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屋部憲通から力道山まで 〜ハワイと空手の数奇な運命〜|Studies

沖縄空手の伝播に関する考察です。以前の記事👇の元ネタです。敬称は略しています。

屋部軍曹と呼ばれた武人

屋部憲通は1866年(慶応2年)の出生である。首里山川村(現在の那覇市首里山川町)が生家で、隣家が松村宗棍宅だったこともあり、松村を空手の師とした。他に糸洲安恒、松茂良興作にも師事したとされる。同門のよしみもあってか、本部朝基とは幼少の頃より非常に親しくしていたらしい。

屋部が「軍曹」と渾名されるゆえんは、沖縄県中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団し、27歳のときに陸軍一等軍曹に昇進したからである。その活躍は当時の新聞紙上でよく報道された。最終的には中尉にまでなり、従七位を叙位される。

日露戦争後は、沖縄県師範学校の教諭として体操教練の指導に当たり、生徒に唐手と角力を指導した。生徒には、許田重発(疎開先の大分県に移住し、その教えは東恩流と呼ばれる)や儀間真謹(船越義珍の松濤館流の重鎮として活躍)がいた。

アメリカからの帰国後の1929年(昭和4年)には、再び師範学校の武道教授として嘱託され、空手を指導するようになる。1936年(昭和11年)には、沖縄県空手振興会の創設に加わり、指導部長の要職に就いた。空手道の普及発展のための組織で、会は「空手道基本型十二段」を考案している。1937年(昭和12年)、屋部は病気のため71歳で逝去した。

屋部は主に学校教育の場で空手を指導しており、教育空手の重鎮ではあるが、流派を構えたり直系の弟子を残したりしなかったため、現在の沖縄空手界では半ば忘れられた存在になりかけている。しかし、先駆的な組手研究や実戦の重視など(注1)、同時代の空手家とは明らかに異なるメンタリティを持つところに興味をそそられる。

ハワイの屋部

屋部は1918年(大正7年)に米国へ旅立つ。体育教育視察のためであり、1920年にロサンジェルスの邦人小学校と私立公会堂で空手を実演したという情報がある。アメリカにおける最初の空手演武と考えられる。

しかし、屋部にはそれ以上の目的があり、滞在は長期化する。ロサンジェルスに移住した長男・憲伝を訪ね、願わくは孫息子を連れ帰りたいというのがそれで(注2)、各地の農園で働きながら、結果的に8年間も滞在した。

日本への帰路の途中、屋部がハワイに到着したのは1927年3月のことである。アメリカ本土とは異なり、屋部はハワイに強烈な足跡を残している。

まず、型を披露する空手(報道では唐手)公演を数回にわたり行っている。その多くは沖縄県系人が中心の小さなお披露目だったが、同年7月8日の公演会はホノルルのヌアヌYMCAの体育館が会場で、ハワイの一般住民にも門戸が開かれた本格的なものだった(注3)。日系紙だけでなくハワイの一般紙でも告知されており、700人が集まる盛大なデモンストレーションとなった。主催者は球陽体育協会と実業之布哇社となっている。

この公演会では、屋部のほかに数名のハワイ在住の沖縄系移民の空手家が参加していた。屋部がホノルルで空手を教えた人たちである。ハワイ報知紙の記事からは、全員ではないが、宮里三郎、上里良樹、照屋牛、湖城次郎、喜屋武久精、仲間良樽金、川上善太郎、岸本伊俊、安里貞男、照屋三郎、城間次郎、比嘉眞貞、安座間太郎らの名前をみつけることができる(注4)。また、川前寛春が教授助手としてハワイ側の演武を指導したとある。

これはハワイ在住の空手史研究家であるチャールズ・C・グッディン氏の調査成果だが、崎原貢による移民インタビューでも裏付けられる(注5)。崎原によると、屋部は来訪時にボロボロの格好をしており、青年たちに空手を教えていくらかの収入を得るよう、ある力士が手配したという。屋部は後日このときの御礼に、「尊朝親王御親筆と伝えられる、古色蒼然とした、多武峯寺検使の印のある書翰裂」を滞在先の上里良温医師へ贈っている。

