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第十一話 岸と後藤の出会い。葦の生い茂る河原で二人は乗りあって・・・。

岸は足元に目を向けた。
当然だがそこには深い茶色のケヤキのフローリングがあるだけだった。
バスケットシューズを履いたままの踵で床の感触を確かめるかのように踏み鳴らしてみたが、シューズの高い機能性のためだろうか、大した音はしない。

まあ革靴でも履いてロフトから勢いよく飛び降りたとしても階下の作業場までその音が届くことはないだろう。
しかし岸はその作業場から何らかの気配を感じた。何かはわからないが。
音が聞こえたわけではない。何かの気配を感じただけだ。

気配というのは第六感とか超能力の類とは違う。知覚出来ない僅かな感触と言うか、脳まで届いてこない微かな感覚と言えばいいか。
闇の中で動く目には見えない影と言うか、耳には聞こえない空気の振動と言えばいいか、脳ではなく肌で感じる感覚があるのだ。
それを少しだけ実感できる方法はある。この世で最も信頼できる友人に水を満たした二つのコップを用意してもらい
それのどちらかだけに塩でも砂糖でもいい、何かを少しずつ少しずつ、結晶の一粒づつ入れてもらい、そのたびにコップの水を味わっていくのだ。ある時点で二つの水の違いを感じることが出来る段階があるだろう。甘いのかしょっぱいのかは味覚という五感ではで判断することは出来ないが、二つの水の違いが認識できるポイントがある。その感覚を更に鋭敏に感じ取れるようになったものが、気配だ。

どうせ今日は眠れそうもない。
岸が屈んでシューズのタンに付いた丸いダイヤルのような物を少しひねると、靴紐も少し締め上げられた。今時のシューズは手で紐を縛る必要はない。
立ち上がりつま先で床を軽くついて具合を確かめる。岸は立ち上がりレザーのコートを羽織るとポケットに手を入れる。右のポケットには二台のスマホ、左のポケットには棒状の器具が入っているのを確かめた。
岸はドアを開け部屋を出た。

廊下の向かいには後藤がいるはずの部屋のドアがある。レザーコートのポケットからカバーを付けていないスマホを取り出す。そのスマホはマツダの車のような深く黒光りするような赤色だった。
画面を確認すると深夜二時だった。
岸は後藤の部屋のドアをしばし見つめ手にしたスマホをポケットに戻すと自室のドアを勢いよく閉め階段を下りて行った。
岸が階段を降りていく音だけがエビス屋に響き渡る。僅かな音だが深夜二時では十分すぎるほどにその存在感を伝え広げている。

岸は左手をポケットに入れ棒状の器具を握り右手で車庫に続くドアを開けた。
少しの間だけ車庫の様子を伺ってから足を踏み入れた。
「車庫の照明を付けてくれ」岸が声に出すと、その声に反応しすぐに車庫の照明が点灯した。
エビス屋のトラックと後藤の自家用車であるマツダのCX-3が止まっていた。壁際には同じく後藤のバイクであるCRM125が置かれていた。片翼のエンブレムを見ればわかるがホンダのバイクだ。後藤はCX-3よりこのバイクを大事にしているようで後藤曰く「国産2ストオフロードバイクの最高傑作」とのことだがたまに思い出したようにエンジンをかけることがあるくらいでバイクで出かけたことは二度か三度しか見たことが無い。
岸には、カンシャク玉を踏み続けているような乾いた感じのエンジン音も、後藤が「これぞ2ストローク」という排気ガスの匂いを魅力的に感じたことはなかったが文句を言ったこともない。

後藤と岸が出会ったのは高校一年の時。
二人は期せずして同じ埼玉県南東部にある県立の男子高校に入学し、偶然にも同じクラスに編成され、入学式のあとに教室に移るとそのクラスにはたまたま木村も工藤も検見川もいなかったので岸の後ろの席に後藤が座ることになった。

記念すべき高校生活最初の授業は、クラス全員の事をお互いに学ぶ時間だった。担任教師の自己紹介の後にクラス全員の自己紹介が始まり岸は自分の自己紹介を無難にこなした後に後藤の自己紹介を背中で聞いた。その時の印象は妙に低い声のおとなしそうでどこか陰気な声の男と言うものだった。
クラス全員の自己紹介が終わると記念すべき高校生活の初日は終わることになった。担任教師がいくつかの注意事項を伝える中、生徒全員が立ち上がりそれぞれカバンを手にした。

