見出し画像

第二十三話 大事な物

田中は瑠衣を抱きかかえ唇を合わせたまま歩き、瑠衣はその手を田中の首に回し田中は片手で瑠衣を支えながらドアを開けた。そこはもちろん寝室だった。

瑠衣は優しくベッドの上に付かされるとようやく唇を離し両手を解いたがすぐにその両手を田中の胸に回しその分厚い胸板に顔をうずめた。

「タバコの匂いがするね」瑠衣が言う。

「ああ、すいません」と田中が答える。

「ううん、田中さんの匂いって感じがするの」

瑠衣は胸に回していた手を解くと田中のシャツをたくし上げその裾から両手を差し込み田中の背中に手を回した。

田中は思わずビクッとする。冷たい石でわき腹から背中を撫でられたようだった。

瑠衣は軽く笑って「ゴメンね」と言った。

田中は「寒かったでしょう?」と答える。

田中は瑠衣の脇に手を入れその身体を軽々と持ち上げると今度は自分がベッドに腰を降ろし自分の太腿に瑠衣を乗せた。

「重くなかった?」

瑠衣はそう言って田中の心臓の音を聞こうとするかのように胸に耳を当てた。

「ドキドキしてる」

「そりゃあ、ねえ」

瑠衣が田中の背中をまさぐる様に撫でていると今度は田中が瑠衣のシャツの裾から両手を差し込みそのわき腹を撫でた。

瑠衣は少し身体を震わせ「うんん・・」と息を吐き「あったかい」と言った。

「今度から、来るときは連絡してからにしてください」

瑠衣は田中の背中を撫でる手を止めて顔を上げ田中を見て、少し驚いたように「ごめんなさい」と言った。

「違います、こんなに手が冷たくなるほど外で待たせなくは無いんです」田中が微笑みで答えると瑠衣はホッとしてまた田中の背中を撫で始めた。

田中もわき腹に添えていた両手を瑠衣の背中に回しその背筋をゆっくりと指で撫でると、瑠衣が軽く身をよじった。

お互いがお互いの背中を十分に撫であったところで田中は瑠衣のブラジャーのホックを外すと瑠衣は恥ずかしそうに田中の胸に顔をうずめた。

田中は自分の女性経験が多い方であるとは思わないが、少ないとも言えない。
そんな田中が思うに女性と言うのは子猫のようにただいるだけで愛らしく撫でてあげたくなる女性と、子犬のように愛おしく構ってあげたくなる女性に分けられると思う。
瑠衣はそう、後者だ。

田中の手が十分すぎるほどに瑠衣の背中を撫で終えるとその手は徐々に瑠衣の胸へと延びた。
田中はその小ぶりな乳房の周りに手を這わしついには田中の指が瑠衣の胸の突起に指が達すると瑠衣は咄嗟に田中の胸にしがみつき田中はそれ以上は手を動かせなくなった。

瑠衣は顔を上げ田中の見つめると「ズルい」と呟いた。

鈴木巡査は瑠衣と付き合っていた。

身を挺して自分を助けてくれたと勘違いした瑠衣が自分の電話番号を鈴木巡査に教えたのだった。

当然ハコでは騒然となった。鈴木巡査が女性から連絡先を貰ったのか?と。だが当の鈴木巡査だけがその意味が分からなかったようだった。あまりに女性との付き合い、というよりも人との付き合いが無かったせいなのだろう。
今すぐ電話をしろと言うハコの全員の言葉を無視し鈴木巡査はその番号が書かれた奇跡のメモを捨てた。

だが幸いにも女性の方から再度のアプローチが来た。わざわざハコを訪れて感謝の気持ちだと言ってドーナツを買ってきたのだ。
そこで西川が上手い事、と言うより強引に女性の電話番号を聞き出した。女性も普段ならそう簡単には教えなかっただろうが、西川が警察官と言う事もあって何とか聞き出せたようだった。
西川はそこで鈴木巡査から女性をかすめ取るような真似はしなかった。自身では女に不自由したことが無いプレイボーイを自認していたからだ。
その女性は確かに魅力的だったが、鈴木巡査の様な男から奪い取るような真似をするのはプレイボーイの沽券にかかわることだったのだろう。

