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旧聞#10 フリーマーケット考|Essay

先日初めてフリーマーケットに出店した。以前にメキシコでしこたま買い求めた民芸品が商品だった。本当は東京の街角で売ろうと思っていたのだけど、規制がまかり通る日本の道ばたでは、警察やマフィアの許可が必要だというからあきらめたのだ。ちなみに、勇気あるイスラエル人が通りで露店を広げているのをよく見かけるが、彼(女)たちはあのキナ臭い紛争地域で兵役義務を終えたばかりだから、こわいものはないのだろう。

周りは高校生だらけで、品物も古着がほとんどだったから、いささか場違いな感じもしたけれど、懐かしさが羞恥心をさえぎっていた。

・・・そう、バザールの感覚。電光石火のハサミさばきを見せるベルベル人の移動理髪師や、泥棒市でガラクタを並べているドミニカの大男の姿が脳裏をよぎる。こうした市場では雑多な話し声がとぎれることはなく、誰でもがその会話の輪に加わることができる。そこは孤独が去勢された空間なのだ。

この夜もやはり同じで、店を出す素人の商売人は儲けよりも交流を求めているのではないかと思う。ある者はグループで出店して仲間内でもりあがっているし、ある者は隣の同業者と親しく話し込んだりする。高校生くらいだと、売る側・買う側の間で恋心がめばえることもアリだ。そんなときは、商談を装ったナンパの話術が繰り広げられる。

言葉だけではない。売買という行為そのものが豊かなコミュニケーションでもある。商売人は売ることを通して世界を支配する。普段は状況に管理された市民が、ここでは状況を管理することを行う。それが快感なのだ。客にしても自分の主張で値が下がったことに満足する。たった100円の値引きで取り引きは救われる。この演技された対人交渉によって、参加者はたとえその場限りであっても、人とのつながりを取り戻す。

思うに、これが沖縄の市場原理ではなかっただろうか。職業化される以前は、誰もが生産者でありブローカーだった。人々は交換や分配を通して、富と資源と人間関係を循環させていた。願わくば、あの高校生にそのトータルリサイクルの思想が受け継がれんことを。

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