岸は教室を見渡しさっそく高校生活1人目の友人となれそうな顔を探した。陰気そうな後ろの席の男には敢えて目を向けなかった。
しかし後ろの席の陰気そうな男から声をかけてきた。
「岸くんだよね」そう口にした顔は何とか笑顔を作ってみたという努力が隠せておらず、陰気な感じがより伝わり来る不自然な笑顔でその頭の髪の毛はベッタリとしてた。
「あ、ああ、うん」いかにも乗り気ではないという態度をあからさまに出したつもりだが陰気な男は「後藤って言うんだ、よろしく」と左手を差し出してきた。その手の爪は真っ黒で畑仕事でもしてきたのかと言いたくなるほどだった。この時の後藤の身長は160を少し越えるくらい、岸は170に僅かに超えるといったところだった。今と違いこの時の後藤は岸より少しばかり小さかった。

高校最初の友人選びと言うのはとても大事だ。しかもそれが男子高校ともなるとその選択は最重要項目と言ってもいい。
チビで(この時期の10センチ近い身長差はそう言って差支えのない絶大なものだ)陰気で髪にも爪にも全く気を使ってなさそうな男を最初の友人とするのは、高校生活に影を落とす可能性が高い。だが差し出された手を無視できるほどの傲慢さを岸は持っていなかった。そこで岸は15歳の少年らしいどこかの映画で見たような安っぽい反応で対応した。岸は右手を差し出した。
後藤は差し出された岸の右手を見て、岸の顔を見ると両手で岸の右手を握り「よろしく」とだけ言った。
後藤の顔は奇妙な笑顔に変わっていた。
岸は今でもその笑顔を覚えている。忘れられない。三年間の高校生活を共にすることになった笑顔。そして今、二人で一つのことに取り組むことになった笑顔だ。
とても爽やかとはいいがたい笑顔。猟師が罠を確認しに来たら見事に獲物が捕らえられていた時に見せるものとでも言えばいいか。
岸はその奇妙な笑顔に惹かれたというわけではなく、おそらく、引っかかってしまったのだろう。

二人は出身の中学校を聞きあったり、なぜこの男子校に来ることになったのかと言ったとりとめもないことを話しながら、一緒に高校最初の下校を共にすることにした。お互い自転車に乗ると後藤は初めて自転車に乗ったのかと疑いたくなるほどヨタヨタと走り始めた。
岸はポマードをベッタリ付けたサラリーマンのような髪の毛と薄汚い爪を持った陰気でまともに自転車にも乗れない鈍い男に隠し切れない嫌悪感が漏れ出た。
それに気が付いた後藤は「自転車にはあんまり乗ったことが無くて」と言い訳した。
「みたいだな(見ればわかる)」と返事をする岸に後藤は必死そうに自転車をこいでついてきた。
途端に会話は減った。後藤は何かと話しかけてくるが岸はどうでもいいという風に生返事を返すだけになった。岸は既に明日学校に行ったら誰に話しかけるべきかと考えていた。

後藤が何か提案をした。
岸は(明日までの友人だ)とよく聞きもせず何も考えずに同意すると後藤は喜んで自転車を勢いよく漕ぎ出した。
岸が問いかけても後藤は「すぐそこだから」と言い、岸がウンザリした物言いをすると後藤は「もう少しだから」と言い、岸が拒絶の反応を示すと後藤は「この向こうだよ」と言った。
そこは河の土手だった。岸は見るだけ見てさっさと帰ろうと土手を越えていく後藤に続いた。

土手を越えるとそこは予想通りというか当然の如く葦の生い茂った河川敷だった。ところどころ不自然に葦が刈られていた。そして少し離れた所にゴーカートのコースがあるようだった。
「ちょっと待ってて」そう言った後藤は乗り慣れない自転車を放り出し鬱蒼とした葦の中に姿を消した。岸は五分ほど待っている間に明日話しかける候補は既に決めていた。

ゴーカートコースの方からエンジン音が聞こえる。
おそらく後藤はこの河川敷で捕まえられる昆虫の類を嬉しそうに見せびらかしてくるとかそんなところだろう。
そう思っていた岸に段々とエンジン音が近寄ってくる。

左隣の席のサムとか言うハーフは陸上部に入ると言っていた。右隣の江口は剣道部で全国大会を目指すとか。前の席の加川は生徒会に入りたいとか言っていたな。
加川か江口、競争率は高そうだがサムも候補に・・と考えていた岸にエンジン音が近づいてきたかと思うと葦を切り開き一台のオフロードバイクが飛び出してきた。