西川は今すぐに電話を掛けろと言いそれには谷も同意していた。

そうして鈴木巡査と照間瑠衣と言う女性は付き合う事となった。

傍から見れば鈴木巡査の様な女性に縁のなさそうな男性は、奇跡的に出来た彼女を極端なまでに溺愛し二度と得られない宝物のように扱う事だろう。少なくともハコの皆はそう思っていた。

数日後、田中は鈴木巡査から「今日、飲みに行きませんか?」と誘われた。田中は驚いたし正直、即答で断りたかった。この男とどんな酒を飲めばいいのやら、そこで何を話せばいいのか想像すらつかなかった。そもそもこの男は酒を飲めるのか?という疑念すらあった。

しかし田中は小さいながらもこのハコ長として、少ないながらもここに属する部下たちを指導する立場にある。一番できの悪い部下と言って差し支えない鈴木巡査の誘いを無碍に断ることは避けた方が良いだろう。

だが鈴木巡査がどんな店に連れて行ってくれるのかに期待はできない。ここはさりげなく自分がリードする方が良い。出来るだけ鈴木巡査に恥をかかせないようにするほかない。

鈴木巡査とは、誘われた田中の方がこんなことを考えておかねばならないような人物なのだ。

待ち合わせの時間になっても鈴木巡査は現れず、田中がスマホを取り出そうとしたところで鈴木巡査がやってきた。
鈴木巡査は遅れたとこを謝罪するわけでもなく「こいつの歩くのが遅いから」と振り向いたところに件の女性ががいた。

南国から来たいかにも快活そうな彼女には似合っているとは言い難い極端に短いプリーツスカートを履いて田中に会釈をし「すいません」とだけ言って両手でその短いスカートを押さえながら恥ずかしそうにうつむいていた。

「どこに行きます?できれば個室のあるところが良いんですけど」鈴木巡査が言った。

田中は(まあそうだろうな)とは思った。鈴木巡査が気の利いた居心地の良い店などと言う物を知っているなどと期待するだけ無駄だ。
鈴木巡査が行くのはチェーン店の牛丼屋か定食屋、おそらくそれ以外では一人で外食することもほとんどなかったのだろう。

鈴木巡査は奇跡的に手にした宝物を自慢したかったのだろう。そしてその自慢ができる相手と言うのが田中しかいなかったという事だ。中々に迷惑な話だが、それでも田中は少しばかりは安心した。
おそらく生まれて初めて出来た彼女を自慢したいという人並みの欲求を鈴木巡査も持っていたという事にだ。
その欲求を満たしてやるのもまた指導的立場にあるハコ長の務めの一つだろう。

しかし、わざわざハコにまで顔を出す積極的な女性が今は田中の顔も見れないとばかりにずっと下を向いているのは少し気になった。

「腹は?肉か魚か?何がいい?」田中は当然の質問をしたが鈴木巡査の答えは「なんでもいいです」だった。大事なはずの彼女に聞こうとする素振りさえなかったし、女性もうつむいたまま何も言わなかった。

思っていたより初心な女性なのか?

「あなたは何がいいですか?食事の好みとかありますか?いや、嫌いな物を言っていただけたら」

田中が微笑んで聞いたが女性はその笑みを見ることなくうつむいたままスカートを押さえ「静かなところなら・・」とだけ言った。

そうか、だがそんなにスカートを押さえたいのならもう少しコーディネートを考えた方が良いんじゃないか?なかなか厄介なカップルだ。

田中が選んだのは北浅草の己龍という創作料理を出す居酒屋だった。「己」の「龍」などと言う名前の割には実に静かでもちろん掘りごたつの個室もある。そして出される料理も良い。
創作料理とは言うがそれは奇をてらい過ぎる物ではなくあくまでアレンジと言った範疇の物だった。
まあ値段はそれなりだが、今日は私の支払いで済ませることにしよう。

