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地元とニューメキシコ州じゃ負け知らず「名護の幸次」|Report

『北米沖縄人史』(1981年)に次の記述がある。

一九〇二年頃、サンフランシスコにいた仲座盛常は英語をよくし、英字紙に寄稿したり、懸賞文を書いたりして、排日思想とたたかったが、路上で日本人いじめをする白人を相手によく空手を用いてやっつけて、武勇伝にも花を咲かせた。仲座の様に空手をたしなんだパイオニヤは数多くいた。
名護の名物男仲村幸次もその一人であった。一九二七年頃或る宴席で多くの若い男達の演武があり、見物人の中に屋部憲通がおり、仲村の空手は本格的だと激賞した。仲村は常々一対一では自分は本部朝基に勝るとも劣らないが、多人数を相手にしては本部が勝っておると豪語していた。(玉城重盛談)

【出典】『北米沖縄人史』p546-547

今回焦点を当てるのはこの人、仲村幸次である。戸籍上は仲村貞一だったらしい。だが、どちらの名前も「沖縄県系移民 渡航記録データベース」でヒットしない。1877(明治10)年に名護の大兼久で生まれており、1903年に移民したようであるから、26歳前後の渡航だったことになる。

この本の別の項に「名護の幸次」に関する詳しい記述がある。書き手は玉城重盛である。長いが引用する(読みやすいように段落替えは行うが、他は原文ママ)。

弟の幸次は、兄には似ず少年の頃から音楽狂で十歳ころから三味線を弾き、十七、八歳の頃には琉球民謡は勿論、古典音楽も自在に弾きこなして師匠を驚かす程だったといわれる。
それに彼は生れつき武道を好み、少年時代から空手の修練に人しれず苦心、名護宮里に住んでいた斯道の大家「又吉の老人(たんめー)」から本格的な訓練をうけた。十七、八歳頃には、国頭郡はいうまでもなく遠く首里那覇の武士(空手の達人をそう呼んだ)の間で名護の幸次として有名だった。<中略>
彼は又沖縄相撲でも県下で「名護に幸次あり」で知られていたし、五尺三寸たらずの彼が一度相手と組むや、電光石火で得意の「ヌシ」で相手を投げるのが常だったといわれる。

【出典】『北米沖縄人史』p748

ようやく青年期にたっした私(註:玉城重盛)は、長年あこがれていた「名護の幸次」を同居者としてその動作、思考、人柄を側面から観察することになった。その頃四十歳になったばかりの彼は、五尺三寸たらずの短軀だったが筋肉りゅうりゅう、眼光は人を射る概があった。当時の若い時代の一世同志の集りで欠かせなかった酒を、彼が嗜むのを見たことがなかった。