驚いて自転車から転げ落ちそうになった岸の前でバイクは土くれをまき散らしながらド派手なブレーキターンを決めて止まった。
突然現れたバイクは一度エンジンを派手に吹かしてからキルスイッチを押し静かになった。
驚く岸にヘルメットを取って謝罪をする男は、たった今友人から外そうと決めた後藤だった。
ヘルメットを取るまでもなく制服を着ていることだけで後藤だということはわかってはいた。

だが、わかってはいても意外だった。あのポマード頭の陰気で不潔そうな男とバイクに跨って颯爽と現れた男が同一人物であることがだ。
「岸くんはバイク乗る?」後藤の問いかけに岸は答えた。

「岸でいいよ、俺も後藤って呼ぶから」

「岸も乗ってみる?」さっそく後藤が言った。

「スクーターなら乗ったことはあるけどなぁ・・」

後藤がバイクから降りて岸にまたがるように促した。自分より背の低い後藤が乗れていたはずだが目の前のバイクはとても足が着くとは思えない高さがあった。しかし足が届きそうになくともバイクに興味を示さない15歳の男子はいない。岸は自転車から降りてスタンドを立てると後藤のバイクにまたがってみた。
想像以上にサスペンションは柔らかく何とか地面に足が付いた。

「エンジンは・・・」とキーシリンダーに刺された鍵に手を伸ばす岸に後藤が言う。

「スターターはないよ、キックスターターでね」
後藤は、戸惑う様子を見せる岸の右側に付き手でキックペダルを出した。
「これを二、三回踏んでから、一気に踏んで。踏み外すとちょっと危ないからしっかりな」
岸は言われるがままにキックペダルを踏みこんだ。ボルルっとエンジンが空回りする。

「もう一回」
後藤に促され岸はさらにキックペダルを踏みこんだ。ボル・・ボルルと再びエンジンが空回りを続ける。

「いいぞ、次は思いっきり!」
岸は自分なりの全力でキックペダルを踏みぬいたつもりだがボルルルル・・と情けない音を立てるだけでエンジンはかからなかった。

「もっと!一気に行くんだよ!」後藤は言うが、一気にと言うのがどの程度なのかわからない。この細い金属製の棒を思いっきり踏み込んでガツンと止まるポイントが分からない。それにちょっと危ないというのがどの程度の物なのかが気にかかるしバイクの側面はなんか色々金属が出っ張っていていかにも危なそうな感じがする。
岸はもう一度キックペダルを踏みこんだがエンジンはかからなかった。
後藤は少し首を傾げた。

ビビってんのか?岸はそう言われた気になり今度は本当に思いっきり、蹴りぬくつもりでキックペダルを踏みこんだ。
バァン!今度はエンジンは情けなく止まらずに軽快なエンジン音を響かせ続ける。バイクのエンジン音は岸が想像していた低い重厚な物ではなく、パンパンと言った乾いた感じの音だった。しかしシートを通してエンジンの振動が伝わってくるとなぜか気分が高揚してくる。

虫の出す音を音色として感じることが出来るのは世界でも日本人と南太平洋のポリネシア人だけだという。それ以外の世界の人々は虫の出す音はただの雑音としかとらえられないそうだ。

バイクのエンジン音も同じような現象が起こる。バイクのエンジン音は言ってみればただの化石燃料であるガソリンの爆発音だ。人類の半分はこれを単なる騒音と捉えるが、残りの半分はそこからビートを感じることが出来る。後藤はもちろん、岸も幸いにも後者だった。

しかもそのビートは耳だけでなく両手で握るハンドルからもシートからも響いて全身で感じることが出来る。
岸は軽くグリップを捻ってみた。ドラムのように断続的だったエンジン音が瞬時にエレキギターのような連続した音に変わった。
岸は自然と溢れ出た笑みを後藤に向けると後藤は例の奇妙な笑顔を見せた。二匹目を捕えたというところか。

後藤が右こぶしを岸に向ける。それに合わせ岸も拳を向けた。
後藤が岸の拳を上から叩き解説を始める。後藤が指さし確認するように一つ一つ説明し、岸もそれを確認していった。

「右手はグリップはアクセル、レバーはフロントブレーキ。右足はリアブレーキな。左手のレバーはクラッチレバー、左足でギアチェンジ」
後藤が岸の顔を覗いた。岸は頷いた。

