で時代の奔流に抗い活躍している志士たちの慟哭が、望東尼の尊王精神の本能に火を灯すことになりました。

福岡へ戻った望東尼は、積極的に志士たちを支援します。
自身の山荘「平尾山荘」を秘密会議の場として提供し、時には多くの志士たちかくまったりしました。
助けを請うた志士たちは、月照・長州藩士・熊本藩士・中村円太・高杉晋作などなど。

しかし、尊攘派弾圧の波は彼女に身に迫ってきました。
藩の密命を受けていた彼女に弾圧の手が伸びてきました。
幕府に捉えられた身柄は「姫島」(現:福岡県糸島市)へと流刑になりました。
しかし、1866年、9月に至り、福岡脱藩藩士たちの手引きで、脱出に成功して下関の豪商に匿われました。

そこでは、病床に着くことになった高杉晋作の介抱にあたることとなり末期を看取ります。

今わの際に読んだ晋作の句
「おもしろき 事もなき世に おもしろく」
に続けて、望東尼は
「住みなすものは 心なりけり」と詠んだことは有名ですね。

望東尼は、その後二人扶持を与えられるなど厚遇されますが、薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食がたたり、体調を崩したことで1967年11月に62才で死去しました。

今は、天国で志士たちと、どんな句を詠んでいるでしょうか。
とても、気になります。
この望東尼は、後世の女性の生き方に大きく影響を与えました。
ひの続きは、次回に。
お付き合いいただきありがとうございました。





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