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プロローグ 妻の場合


わたしは夫のことが好きだ。

でも、夫ほどではない。そう感じる。

もしも相手への愛情を数値化できる機械があったなら
夫より低い値が出てしまう気がする。

いや、そもそも愛なんていう感情を数値化できるはずがない。

同じ人間の中で、昨日の喜びは50点
今日の悲しみは30点なんてことはできるかもしれないが。
別の人間の感情を比較するなんてそもそも間違っている。失敬。


しかし、今一度私たちの間で行き交う愛について考えてみると
(夫からしたら言い訳がましく聞こえるかもしれないが)
きっと夫は私と比べて元々持っている愛情というものが大きいのだと思う。

そうとしか考えられない。それくらい夫の私への愛情は強くて太い。

自慢とかではない。


つまり、夫は、一人に与えられる愛の量が大きいのではないだろうか。

夫は周囲の人との付き合いが上手く、話を聞くたびに
一人一人にしっかり向き合っているなと感じる。

たまには手抜きでもすればいいものをと
傍から見ていて感じることもあるが
周囲にばら撒く愛を抑えるとこちらへの比重が多くなるかもしれないので
愛情をある程度放出してから帰ってきてくれることをこれからも願おう。


そして、私の夫への愛についてもう一度考えてみる。

もしかしたら、夫の私への愛情は“強い”と言えるが
私の夫への愛情は“深い”と表現した方がいいのかもしれない。


日本語は面白い。

“強い”も“深い”も違う言葉なのに
使い方によっては似たような意味を持っていたりする。

私も言葉が上手に使いこなせている自信があるわけではないが
一応日本語を母国語として30年近く経つ。
なんとなく違う日本語のニュアンスには気付いている(はずだ)。

ここで私が思う“深い”とは
“強い”と違って直接的ではなく、存在するのに分かりづらいイメージだ。

表面だけ見ていても、そこまで感じないが
その愛情をしっかり知ろうと踏み込むと
奥には色濃い愛情が詰まっている、そんな感じ。


私は好き嫌いはっきりしている性格で、嫌われることも平気なタイプだ。

だから嫌いな人(以下ソイツ)とは平常心で接し、深入りをしない。
感情が揺さぶられても相手にしない。
相手も私のそのオーラには薄々感じていると思う。

そして、ソイツが何か失敗したり
見ていて嫌悪感を抱くようなことをしていたとしても
自分に害がない限りは伝えない。

ソイツに良くなってほしいなんて
1ミリも思わない性格の悪さが私には備わっているからだ。

しかし、最近ソイツを見ていて、違った考えが生まれてきた。
ソイツの周りには
きっと指摘してくれる人がいないのではないだろうかと。


私の中で指摘というのは、いわゆる相手の間違いを正すことや
プラスして私なりの意見をぶつけてみることなど色々含まれる。

ただイライラをぶつける、八つ当たりなどとは違う。
指摘という建前の、言葉の暴力だと感じる人もいるかもしれないが
そこの区別は大切にしているつもりだ。

もちろん相手が嫌な気持ちにならないように工夫することは大切だと思う。

ただ、どんな内容をどういった形で指摘するとしても
私が指摘する時の根本にある気持ちは、愛情なんじゃないかと思った。


だから夫よ、私がこれから(コンプレックスである)低い声で
何かを指摘しても、それは愛情をぶつけていると思ってほしい。

その行動の深い部分は、きっと愛で溢れているはずなんだ!たぶん…。


そして、夫からもたくさん指摘をしてほしい。
自分だけでは見えていない部分を、冷静に判断して
もっと私が成長できるように伝えてほしい。

好きな人から言われる言葉というのは、どんなものでも脳内に残るものだ。


ただ、夫のストレートな『大好き』、『かわいい』といった言葉を見習い
私もストレートな愛情表現ができるように努力はしたいと思っている。


夫とはたくさんのことを話しているつもりであるが
もちろん別の人間であるため
すべてを理解することなんてできないことも分かっている。


だから話すことは欠かせない。
これからも話していこう。


そんな気持ちを込めて始めた、二人の交換日記のようなブログである。

細々と、自分たちで残していきたいものを綴っていきたい。


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