「で、このグリーンのランプ、これがニュートラルランプ。クラッチを切って」少し戸惑う岸に後藤はすかさず答える。

「左のクラッチレバーを握って、左足のペダルを踏んで。アクセルは触るな」
岸は言われるがままに左手のレバーを握って左足のペダルを踏んだ。ガツン!とバイクが少し振動した。

「ゆっくりクラッチレバーを離して、ゆっくりだぞ」
そーっとレバーを離していくとバイクのエンジン音が少し情けない音に変わりバイクは少し前進した。ビックリして岸はすぐにクラッチレバーを握った。バイクは惰性で少し進んだがすぐに止まった。

「そのままな。クラッチレバーを引いたまま、クラッチペダルを少し上げてニュートラルに戻して」
岸は言われた通りに左足でペダルを上げたが後藤はもう一度下に踏み戻すように言った。
岸が言われた通りにやっただろという顔を後藤に向けると僅かな不満げな雰囲気を感じ取ったのか説明を追加していく。

「ギアは一番下が1で、一個上がニュートラルな。で、そのまま23456。今は1からニュートラルを飛ばして2に上がっているから一度1に戻すんだよ、2からニュートラルにいれるのは難しいからな。1に戻してそーっとニュートラルに戻して」
岸は言われるがままに操作すると再びインパネにグリーンのランプが灯った。

「オッケー。右手と右足がブレーキな。でも最初は右足を使え、右手のブレーキはフロントだから焦って使うとバランスを崩しやすからな。で、左手がクラッチレバーで左足は下から1、ニュートラル・・・・」

「2345だろ?わかったよ」早く乗らせろ言いたげに岸は言ったが後藤は厳しい目を向けて左ハンドルのオレンジ色のスイッチを指し示した。

「じゃあ、これがキルスイッチ。やべえと思ったらこれを切れ、あとはなるべくクラッチレバーを握っていればいい。切ってみ」
後藤がオレンジ色のスイッチを指さした。岸は軽く舌打ちしそれはエンジン音で聞こえないほど小さなものだったが言われた通りにスイッチを押した。キルスイッチというだけにエンジンはすぐに止まった。軽快なビートが止まりしつこく繰り返す後藤の忠告が通る。

「危ないと思ったらキルスイッチを押せ」

「ああ、分かったよ、やべえと思ったらこのスイッチな。で右手がブレーキで右足もブレーキ。左手がクラッチで左足がギア。だろ?」
後藤が頷くと岸はすぐにエンジンをかけようとしたがキックペダルは収納されたかのように綺麗に車体に張り付いていた。

「キルスイッチを戻さないとエンジンはかからねえよ」
岸は少し慌てて右と左に顔を振りまずキルスイッチを押し戻して手でキックペダルを出し再びエンジンをかけた。
バイクのビートが復活し岸を再び高揚させる。

「ブレザーは脱いだ方が良いな」
葦の葉に打たれ汚れた後藤のブレザーを見て忠告を素直に聞き入れ制服を脱いで渡す岸に後藤はバイクのホルダーから外したヘルメットを差し出した。
ダセえよ!とでもいう風に眉を顰める岸に後藤は言った。

「全速力でダッシュして体育館の壁に頭突き出来るか?それでもバイクでコケるよりマシだぞ」

「そりゃあそうだろうけどさぁ・・」
差し出されたヘルメットを訝し気に見る岸に後藤は少しばかり憤慨したようだ。

「綺麗だよ!洗ったばっかりだしそれは使ってない!」
ハハッと笑い手を差し出す岸に後藤は叩きつける様にヘルメットを渡した。後藤は自分もブレザーを脱ぎ自転車に放るとその上に岸のブレザーを投げ重ねた。そしてヘルメットをかぶった岸の顎ひもを縛り付けるかのようにきつく締めた。

「で、乗り方だけどな・・・」
後藤はさらに説明を続けようとするが岸は広げた左手をヘルメットにそえて聞こえないふりをするとギアを1速に入れアクセルを軽く吹かしゆっくりと走り始めてしまった。
1速でも十分なスピードが出るようだった。そして思っていたよりもエンジンはるかにパワフルだった。
この獣道の様に開かれた葦は後藤が走っているコースなのだろうという事はすぐに分かった。だいぶ揺れるがこれがオフロードの醍醐味なのだろう。アクセルを一度戻しクラッチレバーを握りギアを2速に入れると背後から後藤の声が聞こえた。