そして田中のお気に入りは「つまみ蕎麦」

小さな器に盛られた日本の切り蕎麦に素揚げして刻んだエビや揚げ玉といった具にフライドガーリックやフライドオニオンなどの薬味がいくつか散らしてあり麺ツユがかけてあるがそこにほんの少し唐辛子を浸けたオリーブオイルであるピカンテが数滴だけ垂らされたピリ辛のまさに「つまみ」と言っていい創作蕎麦だ。これが意外にも実にワインに合うのだ。

三人は店に入り個室に落ち着いた。

個室に案内してくれた店員は当然「とりあえず」の一杯を聞く。

田中はもちろんビールだ。「ビールでいいのか?」と聞くと鈴木巡査はメニューを開きじっくりと熟考した上で「メロンハイ」と言った。

何だそれは?とは思ったが他人が何を飲むかまで口を出すのは控えた方が良い。問題なのは鈴木巡査が自分の「メロンハイ」を決めたが女性には何も聞かない事だ。

仕方なく田中が女性に聞いた。

「何にされます?お酒が無理ならウーロン茶でも・・」

「同じもので・・」女性が答えた。

「と言うと、メロン・・?」と田中が聞くと女性はようやく顔を上げ田中を見て「あの、ビールで」とだけ言った。

三人は出された酒で杯を交わし、田中と瑠衣はそこで初めて簡単な自己紹介を交わした。

田中は自分があのハコの指導的立場にあるという事を説明し、瑠衣は沖縄の離島から東京にやってきた経緯と自分の事を簡単に話した。

「お気の毒に」

照間瑠衣と名乗った女性は32歳。水泳教室のインストラクターをしていると言っていた。この年で親を亡くし、身寄りもなくただ一人東京に来て仕事を見つけるのは簡単な事ではなかっただろう。

「いえ、大丈夫です」瑠衣はそう言ったがその後の会話はまるで弾まなかった。

なにより鈴木巡査が昨日はどこで青切符を切ってやったとか、ヤクザもどきの威勢だけはいいチンピラがどう自分に絡んできたのかといった、自分だけの自慢話をするばかりだったからだ。

田中は必死に話の流れを軌道修正しようと試みたがその努力は全て無駄に終わった。

瑠衣はと言えばそんな鈴木流武勇伝につまらなそうにするわけでもなく、ただうつむいてまるでこの場での自分の存在を消そうとしているかのようだった。

結局全て田中がチョイスした料理がテーブルに並べられると瑠衣は女性らしく取り分けようとしたが田中はそれを制し「私がこの店を選んだわけだし、私がやりますよ」と言って並べられた料理を取り分けてやった。瑠衣は「どうも」と頭を下げ、鈴木巡査は「うまいっスね」と言って料理を口に運んだ。

田中が鈴木巡査の誘いを断りたかった一番の理由はその食事の所作だった。器を持つことはせず、かといって手皿を添えることもなく犬のようにテーブルに顔を下げて器に口を付け箸でもスプーンでも変わりがないように料理を口に運ぶ。
まあ確かに器を持って食べるというのは世界的に見ればそれは褒められた行為ではなく眉をひそめられる場合が多い。
器を手にするという行為は誰にも渡さないという食い意地の張った卑しい行為とみられることが少なくはない。

だがここは日本だし、それ以上に鈴木巡査の食事の所作はうんざりするほどに汚い。
まるで口にしたものを咀嚼し唾液と混ぜ合わせるさまを見せつけるようにニチャニチャと音を立て、時折その口から何かが零れ落ちる。これは誰も口にはしないがハコの全員がウンザリしている所作だった。

常時四人体制のハコでの食事は基本的には二人同時に取るが鈴木巡査と食事を同することになった不運な者は出来るだけ鈴木巡査から距離を置こうとする。
鈴木巡査が奥部屋のちゃぶ台で食事をするならもう一人はデスクでさっさと済ませようとするし、鈴木巡査がデスクで食事を始めればもう一人がこれ幸いと奥部屋のちゃぶ台を使う。

