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フェルトの彼の退院

昔むかし、看護師は看護婦、特別支援学校は養護学校、厚生労働省は厚生省と称されていたころのお話し。まだ子ども向けの車椅子も、週休二日制も無い。昭和56年。

私は幼少のころに長期入院を続け、自宅に帰る外泊許可の日を楽しみに、小児病棟のベッドの上で過ごしつつ院内の養護学級に通っていた。
ここは医学部付属の小児専用の大病室であり、私を含めて病室の仲間は皆、厚生省指定だという難病だった。
頻繁に通ってきて手術前には泊まり込むお母さま方は、看護婦を補助する存在だった。

ある朝、看護婦が手術だと言って、痩せこけた子をベッドのままコロコロと運び出していく。
その子の母はそこに付き添い、離れずに居た。
いつもの点滴袋と、いつも挿れっぱなしの鼻チューブ。痩せこけた頬にその子の眼はじっと天井を見据え定まっていた。
私より5つも上の6年生なのに、背たけは1年生より低かった。
検査や手術は怖くて、私はきっと、何も声を掛けることができなかった。

その子のことは、手術が済んでそのまま退院したと聞かされた。
会えなくてお別れ会は無く、その子が居なくなって寂しかった。私の車椅子をのろのろと押して、一緒に廊下を駆けて遊んだ仲良しだったから。

半月かひと月か、しばらく過ぎたころにその子の母が来て退院の挨拶だと言って病室の仲間にプレゼントが配られた。
受け取ったクーピーと、フェルトの人形。そのフェルトの人形を握りしめながら眠りにつく夜が続いた。クーピーペンシルは宝ものだ。
フェルトの人形は男の子のキャラクターであり、その子の母の手作りだった。頬はとてもふっくらしていた。

一方の私は病気は良くなって退院し、健康体で普通学校に通いながら、中学生、そして高校生になった。

高校の日曜、部活帰りに汗まみれのまま、ふと思い立ったとき、独りで電車を乗り継いでは鶴舞の公園に足を運んだ。
いつからだったか、鶴舞公園から見上げてもあの病室は無くなっていて、大きな病院は新しく建て替えられていた。
フェルトの人形をぶら提げて園内を歩き回った。彼と会えるような気がした。彼に会いたいと思っていたから。

だがどうして、私の親が教えてくれたことは、彼は術後間もなく亡くなっていたということ。
彼は幼少期からの大半を、病室を生活と人生の場所として過ごした。6年生から先の未来を歩むと信じて前を向き、だが歩めなかった。
フェルトの男の子はそう、頬がふっくらとして、彼の母が想う彼だったのだ。

ふと立ち止まるたびに、私の記憶の中の彼が薄れていってしまいそうなのが怖くて、木藤亜也氏の「1リットルの涙」、他には宮越由貴奈氏の「電池が切れるまで」の本に手を伸ばす。彼を私の記憶の中に居させる。
なぜなら、記憶を当時の感情とともに掴み続けていたいという、本を選ぶ動機や、読んで何を想い求め揺さぶられるのかはひとそれぞれで良いと思い、本の紹介にはなりませんが、このように書かせていただきました。

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