「おい!!!」
岸は一度後藤を振り返ったが再びアクセルを捻った。バイクはいきなり挙動を変えた。1速でも確かに揺れたがゆっくりと歩く馬にまたがっているような感覚だった。しかし2速に入れられたバイクは暴れ馬のようだった。
前輪を振り上げ後輪は飛び跳ね、シートは岸を下から叩き上げてきた。岸は咄嗟にしっかりとシートに腰を付けようとしたがそれは完全に逆効果だった。地面の凸凹を後輪が受け止めそれをサスペンションが吸収し、その衝撃を必死にシートに腰を付けようとしていた岸の身体に叩き込んできた。
バネ仕掛けのおもちゃのように岸の身体は投げ出されバイクは数メートル先に跳ねて行った。
後藤が走り寄ってくる。

「大丈夫か!?」

「バイクは?」

「バイクじゃねえよバカ!お前だよ!大丈夫か?」

「ああ・・いってぇけど」
バイクから投げ出され肩から落ちたが怪我は無いと思う。岸は肩と上半身を捻り問題ないと頷いた。
後藤が土埃りに塗れた岸のシャツを叩いた。

「血は、出てないな。説明してんだからちゃんと聞けよ」

「わりい、バイクとばしちまったなぁ」
岸はヘルメットを外したがバツの悪そうに後藤の顔を見た。

「あの程度じゃなんともない、お前の身体より遥かに頑丈だよ。それより怪我無いんだな?」

「ああ、大丈夫」
そう言って岸は立ち上がり、転倒したままでもまだエンジンが止まらないバイクに目を向けた。
後藤は岸のズボンを叩き土を落としていった。怪我の有無を確認する作業でもあったのだろう。

「大丈夫、大丈夫だって」
岸が自分で汚れを払い始めると後藤はようやくバイクに向かった。
バイクを取ってきた後藤はまだ少し岸に心配そうな顔と呆れた表情を見せた。

「これはオンロードのバイクとは違うんだよ」
後藤はそう言ってバイクにまたがりサスペンションの強さを示すかのように大きく揺らし始めた。その動きは簡易的なトランポリンのようでバイクの後輪が地面から離れるほど揺れていた。

「こんなに揺れるところに座ってたらそりゃあ投げ出されるだろ?オフロードは基本的に中腰で乗るんだ。競馬みたいな感じだよ」

「ああ、みたいだな」
たった今身に染みて感じたことを改めて言われ岸はもういいよとばかりに手を振った。

後藤は自分用のヘルメットをかぶりアクセルを吹かした。一度岸の顔を見、もう一度アクセルを吹かすとバイクの後輪が土を激しく巻き上げ次の瞬間には飛び出していた。バイクは岸が乗っていた時とは全く違う甲高いエンジン音を響かせ悪路ですらない河川敷を疾走し始めた。バイクは暴れ馬のように跳ねていたが後藤はそれを意に介さぬように乗りこなし岸の想像以上のスピードで走り回っていた。バイクは常に暴れ、時には大きめの段差を越えた時は飛び跳ねてさえいた。バイクは時にほんの数メートル、1秒ほどだろうが完全に宙に浮いていた。しかし後藤の両足は乗っているだけとは思えないほどたった二つのステップを乗り外すことはなかった。後藤の姿が葦の向こうに消えてもエンジン音がその位置を主張していた。ほんの数分だっただろうが後藤が再び岸の前に現れた時には、岸は先ほどの転落の痛みも、それに対する僅かな恐れもすっかり消えていた。

「よく足を踏み外さないな」
岸が驚きの声をかけると後藤はヘルメットを外し答えた。

「慣れだよ、慣れ。まあシートに座っちゃダメなんだよ、バイクを両膝で抑える感じかな。まあコーナーの時はまた別だけどさ」と言いバイクを降りた。
岸はヘルメットをかぶり今度は自分でしっかりと顎ひもを締め、バイクにまたがった。

「あんまりスピードを出すなよ、特に段差のところは無理するな。腰はシートに付けずに浮かせてバイクの振動を吸収するんだ。あと絶対にコーナーは無理するなよ、スリップするならまだいいけどここは地面が硬くて抉れた轍もあるからハイサイド気味に吹っ飛ばされると危ないからな」
岸は今度は後藤の忠告をよく聞いた、ハイサイドが何かはわからなかったが。