鈴木巡査が醤油皿に口を寄せて吸い込む様に刺身を口にし、ニチャニチャと咀嚼していた。

田中のジョッキが空になり、瑠衣の杯も同じく空けたが鈴木巡査は得体の知れない緑色の液体をちびりちびり飲み続けているだけだった。

田中は次はワインにしたいと思ったが鈴木巡査の前で専門的なワイン知識を披露する羽目になるのはマズいと思いもう一杯ビールで行くか、それともレモンかグレープフルーツの何かサワー系で行くかと考えた。

「照間さんはどうしますか?ここのサワーは生絞りですよ」田中は空になった自分のジョッキで、同じく空になっていて瑠衣のジョッキを指し聞いてみた。ここでこの女性がレモンサワーでも頼んで鈴木巡査が「絞ってやるよ」とでも言ってくれればいいのだが。

「え?えっと・・・」女性は悩む様にメニューに手を伸ばした。

南国の女性はお酒が強いと言うステレオタイプを外しておくことを田中は忘れない。

「まぁ、無理はしないでくださいね」部下の酔いつぶれた彼女を介抱するなどごめん被りたい。

しかし瑠衣は厳しめの視線で田中を見て言った。

「私、こう見えて結構お酒は強いんですよ」

いや、元々強そうには見えるが。そう田中が思っていると瑠衣はメニューをめくりすぐに決めた。

「どなんのロックで」

どなん?ああ、泡盛か。沖縄女性らしいチョイスだがこの店の「どなん」は文字通り火が付く代物だ。

田中は念のために聞いた。

「ここのどなん、60度ですよ?」

「ええ、島ではいつもこれでした」瑠衣はまた田中にきつい視線を向けてからトイレに行くと言い、片手でスカートを慎重に抑え席を立った。

そこで鈴木巡査が立ち上がった瑠衣のスカートをめくった。瑠衣は小さな叫び声をあげてスカートを押さえ逃げるように個室から出て行った。

「お前は!なにをしているんだ!」田中は抑えきれなかった怒りが滲み出て鈴木巡査を詰った。

「あいつ、何でも言うこと聞くんスよ。歯も磨かせてるんス」

歯?歯ぐらい誰でも磨くだろう。田中はそう思ったがすぐにその意味が理解できた。鈴木巡査は彼女に歯を磨いてもらっているという事なのだろう。耳掃除ならわかるが・・・。

「あれは彼女が自分で・・。いや、お前がやらせているのか?」

「まあそうっスね、さっきもエロじじいが付いてきたんで手帳でビビらせてやったんですよ」

「このバカが!」田中は思わず本音を口にしてコンビニへと走った。幸いにもコンビニはこの店の隣にある。そこで女性用の下着と大きめのタオルを買い己龍へと戻った。

丁度、個室の前でトイレから戻った瑠衣と鉢合わせしたが瑠衣は恥ずかしそうにスカートを押さえまたうつむいてしまった。

田中は女性にこんなことを言うのは心の底から嫌だったが今は言わざるを得ない。

「申し訳ないです、これを履いてきてください」そう言って瑠衣にコンビニで買い求めてきた下着とタオルを渡した。

瑠衣はそれを受け取り中身を確認すると深く頭を下げてから田中の顔をまじまじと見て「ありがとうございます」そう言ってもう一度頭を下げてトイレへと戻って行った。

彼女は下着をつけていなかった。鈴木巡査の命令でだ。

田中は個室へと入り荒げたくなる声を押さえて鈴木巡査に言った。

「お前、何をしているんだ?公然猥褻だぞ」

「でもあいつ嫌がりませんよ?」悪びれる風もなく鈴木巡査が答える。

「誰がどう見ても嫌がっているだろうが!」もううんざりだ!このみすぼらしい男の面倒を見るは。

「お前がやらせていることは犯罪だ、仮に彼女が自分からやっているとしてもお前はそれを止める立場にあるだろう?警察官なんだぞ」

「そうっスかねぇ」鈴木巡査は事の重大さ、いやその愚かさがまるで理解できないようだった。

田中は思わず鈴木巡査を張り倒したくなる衝動に駆られたがもちろんそんなことはしなかった。ここでそれが出来たらどんなに楽な事か。五度、十度と説諭しても分からない相手の顔は場合によっては張ったほうが早い、良いか悪いかは別にして。

子供が非常に危険な行為を繰り返していたらそれを止めるためには痛みで止める方が良い場合もあるだろう。
子供の顔を叩き一度でその愚かさを感じさせることは出来るが、言葉でその愚かさに気が付けさせるにはその言葉を何度ぶつければいいだろうか?

