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戦争が終わって一年が経った。
中学は気に入らんと、行かなくなっていたから、夏休みなんてものを気にしたことはない。
戦争のころは、学校に行けば防空壕を掘らされて、休みの日には、馬の世話で一日がつぶれたから、働くことを苦に思ったことはない。
鍛冶屋の仕事はつらいが、師匠は無口な人で学校にいたころのように殴られたり、立たされたりすることもない。
大体、学校は気に入らん。去年の夏まで英語はしゃべるなと、言っていたのに、これからは英語が話せんといかんと、教師どもはコロっと態度を変えていた。

あの時の大人たちもそうだった。
一年前、「陛下のお言葉、しっかり聞くっとぞ」と言われ、聞いてはみたが何もわからなかった。その夜、大人たちはほっとしていた。不思議で仕方がなかった。負けたのだから、悔しがらなければいけない。槍を持って俺は認めないと役場に駆け込まなければいけない。そう思った。
一番上の兄は戦争から戻ってこなかった。兄のためにも勝たなければならないのだ。あれもこれも我慢しなければいけないのだと言っていたのに、だ。

学校が気に入らない一番の理由は、今となっては大した話じゃない。
まだ、戦争のころ、友らと野球をやっていた時、「ストライク」だの「ボール」だのいっていたら、それを聞きつけた知らん大人に「良か玉、悪(わ)いか玉と言わんか!」と怒鳴られ、友らとともにしこたま殴られた。
だが、中学校に入ったら「ハロー」だの「ジスイズザペン」だのと訳の分からんことまで言わされた。それが納得できなかった。
お国のために、敵制言語は決して話すなと言っていたのだ。
ほら、大したことじゃないだろう。俺もそう思う。

少しましになったのは、飯のこと。
家は農家で多少の米が食えたから、他所よりましだったのだが、学校にはふかした芋を二つ弁当に持っていき、一つはそれすら持たせてもらえない友らに渡し、一つだけを食らった。一つで足りるはずはないのだが、それで我満させられていた。
家の前の防空壕に軍が集めていた物資があって、そこに乾物が蓄えられていた。戦争が終わってすぐに親父がそれを黙って家に運んだ。その中に角砂糖があって、それを毎日一つ食わせてくれた。
戦争が終わってよかったと思うのは、それくらいだったかもしれない。

明日、鍛冶屋の師匠に角砂糖をもっていってやろうと、台所から二十個ばかり失敬した。おふくろにはばれるだろうが、親父にはいうまい。そういうおふくろだと知ってるから失敬したのだ。
その中から一度期に三つほおばってみた。味は一つの時と同じだった。やってみたら大したことじゃないなんてことはあるのだろうが、この時ほど残念に思ったことはない。三つあれば三日楽しみが伸びたのにと後悔した。
師匠に、十七個では半端だから、あと二つふところに入れておくことにした。