作品の感想 映画「虐殺器官」

今日は一日中寝ていた気がする。
どうも、らおです。

進学先のアパートにはテレビを置いていないのでそこそこ多いな画面で映画を見られるのは実家だけ。
ということで我が町で唯一となってしまったレンタルビデオ店に行って気になる作品を借りてきました。
その第1弾、原作 伊藤計劃の映画「虐殺器官」
今回はそれに関する感想をグダグダ書き散らかしていこうと思います。

映像作品であるからこそ

もともと原作の方は読んでいたので大筋については触れることは無いかなーというところだが、一人称視点の使い方に少し驚かされた。
この作品では主に戦闘シーンのいくつかで一人称視点が使われる。

その際、まるで自分が相手に銃の狙いを定め、引き金を引いているような映像になる。
この作品の主人公は特殊部隊所属であり、作戦行動時には痛覚と感情を司るいくつかの脳モジュールにマスキングをすることで肉体的にも精神的にも痛みを感じない状態=(自分が撃たれても痛みによって動きが阻害されることはなく、まだ二次性徴を迎えていないような少年少女を撃ち殺しても罪悪感を感じない状態)へと調整されるのだが、この状態はスクリーンの前でその視点のみを主人公と共有している我々に近いものではないだろうか。

この映画を鑑賞する者は、目の前で肉片を散らし、倒れていく子供を見て可哀想だとは思っても、自分がやった罪悪感に苛まれる人はあまりいないだろうし、それによって逆にFPSで敵を倒した時のような快感、手応えを得ることもない、フラットな状態を体験することになる。
この、「視点と感覚の共有」は映像と音を用いる映像作品というジャンルだからこそできることだと思う。

また、原作との大きな差異として主人公の母に関わる話が全てカットされているという点があげられる。
小説では、物語の開始時点で主人公が生命活動を停止させることを決断した最新の人間である彼の母親と、先述の通りに感情をマスキングしていたがために、自分の意思で殺したという感覚を持てない今までのターゲットに対しての責任の所在はどこにあるのか、と悩む描写があり、その後も、度々死者の国という形をとって主人公のモノローグに現れ、彼の母に対する言及は物語の最後まで続く。
そのため、私としては物語の軸の一つであると考えていたのだが、そこまで詰め込んでしまうとややこしくなってしまうのか、尺の問題なのか…
ただ、抜かれたところで言及されていた問題に関しては上手いこと作中の会話で補われていたので、もしも伊藤先生が公開当時にご存命だったならばどう思われたかというようなことは、私がどうこう言えることでは無いが、原作ファンの1人としては何も問題は無いのかなと思う。


話は逸れるが、私は作品を映像化する際に作者の同意、監修のもと、もしくは大衆の大半が納得出来る形での改変ならじゃんじゃんやってしまっていいのでは無いかと考えている。
使うメディアが異なる中、一つの作品を表現しようとすると、どうしても内容を削ったり、補足したりしなければならないことは多々あるだろうし、他者の視点が入ることによって原作者には無い表現を取り入れ、より素晴らしい作品になることもあるだろう。
(スティーブン・キングが映画「ミスト」の制作陣からの改変の提案を電話で伝えられた際、了承した後、なぜそれを思いつかなかったのかとものすごく悔しがったという話もある。)

そういえば機械の作画がすごい綺麗だったけどCG使ってたんやろか?メカ好きとしては嬉しかった。

ではまた。

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