【出典】『北米沖縄人史』p748-749

ある日生意気さかりの私は待っていましたとばかり、「沖縄で名護の幸次としてあなたはすごい人気だったと聞いているが漸く二十歳そこらの若さでメキシコ行にふみきった理由は?」ときいたら、彼は「命が惜しかったから――。私がようやく青年期にはいった頃の首里、那覇の夜間は、うっかり歩けなかった。ということは当時の沖縄では、腕に自信のある若手の連中が私に『腕試し』するつもりで暗やみから挑んでくる。その都度私は彼らをやっつけるというより、難をさけて逃る(防いで去る)というのが私の遣方だった。つまり沖縄にいては生命が危険だと知ったからだ。」と答えた。
近頃日本から伊藤五段(柔道)が渡米して、レスラーと転戦しているが、あなたは彼に勝つ自信がありますか?という問いには「結局それは他流試合になる。それで私は伊藤に自分の手首を握られないように気を配る。つまり相手を寄せつけず離れて闘えば私は負けないだろう」と答えたが、勝つとは言わなかった。
ニューメキシコ州のラテゥー市で、日本からきた柔道家を投げて怪我をさせたと、同地からの人の話だがその経緯は?との問いには、「その男は日本からきた柔道三段だと言っていた。白人レスラーと試合をするとのことで日本人間から、稽古相手をさがしてくれとの事で私が引っぱりだされた。だがその男が礼儀をわきまえない高慢な男だったので、『沖縄の武士』の誇りもある。私は懲らしめてやろうと思ってやったことだが、あいにくその男がランプのほやにあたり、怪我をしたので試合はオジャン。悪意でやったのではなかったが、マが悪かったのだ」と説明した。
私(筆者)にも空手を教えて下さい、には「お前は短気で気性が荒いから、まだ教える訳にはゆかぬ」。他の一問一答がかなりあるが省略する。
彼は又野外集会で空手の型を演じて観衆を熱狂させたり、メロンの収穫期に、密入国者がりにやってきた白人移民官に、パーキングシェードの台に座り、胸っ腹を開けて「拳てつで力いっぱいついて見よ」と泰然と座る。移民官は「ほんとか?」と念をおす。「大丈夫だ」と彼がいうと、いかにも不安そうな顔をして早々と立去るのである。
得意の沖縄相撲も、(註:インペリアル・)バーリーの若者で彼に勝てる者はいなかった。ある日二人の若者に両側からロップで首を締めさせて平然としていた。
人は幸次を、「生れ武士」だといっていたが、それはつまり先天的な武士だということなのだろう。

【出典】『北米沖縄人史』p749-750

私の関心にひっかかったのは名護市宮里の「又吉のタンメー」という空手家である。1877年生誕の彼が10代前半の頃、すなわち1890年頃といえば、首里第一中学や沖縄県師範学校で空手が教えられた1905年よりずいぶん前である。やはり明治中期までには空手が沖縄県内に広まっていたと考えなければ、この師弟関係は成り立たない。屋部憲通を感心させるレベルの空手伝授がなされているということは、「又吉のタンメー」は北部に移住した寄留士族だったのではないだろうか。

NHK番組「ファミリーヒストリー」の又吉直樹の回からインスピレーションを受けて、又吉姓のルーツを調べたブログがある(『ファミリーヒストリー あなただけの歴史』参照)。それによると、名護市の又吉姓は71例。又吉家があった汀間(名護市の東側の集落)では、1903(明治36)年の戸数88軒中、30軒が旧士族だったという。又吉姓は麻氏門中に連なるようである(久米三十六姓ではない)。

明治期に腕試しや掛け試しといわれる無頼な慣行があったことはよく知られている。那覇の歓楽街・辻が有名である。名のある武芸者を待ち構えて勝負を挑むことを、若くて功名心にはやる新参がよく行っていた。当初は礼儀を踏まえたうえでの空手の自由組手だったが、後年になるとストリートファイトに近いものに様変わりしていったようである。

名護の幸次の時代はかなり無法な私闘が行われていたのだろう。身の危険を感じた彼は沖縄を出ることを決意した。とはいえアメリカでも鉄道襲撃などやらかしていたような記述もあり、やんちゃさは完全に影を潜めたわけではなかったようだ。ただ本部朝基の一節は、強い武士の代名詞であったから引き合いに出しただけであり、虚栄心で言ったわけではないと思う。

彼は農園仕事は下手だった。一寸でも閑散(農事が)になると友人から貰った破損した三味線を修理して、好きな民謡から難解な古典音楽を弾いて楽しんでいた。琉球特有の「カチャーシィ」というテンポの速い音楽で人を舞わせて上機嫌だった。彼は又どこから探しだしたか分からない古ぼけた琴を程よく修理して弾いていた。彼がカチャーシィを弾くと三味線の相当に上手な人が彼についてゆけなかった。

【出典】『北米沖縄人史』p750

明治・大正期の武道家にはなぜかこのように芸能にも秀でた人物が多いような気がする。舞踊に関しては身体所作の共通点があるからと理解できるが、音楽はどうなのだろうか。リズム感との関連性などあるのだろうか。音楽を愛する心のゆとりみたいなものが人を精神的に強くするのだろうか。いつか識者に聞いてみたい。

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