「気を付けろよ、危ないと思ったらこれだぞ」
キルスイッチを指し忠告を重ねる後藤に岸は深く頷きギアを1速に入れアクセルを慎重に捻った。

「お前の身体よりバイクの方がはるかに頑丈だからな、もしもの時はバイクをぶん投げていいからさ、かばおうとするなよ!」
岸が大きく頷きながらクラッチレバーを離すとバイクはゆっくりと走り始めた。
この程度なら全く問題ない。しかしここからさらにギアを2速に入れアクセルを捻ると途端にバイクは豹変する。
鉄馬はトロットからキャンターへと転調した。岸は暴れ始めるバイクの勢いを抑えるべくシートから腰を浮かしステップに乗せた両足でその反動を受け止める。

「腰を浮かせる」そのアドバイスを受けただけで、感覚である程度は乗りこなすことが出来た。しかしギアを3速にあげようとは全く思わなかった。2速でもまだアクセルをたいして捻っていないからだ。それでも岸には十分すぎるほどだった。

自分の足で走る時に流れる景色とは全く違う。
この暴れ馬をギャロップで走らせようとは思いもしなかった。それでもあっという間に葦の壁が迫ってきた。アクセルを緩め十分すぎるほど速度を落とした。飛び跳ねるかのようなバイクをまっすぐに走らせることは自然と身体がなじむ様に乗りこなすことがに出来たが、腰を浮かせたままコーナーを曲がるというのはどうにもイメージが浮かばなかった。

バイクは葦が切り開かれた狭い獣道のようなコースとは言えない狭路に向かっていった。すこし左右にぶれるとすぐに葦が肩を鞭打ってきたが、それほどまでに壁が近いと否応なしにスピード感は増した。
想像していたバイクとは全く違った。両手と両足で走らせると同時に暴れ跳ねる鉄馬を抑え込まなくてはならないのだ。

バイク。いやオフロードバイクに乗るという事は思っていたよりハードな経験だったが、それは想像していた以上にとてつもない高揚を岸にもたらした。
岸が後藤の元に戻り、また後藤が走り出す。後藤が戻るとまた岸が走り始める。そういったことを何度か繰り返すうちに陽がかげり始めた。
バイクを挟み疲れ切った岸と後藤の二人が向かい合っていた。

「どうだ?」
と問う後藤に岸は

「すげえな」と答えヘルメットを外した。
頭に違和感を覚え触ると頭髪は洗ったばかりのように汗で濡れていた。確かに疲れてはいたが頭がこれほど汗をかいて濡れることがあるとは思ってもみなかった。

「お前、入学式の前もここにいたろ?」
岸は呆れる様に聞いたが

「え?あぁ」
と後藤はなんでわかったとでも言った風に答えた。

「それはどうかと思うぜ」岸は言ったが後藤にはその意味が分からないようだった。

後藤はバイクをゴーカート場に置きに行き、岸の元に戻ると再び二人で自転車で走り始め帰宅の途に就いた。

「あそこのゴーカート場にバイクを置かせてもらっているんだ」
後藤は得意げに言ったが、自転車に乗るその姿は先ほどまでそのバイクを乗りこなしていたとは思えないほど不安になる姿だった。

「免許は取るんだろ?」岸が聞いた。

「もちろん、だからあのゴーカート場でバイトを始めるんだ」

「あのバイクはいくらしたんだ?後藤のバイクなんだろ?」

「ああ、エンジンも弄ったし少しパーツも変えているからな・・まぁ40くらいかなぁ・・?」

「40って万?40万円!?」岸は驚いた。

「そりゃあそうだろ、ここは日本だぜ」
後藤は相変わらずふらつきながらニヤけて答えた。

「すごいな・・・車買えそうじゃん。分からねえけど・・・」

「うーん、あのゴーカート場は知り合いのでさ、ちょっと手伝いしたりして小遣い貰ったりして貯めたんだよ。これからちゃんとバイトさせてもらえるようになればちゃんと時給もくれるって言ってるし。パーツだってチェーンとかスプロケとか何かと必要だし、免許取ってナンバー付けるためにはウィンカーも必要だしな」

「部活は入らないのか?」岸はバスケット部に入るつもりだった。

「オレにはこれが部活だろうな」
岸が後藤のことを、ほとんどバイクの事を聞きながら二人は自転車で走っていた。

交差点に差し掛かったところで
「俺はこっちだから」と岸が言い、お互い「またな」と言い合って別れた。
岸は、後藤をバスケット部に誘うのは無理そうだなと思いながら帰宅した。

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