子供はその愚かさに気が付く前に危険をその身に浴びることになるかもしれない。

瑠衣がトイレから戻ってきたが、鈴木の隣には着かず鈴木巡査と田中を左右に見るように座った。

瑠衣はしばしうつむいてはいたが怯えていたような先ほどまで雰囲気とは違った。そして意を決したように顔をあげると鈴木巡査に向けて言った。

「鈴木くん、わかれましょう」

「はぁ?」

「最初は頼もしい人だなって思ったけど、もう無理。この人に要求されたっていうのも嘘なんでしょ?」

瑠衣は鈴木巡査から目線を外さずに田中に顔を向けた。

「なにが?」鈴木巡査は顔を背けている。

「なにがじゃないでしょ」

なんだ?何が始まったんだ?田中が困惑していると瑠衣は立ち上がり少しスコートをめくり下着を見せた。

「この人が買ってきてくれたのよ」

鈴木巡査は顔を背けたまま返事をしなかった。

その姿を見て瑠衣は首を振った。

「あなたが買ってくれたのはこの趣味の悪いスカート。私が馬鹿だったのね、もう終わり」

そう告げられても鈴木巡査は振り向きもせず黙りこくったままだった。

瑠衣は田中に向き直り「下着とタオルありがとうございました。今度ちゃんとお支払いしますので」と言い深く頭を下げると個室から出て行ってしまった。

「どういうことだ?」当然、田中が問い詰める。

「どういうことって?知らないッスよ」鈴木巡査はスッとぼけるつもりのようだがそれは無理だ。

「私がなにを要求した?どういうことだ」

「だからぁ知らないっスよ」鈴木巡査は不貞腐れるような態度に変わった。

田中は鈴木巡査に厳しい視線を向けたが鈴木巡査の視線は田中の視線を避けるように、まるで磁石の同極のように交わることはなかった。

「まさかとは思うが」

鈴木巡査は一瞬たりともジッとしていられないかのように緑色の不気味な液体を口にした。

「お前、あの彼女が下着を付けていなかったのは……まさか私のせいにしたのか?」

「だから!知りませんて」

「なら彼女の言った『この人の要求された』ってのはなんのことだ?」

「だからぁ知りませんって!あの女に聞けばいいでしょ!」喋らなくてすむようにしているつもりなのか鈴木巡査はグラスを舐めるように口をつけた。

駄目だ。この男と話していても無駄だ。今日はお開きだ。

「帰るぞ」田中はそう言って会計を済ませ店を出た。

鈴木巡査はいなかった。

田中は深く疲れたため息をついた。

まあこれで終わりにできてよかった。私の目の前でフラれた鈴木巡査を慰めたり説教する必要もなくなったのだ、それで良しとしておこう。

田中は一人で飲み直そうと思いワインバー風神へと歩き始めた。

しかし鈴木巡査も馬鹿な男だ、せっかくできた彼女に対してあんなことをするなんて。いや、そもそも女性にしていい行いではない。
田中は鈴木巡査があの女性のスカートをめくった時、反射的な物だし仕方ないとはいえ見てしまったことを申し訳なく思い、つい思い出してしまう自分を恥じつつ歩き続けた。

今日は少し奮発するか。

田中が風神の前に立ちそのドアに手を掛けるようとした瞬間にポケットの中のスマホが振動した。思わず舌打ちし鈴木巡査じゃないだろうなと思いつつドアに伸ばした手をポケットに入れ取り出すと、そこに表示されていたのはアドレス登録のない携帯番号だった。