本部朝基と東恩納亀助

屋部のあとにも高名な空手師範のハワイ訪問は続いた。1932年3月、本部朝基がハワイを訪ねるが、諸事情により入国が認められず、不当にも税関に1ヵ月ほど拘留されていた(そのときに宮城トーマス繁ら数名に空手指導したとも伝わっている)。

1933年8月には、陸奥瑞穂(松涛館流)、東恩納亀助がハワイを訪れた。空手の講習会を開いているが、これが沖縄県人以外に空手を教えた最初の機会だった。彼らの滞在中に2つのホノルル唐手青年会(のちのハワイ空手青年会)が発足している。東恩納は本部朝基の直弟子。当時30歳で、東洋大学学生兼体育助手。具志頭村出身で、母がハワイ在住だった。陸奥は東京帝大で船越義珍に師事し、のちに大塚博紀と行動をともにするが、ハワイ来訪の頃は本部朝基の道場に出入りしていた。

宮城長順から沖識名へ、沖識名から力道山へ

1934年5月、宮城長順(剛柔流)らが来島し、8ヵ月ほど空手の実演講習を行った。宮城の来訪は、洋園時報社の金城珍榮社長(幼少期を過ごした那覇で宮城長順に師事)の招聘であった。宮城はハワイ各地で演武や講習会を行ったが、マスコミに大きく取り上げられることはなかった。それは宮城が教会や自宅のような私的な場所で実演・指導を行ったからである。

宮城はハワイから鍛錬具の金剛圏を持ち帰ったとされる。ハワイには空手のみならず、日本の柔術や剣術、中国武術、フィリピンのエスクリマなどが移入され、複合的なマーシャルアーツが育っており、そうした動きを柔軟に取り入れたものだと考えられている。

また、宮城はマウイ島で沖識名(本名は識名盛夫。与那原出身で1904年に生まれ、1909年に移住)に空手を指導している。識名は巨漢で、日本相撲と柔道でも名をはせた。識名はのちにレスラーとなるが、力道山が相撲からプロレスに転向するとき、ハワイを訪れ、識名からトレーニングを受けたことはあまり知られていない。日本中を熱狂させた力道山の空手チョップ(プロレス技であり、本来の手刀打ちとは大きく異なる)は識名が伝授したものである。そうすると、おおもとは宮城の剛柔流ということになる。

おわりに

沖縄空手家のハワイ訪問の流れをつくった屋部だが、カリフォルニア州に滞在中は空手を封印していたと考える向きもある。だが、屋部ほどの手練れである。約8年にも及ぶ期間まったく空手から離れていたとは考えにくい。カリフォルニアの沖縄系・日系社会での閉ざされた空手指導はありうるし、少なくとも個人的な鍛錬は欠かさなかったのではないだろうか。そう考えないと、帰路のハワイでの空手の指導や演武、帰国後の師範学校での指導再開の説明がつかないように思う。

付言すると、屋部はアルゼンチンへの空手普及にも関与したかもしれない。安里亀栄という人物は、現在の中城村奥間の出身で、空手の使い手だった。1935年にはアルゼンチン初の空手公演を行っている。この安里の空手歴について、「空手は名護の屋部憲通軍曹直々の指導を受け継いだ空手家でこれ又亜国での始祖である」と記述されている(注6)。「名護の」という箇所など信憑性には疑問が残るが、本当だとすれば、弟子を通じて空手の南米上陸に寄与したことになる。

<出典及び注釈>

  1. 『拳法概説』三木二三郎・高田瑞穂著、1930年より。

  2. 『沖縄空手古武道事典』高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著、2008年、柏書房より。

  3. “The Roots of Okinawan Karate in Hawai’i” by Charles C. Goodin(「CHIMUGUKURU the soul the spirit the heart」 HUI O LAULIMA, 2008)より。グッディン氏の運営するウェブサイトをみると、オアフ島以外でも講話会等を開いていることがわかる。

  4. グッディン氏が運営するウェブサイトhttp://museum.hikari.us/news/より。

  5. 『がじまるの集い 沖縄系ハワイ移民先達の話集』崎原貢編著、1980年より。

  6. 『移民発祥の地コルドバ―アルゼンチン、コルドバ州日本人百十年史』大城徹三著、1998年より。

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