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沖縄そばについて淡々と耽々とTanto|Report

はっ、10月は沖縄そば強化月間だった。油断してた。迂闊だった。
てなわけで再開します。

支那そばと今川焼/月王生

琉球の諺に曰く「もの云ふ者は馬の先取ゆん」との事は実際だと思はれます 私は去る十日の晩見栄橋付近の凉し清風と共に月を眺めんとて久茂地大通りより板橋を向けて行きましたれば其の附近に「てんぷらや」と思へば「支那そば屋」「支那そばや」と思へば「てんぷらや」があります 一寸見ますれば三名の客がおりて客と主人と談判がありそうだから立寄て聞きましたら先き一名傘を持ち其の傘は入口に立て打ちに入りそばを出す内に二名連れの御客が参りそばニ名分出す内に首里附近の帽子職工の如き者一名一ツの風呂敷包を持ち入れ来たりて腰掛にあしをかけ風呂敷包は台に置きそば出せゝと云ふ<後略>

【出典】1911.07.22 琉球新報

現代語要約
去る10日の月夜の晩に美栄橋近くを歩いていると、「てんぷらや」と「沖縄そば屋」が交互に軒を並べていた。一軒の店をのぞくと、客と店主が何かを談判している様子だった。傘を持った一人が店に入り、その後に二人の客が現れ、帽子職工のような横柄な者が風呂敷包を持って入店、という具合に繁盛している様子。

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「月王生」というペンネームの著者によるコラムのような体裁の記事です。そば屋が増えて盛況だとルポしています。

文中の帽子職工というのは、この当時、アダンの葉を原料にしたパナマ帽の製造が盛んで、工場がいくつも立地しており、その従事者のことだと思われます。沖縄産のパナマ帽は欧米にも輸出されました。アダンは沖縄の代表的な海岸植物で、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木のこと。美しくはないけど棘があります。

後半は省略しましたが、今川焼もこの頃には沖縄で売られていたようです。

艦隊は明日抜錨

<前略>蕎麦屋の繁昌 上陸したる各水兵は市中各所を見物しつつある間蕎麦屋に入りてソバを味ふもの多かりし為め各蕎麦屋は大に繁昌し殊に石門の森屋は非常の雑踏なりき

【出典】1913.02.02 琉球新報

現代語要約
上陸した水兵たちが市中を見物するなか、多くの人々がそば屋に入りそばを味わっている様子。特に石門の「森屋」は非常に混雑している。

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水兵とは日本海軍のことで、那覇港あたりに寄港した折の出来事だと思われます。この頃の沖縄出身の海軍軍人としては、かの漢那憲和がいました。この水兵たちは漢那麾下ではないでしょうが、この機会にウィキペディアに拠りながら紹介しておきます。

漢那憲和が海軍兵学校を卒業したのが1899年(明治32年)で、卒業者113名中3番の成績でした。ディキヤーですね。記事の翌年1914年(大正3年) には第一次世界大戦が勃発。漢那が海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、中佐に進級した年でした。山本五十六はこの頃の教え子だそうです。

漢那は皇太子(昭和天皇)が大正期に欧州遊学した際、御召艦「香取」の艦長を務めたことで知られます。この模様は、能條純一の漫画『昭和天皇物語』にも描かれています。

もうひとつ漢那を有名にした若い時分の逸話に、一中ストライキ事件があります。

沖縄県尋常中学校(現首里高)の生徒が、沖縄文化に理解のあった田島利三郎教諭を解雇したことで怒りを爆発させ、校長の退陣を求めて半年もストを続けた事件です。沖縄人をバカにした態度で総スカンを食った児玉喜八校長は、漢那憲和、照屋宏、真境名安興、屋比久孟昌、伊波普猷らに、騒動の首謀者という理由で退学処分を下しました。なんとも豪華なメンツですね。ただ、漢那はこれを契機に海軍兵学校に入学したのですから、塞翁が馬といえましょうぞ。

五圓の仕ひ道/彌次郎/俺は公明正大だ(四)

<前略>次きに足を向けたのは三角の氷ご支那蕎麦をちやんぽんに賣る店である あつちから入ると氷店あつちから入ると支那蕎麦店と中の仕切で品物と客の種類を別にしている處だ 氷から蒸発する気体と支那蕎麦から蒸発する気体とが混淆つて変な蒸つぽい空気が屋内を満たしている 俺は食べもしない癖に支那蕎麦の入口から這入り込んで席を取った 俺と同席したのは六十許の田舎爺が酔拂つて胸前をはだけて座つているのと四十許の粟国女がいる 女は支那蕎麦二杯半を平げた處である 半と云ふのは一杯を平げ盡して今度二杯目の半分と云ふ處で箸を休たのである/支那蕎麦は牛の腸 氷の上 支那蕎麦を食つては丁度此店のやうな体裁になるのは決つているが仕方がない 注文に及とやがて粟国人のオンチュー(人を見ては粟国と思へと云ふ諺もあるまいが)が運んできた蕎麦はプンと◉りからが野蛮なものだ 油が染出して触るとぬめゝする碗を犬のするやうに顎をつき出して据食にしたがどうして却々食へるもんぢやない 牛の腸か何かのやうに堅つて堅つて(牛の腸は実験したことはないが)やつとしるだけ吸つて箸を置くと酔拂ひの爺が「貴方食べぬなら私に呉れぬか」と云ふ 少し堅いがお食んなさいと云つて五銭投げ出して俺は此處を立ち出でた<後略>

【出典】1928.07.22 琉球新報

現代語要約
次に向かったのは、氷菓と沖縄そばを扱う店。入店すると、店内の仕切りで氷とそばのエリアが分かれている。店内は冷たい空気と温かい空気が混ざり、蒸気を上げている。筆者はそばを食べないのに、そばエリアの席をとった。
同席は、酔っ払った田舎者の爺さんと粟国出身の40代ほどの女性だ。女性は沖縄そばを2杯半たいらげて、箸を休めている。そば屋の雰囲気はこんなものだから仕方がない。
注文が届くと、プーンと臭う。椀に油が染み出し、触るとぬめりがある。そばは牛の腸のように堅くて食べづらい。汁だけ飲んで箸を置くと、酔っ払った爺さんが「食べないなら私にくれないか」と言い、「少し堅いがお食べなさい」と五銭を払って、筆者はその場を立ち去った。

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そばと氷のマッチングに戸惑う人もいるかもしれません。沖縄の昔の個人商店(マチヤーグヮ)などには「冷やし物一切」の看板があって、アイスやコーラやラムネなど冷たいおやつが売られていました。ぜんざいやかき氷を出す店もこの名コピーを用いました。今でもぜんざいをデザートのように扱う沖縄そば屋は珍しくありません。

油まみれだの牛の腸のように堅いだの、かなり場末感が漂う店ですね。女性が粟国島の出身とわかったのは、彼女から直接聞いたのかとも思われますが、私の予想では、店の人と親しく方言で話をしていたからそう推測したのでしょう。この頃の沖縄では飲食店で働く人は粟国出身が多いという定説がありました。統計上そうだったかはわかりません。とにかく「粟国の包丁人」といえばちょっとしたブランドだったようで、「家業」ならぬ「島業」として受け継がれています。

この斜に構えた記事を私はあまり好きになれません。著者の「彌次郎」は、このように各地を泊まり歩いて食べログを投稿することを趣味としたインテリ崩れだったと邪推しておきませう(noterの私も似たりよったりかな)。

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