勿論そのままスマホをポケットに戻すこともできるが警察官と言う職務上、ハコ長としての立場上、そしてなにより人生で一番大事な昇進試験の目前である以上、無視するわけにもいかない。

田中は通話をタップした。

「田中ですが、どちら様でしょうか」

「あの・・」電話の向こうの声は女性だった。

まさか・・・。思わず舌打ちしそうになり咄嗟にスマホを顔から離した。だがすんでのところで舌を鳴らさずにすんだ。

「先ほどの、照間です。あの、下着とタオルは本当に助かりました。ありがとうございます」

「いえ、いいんですよ。お金もいりませんよ」田中は先手を打って言った。まさかとは思うが今から支払いに行きたいなどと言われても迷惑な話だ。だがなぜ私の携帯番号を知っているんだ?

「いえ、それで、あの・・」様子がおかしい。田中は名残惜しそうに風神のドアを見て再び歩き始めた。

「どうしましたか?何か問題でも?なんでも言ってください」こういう時はまず話させ、それを聞く。そのためには単刀直入に聞き、それを促すようにしておくのが時間の節約になる。女性には特に。

女性の悩みと言うのは誰かに話すだけで解決する場合が多い。そもそも解決のしようがない悩みばかりだからだ。誰かに打ち明けてそれで悩みが軽減するのなら何でも聞く。助けるとは言っていない。

「鈴木くんが私のマンションの前にいて・・・」

「なぜ!?」思わず言ってしまったが無意味な質問だった。

「いや、鈴木と顔を合わせましたか?会ったんですか?」

「ええ、ここにいます。今話をしていたんですけど、もう無理だなって思って」

「私の番号は、鈴木に聞いたんですか?」

「ええ、田中さんに聞いてみろっていうんで、ごめんなさい」照間の声の様子からするとここで田中と電話越しに話し聞きたいことがあるという様子ではなかった。何とかして欲しいという焦り、必死さが伝わってきた。しかし鈴木巡査はなぜこうも馬鹿なんだ、別れを告げられた直後に相手を追いかけるのは仕方が無いにしても他人の電話番号をこうも簡単に別の誰かに教えるなどとんでもないことだ。

「分かりました、今どこですか?」

「上野櫻木の自宅の前です」

田中は照間の住所を聞くと「15分ほどで行きます。落ち着いてください。言い合いとかはしないようにしておいてください」とだけ言いい電話を切りすぐさま走り出し千束通りに出てタクシーを捕まえた。

鈴木巡査の行動は思いのほか早かったようだ。

田中はタクシーの中で、なぜ私が部下の痴話げんかの仲裁をしなければならないんだとうんざりしたが無視するわけにもいかない。ここで鈴木巡査に刃傷沙汰など起こされては昇進試験が永遠にふいになってしまう。

