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土井隆義『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』【基礎教養部】

『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』は、同じコミュニティのメンバーであるイスツクエさんに紹介していただいた本である。イスツクエさんによる書評およびNote記事は以下を参照:(公開までもう少しお待ちください)

今月は時間があまりとれなくて(というより「自分の時間を削ってまでして最後まで読む気になれなくて」と言った方が正しいのかもしれない。本書は具体例や引用が多くて同じことをだらだらと繰り返す部分も見られるので、少し読むのがしんどかった。もう少し簡潔に書いてほしい。)全5章中3章までしか読んでいないことをご了承願いたい。

本書のテーマとなっているのは、今の若者の生きづらさの原因の1つとなっている、「優しい関係」である。「優しい関係」とは、絶えず場の空気を読みながら相手との対立を避けることを最優先する人間関係のことを指す。ここで、"「今」の若者"と書いたが、本書の「今」は本書が書かれた2000年代のことで、今から約15-20年前のことであることに注意が必要である。20年経つと社会は大きく変化しているので、本書に書かれた内容が本当の今の時代と合っている部分もあれば合っていない部分もある。第2章「リストカット少女の「痛み」の系譜」において、1971年出版の『二十歳の原点』(高野悦子)と2000年出版の『卒業式まで死にません』(南条あや)の2つの青春日記が対比されているが(1971年を「昔」、2000年を「今」として)、同様に2024年と2000年の対比を考えながら読むと面白いと思う。

時代の移り変わりもあるのかもしれないが、本書を読んで、共感できる部分もあれば共感できない部分も多々合った。共感できない部分としては、例えば、第1章「いじめを生み出す「優しい関係」」中の以下の部分がそうである。

かくして無関心層においては、いじめの責任も蒸発してしまう。(中略)ひとは、どんなにひどい結果を目の前にしても、そこへの関与が明白なものでなければ、なかなか自分の責任を自覚しにくいものである。しかも、実際にいじめの手を下す汚れ役は、特定の生徒たちが引き受けてくれている。彼らの存在のおかげで、無関心層の人びとは、「いじめになど自分はけっして加担していない」と言い張ることができる。しかし、そもそも責任(responsibility)が、応答(response)に由来するものだとすれば、本来なら積極的に介入すべき状況を目の前にして傍観者の立場を決めこみ、無関心な態度を取りつづけること自体が、じつは責任の放棄ともいえる。

土井隆義『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』第1章p26-27

このように、様々なところで、いじめの無関心層が「悪い」ように書かれがちだと思うが、私は必ずしも「悪い」とは言えないと思う。個人的には、自分が無関心層の立場であると仮定した時に、目の前で起こっているいじめを見て見ぬふりをするのは、自分を守るためである。これは、本書に書かれているような「優しい関係」の安定をはかるというようなものではなく、もっと本能的な「自己防衛」というものである。もし自分がいじめをやめさせようとしたら、そのことにより、いじめている側からいじめのターゲットにされる危険性があり、それから身を守るために見て見ぬふりをするのである。

その後にも、いじめる側の特定の生徒たちも、たまたま成り行きでその役を担っているにすぎず、「優しい関係」の重圧下に置かれた存在という意味では無関心層の生徒たちと大差がない、と書かれているが、これも全く共感できない。筆者は「優しい関係」に結びつけて考えすぎな気がする。

共感できない部分ばかりでもなくもちろん共感できる部分もいくつかある。本書冒頭に、小説『野ブタ。をプロデュース』について、

キャラの演出を心がけているのは修二だけではない。クラスメートたちの多くは、互いの人間関係を円滑にこなしていくため、日々の自己演出に余念がない。たえず場の空気を読みながら、友人とのあいだに争点をつくらないように心がけている。

土井隆義『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』はじめに p7

と書かれているが、「キャラの演出」により友人との人間関係を成り立たせるというのはとても共感できる部分がある。実際に、学校でのクラスメイトとコミュニケーションをとっていく中で、周りの人たちとの人間関係がうまくいくようにその場に応じた「キャラ」を演じるというのはよくある。自分の本来の姿とかけ離れた「キャラ」を演じるのはしんどいので、そのような空気感の人とは時間が経つにつれて付き合わなくなるものであって、自然と自分の本来の姿の「キャラ」を演じられるような人付き合いをしていくものだが、それでも人間関係をよくするために「キャラ」を演じるという要素は少しでもあると思う。

最後に、「優しい関係」はダメなのかどうかについて述べて終わろうと思う。私は、「優しい関係」は必ずしもダメなことではないと思う。たしかに、本書に書かれているように「優しい関係」が若者の生きづらさの原因になっているのは事実であるが、あまり普段話さないようなクラスメイトとの関係程度であれば、無理になんでも言えるような深い関係になる必要もなく、「優しい関係」で十分である。人はできる限り争いを避けたいというのは当然だと思うし、親友でもなければ、お互い傷つけ合わないように気を遣い合った方がうまくやっていけるであろう。ただし、親友であれば、「優しい関係」にとどまるのはなんだか悲しい気もする。相手の嫌なところも含めて言い合えるような深い関係になってこそ親友だと言えると思う。個人的には、「優しい関係」で結ばれた広く浅い人付き合いよりも狭くてもいいから深い人付き合いの方が良いと思っている。

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