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ひなどり〜塾の先生|#文豪へのいざない


莉子りこの家の近くに、その個人塾はあった。


商店街の並び。ひときわ古い趣きの木造の構えだった。個人塾をするまえは、先生の父親が医院を開業していたらしく、ガラスを嵌めたスイングドアで、持ち手は金属のバーが付いていた。


莉子は小学4年生のときからその塾に通っていた。自分の学年の順番になるまで、同じ学年の子たちと、元待合室の空間で待っていた。時間になったら2階へ上がる。


尋ねたことはないが、先生は、かなり優秀な学校を卒業した人のようだった。独身で、40代くらいだった。ひとクラス20人くらいの生徒を受け持って、学校のように黒板で教えてくれた。


先生は飄々とした雰囲気で、ふだんはきびきびと授業を進めるけれど、男子が怠けていると、時々急に怖くなった。
莉子は心ひそかに、
(真面目に予習しておこう)
と思ったものだ。


実は塾の建物は、入口が普通でないだけでなく、奥が広くて、街なかにはあり得ないくらいの規模の元「料亭」だった。



塾に入ってから見せてもらったのだが、大きな蛙の陶製の置物がある池をはさんで、コの字型に回廊を巡らせた建物になっていた。
何部屋あるのか、階段がいくつあるのか見当もつかない。
稀に、先生の年老いた和服姿の母親を見かけることがあった。


先生は時々、生徒たちがプリントや問題集をしている間に、ふだん使うのと違う階段でどこかへ下りて、ひっそりとサックスを吹いていた。


莉子は優しげな音色を聴きながら、

(本当は、音楽がしたかったのだろうな…)

と感じた。


✢✢✢


それは莉子が中学2年生のときだった。



先生がみんなに、「島へ渡ってキャンプをしよう」と提案した。中学2年生を連れて旅行するのは、毎年の恒例行事らしい。おそらく2年生にしたのは受験を見越してのことだろう。


1泊2日。配られたプリントには、予定表や持ち物、島の地図などが書かれていた。海に近い場所でいくつか男女に分かれてテントを張る。



動きやすい私服と、寝るときは体操服上下。あとは普通の遠足程度を準備すれば良かった。
キャンプファイヤーの代わりに、神社で肝試しをするとのことだった。
先生の様子はいつになく楽しそうだった。こういう活動的なことも好きなんだな、と思った。


✢✢✢


当日。電車やフェリーを乗り継いで、島へと渡った。先生が指定した場所は海が近くて、ひなびた感じの空き地だった。


みんなは慣れなくて一生懸命テントを張ろうとしたけれど手こずった。そのとき手慣れた様子で、出来ないところを順序よく回って手伝ってくれたので、莉子はちょっと先生を見直した。


キャンプの定番のカレーを賑やかに食べたあと、辺りは次第に薄闇に包まれてきた。


「肝試しに行こう」


先生は明るく言った。キャンプに参加したのは結局15人くらい。一列になってそれぞれおしゃべりしていたが、なかなか肝試しの場所に着かない。


(どこまで行くの…?)


莉子はもう疲れてきて、俯向うつむきながら歩いていた。
舗装されていない土の田舎道。小さな石が運動靴の底に入ってくる。



人家が少なくなり、暗く月の光で照らされた水田が脇に続く。


鈴のような虫の
あちこちで蛙の鳴き声。


「―――ここだよ」


顔を上げると、小高い山なのか丘なのか分からない漆黒の闇があった。


「細い階段を上がっていくと、神社がある。
先に先生が行って賽銭箱の前で待ってるから、タッチして下りるんだ。
ひとりずつね…」



―――



そこから莉子の記憶はすっかり飛んでしまっている。
とにかく、恐ろしかったのだろう、ということだ。


記憶を再生できるのは、帰り道を歩く長い間、ずっと先生に手を繋いでもらっていた自分の姿だった。


身体がすくんでずっと緊張していたけれど、先生の温かい手に包まれているうち、だんだん気持ちが落ち着いてきた。


(……わたし、守られてる)


生まれて初めて抱く感覚だった。
親ではない他人に守られるのは心底不思議だけれど、それには特別な喜びがあると感じたのだ。



一方、先生にとっては中学生の生徒。存在しないけれど、自分の子どもに近い感覚だったのだろう。
あたかも、雛鳥ひなどりを見るように…



✢✢✢



その夜が明ける前。
先生がみんなを起こした。


「朝が綺麗なんだ、みんなで見よう」


わさわさと寝ぼけながらみんながテントから出て、なぜか全員体育座りしながら、海辺で日の出を待った。


藍色の空。細い月がまだ出ていた。
星たちが瞬き、藍色の幕はゆっくりと紫色に染まる。
波の寄せては返す音。


(枕草子だ…)


国語の好きな莉子は思った。


やうやう白くなりゆく山ぎは、

すこしあかりて、

紫だちたる雲の、

細くたなびきたる。…”



(たぶん一生忘れないだろうな…)


たしかにそれは本当だった。
神秘的な明けの空も。
先生の大きな温かい手も。



莉子は恋を知らぬゆえ、その後、
どうしても不思議な感覚が分からず、

―――何度も何度も、
誰かと手を繋いでいる夢を見たのだった。



✠Fin✠


✢✢✢


このnoteは、とらねこ様の「文豪へのいざない」の課題「#藍色の空」にインスパイアされて執筆しました。


とらねこ様、よろしくお願いいたします。




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