田中が言われた住所に到着すると二人はお互いそっぽを向いて立っていた。とりあえずは一安心だ。救急車の赤色灯など今は一番見たくないものだ。

鈴木巡査は向こうを向いたままだったが照間と言う女性は田中の横に立って言った。

「鈴木くん!田中さんに言われたなんて嘘でしょ!」

「待って、私が何を言ったと?」おおよその予想は付いてはいるがはっきりさせておいた方が良いだろう。

「鈴木くんは、私に下着をつけさせず連れてこいって田中さんに言われたって!」

女性の発言は聞き捨てならないことだったが、ここでは……

何も知らない通行人がどんな痴話げんかだとばかりに通り過ぎて行った。田中は困り果てて言った。

「とりあえずね、ここじゃ何だから」

三人は照間のマンションに入っていった。

鈴木巡査と照間が向かい合う様にテーブルについた。田中は先ほどの居酒屋での照間と同じように二人を左右に

見る位置に座った。

「鈴木、お前。私が下着をつけさせないで彼女を連れてこいと言ったか?」

鈴木は不貞腐れたようにそっぽを向いていた。嘘をついたり誤魔化そうとすることすら出来ないんだこの男は。

「鈴木!」田中は語気を強めたがそれ以上無理に答えさせようとは思わなかった。

それを鈴木の口から言わせる必要はもう無い。

アレは私の指示ではなかったということはハッキリした。

そして照間は再び鈴木巡査に終わりを告げた。

「もう終わり。鈴木くん、もう会えない。ここに田中さんもいるでしょ?勘違いとかじゃないの、終わりにしたいの」

鈴木巡査は1秒たりともジッとしていられないかのようにせわしなく身体のどこかを動かし続けていたが、ただ一つ照間と田中と視線を交えることだけはしなかった。

鈴木巡査は視線を合わせなければ、それ以上物事が進展しないと思っているのだろうか。

だが例え鈴木巡査の中で時間が止まっていたとしてもこちらがわ二人は進んでいる。

「鈴木くん、本当にもう来ないで。今、田中さんも聞いてる前で言うわ。鈴木くん、あなたとはもう終わり。鈴木くん聞いてるの?返事してよ」

照間は問いかけるがやはり鈴木巡査は自分の時間の中を生きているようだ。

「鈴木、別れたくないのか?」

鈴木巡査が少し反応した。視界の隅で田中と視線を交えた。

「鈴木、未練があるのか?」

鈴木巡査が更に反応した。

「別に……」

田中はなんとなくではあるが今の鈴木巡査の心理を理解した。

鈴木巡査はもちろん別れたくはないし未練の塊なんだろう。、たがそれがなんなのか自分でもわかっていないんだ。

鈴木巡査にとって「彼女」と言う物は、女性と付き合うという事は、AVの中でしか見たことがなく、極端な性描写のアダルトマンガの中に存在するものだったのだ。
鈴木巡査は「彼女」を宝物のように扱う事もないどころか、それがいかに大事な物であるかという事すら自覚できていなかったのだ。

それがいかに大事なものであったという自覚が持てなかったから、未練もまた自覚できていないんだ。

取りあえず、もう終わりなんだということを理解させるのは難しいかもしれない。
だがそれでも言葉の意味くらいは理解できるだろう?

「鈴木、彼女とはもう終わりなんだ。わかるだろ?」

鈴木巡査のせわしない動きがは少し落ち着いたように見えた。

「なあ?もう彼女に近づくのはやめろ。お前を怖がっているんだ。またいつか、その…別のな、彼女を作ればいいじゃないか」

それは難しいことはわかっている。鈴木巡査が変わらなければ。変わるのは簡単ではないだろう。
だが変わろうと変わるまいと彼女とは終わりなんだ。

「鈴木、彼女とは、終わりだ」

「な?帰ろう」

田中は優しく鈴木巡査を見つめていた。

その優しさが届いたわけではないだろうが、鈴木巡査はやっと田中を見た。

悲しそうな悔しそうな、後悔しているような、強がっているような不思議な、複雑な表情だった。

「帰ろう、な?」

鈴木巡査はゆっくりと立ち上がった。田中も立ち上がった。

田中は鈴木巡査の肩に手を当てて「帰ろう」と言った。

鈴木巡査ははゆっくりと動き始めて玄関へと向かった。
照間瑠衣のことを振り返ることはなかった。

鈴木巡査は照間瑠衣の部屋のドアから外に出て1人帰って行った。

田中は照間瑠衣の元へと戻りテーブルの向かいに座ろうと照間瑠衣の横を通り過ぎようとした時に、瑠衣にその手を握られた。

田中が瑠衣を振り返ると彼女はホっとしたような、悲しそうな、申し訳無さそうな、でも嬉しそうな表情で田中を見ていた。

田中は瑠衣に手を握られたまま、しばし立ち尽くしていた。

瑠衣が潤んだ目で田中を見つめていた。

やめてくれ。田中は思った。

だが田中はあがらえなかった。瑠衣の手を引いた。瑠衣は立ち上がり、田中を導いた。

田中は瑠衣にうながされるまま歩いた。瑠衣がドアを開ける。そこは寝室だった。二人はそこで朝まで過ごした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?