排水溝とビニ傘と人生観

生活というものは面白く、どこに学びが転がっているか分からない。

ある日、排水溝が詰まった。
最悪。手を洗っていると、洗面所にお別れした水がみるみる溜まっていく。
寝癖を直したり、髪を乾かしてたことで詰まりを発生させているのだろうと思い、棚に入れていた洗浄キューブを蓋を外して入れる。少し待てば直るらしいので待つ。

もう良いだろうと1時間ほど経って水を流してみたところ、直らない。
話が違うではないか。不良品だ。私は何のために1時間待ったのだ。こういうときの1時間って頭の片隅にずっと排水溝がいるから、完全に自由な1時間ではなくなる。洗濯機を回してるときだってそうだ。そんな不純物が混入した時間をつくり、しかも問題が解決できないなんて、最悪。これ業者とか呼ばないといけないのかなあ、と思って洗面所の蓋を開けてみる。電話する前にどんな感じで水が溜まっていくのだろうと蓋を外して観察してみることにした。敵を倒すにはまず分析が必要だ。すると、あれ、全く溜まらない。おかしい。そこでふと気がつき、蓋の方を見る。すると蓋の裏についている網網の部分に髪が詰まっていた。

ええ〜〜ここだったのかよ原因。と思いながら綺麗にすると、水もちゃんと流れるようになった。そこで私は思った。問題の所在は根本だけではないと。私の脳は、詰まった=奥のパイプに原因があると勘違いしてしまった。でも詰まる原因は他にもたくさんあったのだ。そこに気が付けないなんて。その時、日常生活でもこういうことやってそうだなと思ってヒヤっとした。解決という宝がない場所をぐんぐん掘っているその虚無感。問題はどこにあるのかをちゃんと見極められるようにしよう。

あともう一つ。それは今朝のこと。
会社に行く道でばったり後輩と遭遇した。今日早起きした理由をだらだら話していると、強風で後輩のビニ傘が壊れた。黒い骨がむき出しになっていて、一瞬で「台風の時に持っている傘」にメタモルフォーゼした。会社に着き、このままだと捨てられないですよね、と言いながら閉じなくなった傘を閉じるために、2人でビニ傘のビニールの部分を直すことに。そしたら、さっきのいびつな形をした傘から一変。普通の傘に戻った。さっきはあんなに乱れていたのに、今はなにかありましたか?といった雰囲気を醸し出している。骨の一つの部分が外れただけで骨壊れていなかったのだ。なんならまだ使える。

その時は直って良かったね〜と言って別れたが、あとから「もしかしてビニ傘って壊れないようにあえて先が外れるようになってるんじゃないか?」と思った。仮にビニ傘の先を完全に固定していたらおそらくそのエネルギーは骨に伝わり確実に折れていた。でも外れたおかげでエネルギーは逃げ折れずに済んだ。これが元から考えられて作られていたなら、ビニ傘つくった人すげえ。し、頑丈なだけが丈夫ではないんだなと思った。別に外れたっていい、大事なのはそこに復元性があるか。どんなに形が変わっても元に戻ればそれは丈夫なものなのだ。人間だってそうだよな。ときにはストレスを受け流す必要あるだろうし、ストレスを全面に受ける必要もない。わたしはちゃんとしんどくなったら先が外れる設計になっているだろうか。

といろいろ思ったけど多分すぐ忘れそう。

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