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遊び感覚 11話~15話

第11話 実験と料理

私にも科学者の真似事をしていた時代がある。理学部の学生の頃、私は白衣を着て熱心に実験をしていた。しかしながら、熱心さは常に成功を保証してくれるものとは限らない。私のフラスコの底に生成する物質は、やり方は同じでも、多くの学友たちが得る物質とはどこか違っていた。いつの間にやら私は要注意人物になっていた。試薬を入れる順番を間違えて、教室に青酸ガスを充満させてしまい「逃げろ」と叫んで倒れたこともあるからだ。
机の上にテキストを開いてパイプラインを接続していると、陰険なため嫁の来てがないと噂されている助手(考えて見ると将来の私の姿だったのかもしれない)が忍び寄ってきた。「井山君、実験は料理と違うんだよ。テキストはあらかじめ読んできなさい」とぶつぶつ神経症的に言うのだ。この時とばかり私は反論した。先生はヒポクラテスを読んでいないからそんな馬鹿げたことを言う。料理には実験に優るとも劣らぬ学問的伝統があることを滔々と語った。そう。多くの男は料理を軽視する。困ったものだ。われわれは、大抵なら一日に三度料理の恩恵を受けているではないか。
話を進める前に断っておこう。私自身、別に料理が上手だとか凝っているとか、そういうことではない。誰でもできることを普通にしているだけだ。料理本を見れば大抵のメニューは大正生まれの人間だって作ることができるはずだ。それに、万人の共通の話題でもあり、フライパンやなべの中での人それぞれの工夫や創意を聞くことは実に楽しい。最近、同僚の松本彰先生の家で見事なシチューを御馳走になった。トマトとナスが入っているのだが、何か違う。これ、マギーのブイヨンじゃないよね、と聞くと黙って笑いながら頷く。昨日東京から帰宅したのだから、フォン・ド・ボーを作っている暇などあるはずがない。それじゃこの味は何なのだ?私は煩悶した。
答えはなんと単純。水を使わずオリーブオイルでニンニクとトマトをじっくりいためて、煮込むのだそうだ。この料理の利点は、値の下がったくずトマトを使えることにある。これだけうま味とコクが出るのなら、スパゲティーのミートソースに挽き肉を使うのは無駄な気がしてくる。とまあこんな風に人からの情報を得て、日々の文字通りの意味での糧にしている。
筑波の大学院に現在在学中の坂井健君という将棋部の学生にも、以前、貧乏スープの作り方を教わったことがある。鳥の皮を沸騰した湯にくぐらせて、椎茸かシメジか一番安いキノコを投げ込み、酒と生姜と醤油で味つけする、という簡単なもの。溶き卵を入れれば、もっと美味しくなる。これに、アーモンドの皮とトウガラシをオリーブオイルで炒めたものを、スパゲティーに絡ませた料理を加えると、一人分百円を切る昼飯ができる。もっと安価な食事もある、と学生時代の仲間の一人が言っていた。説明の必要のないものだ。塩炒飯。ここまで来ると何か切なく惨めな気持ちになってくる。せめてタマネギ炒飯にしたいものだ。

[33年後の注釈]

1)実験の失敗はベンゼンスルホン酸の合成。私だけ何故かピンク色の浮遊物が生成した。やり直せと言われたが、このピンクが何なのか機器分析で調べたいと言ったら、学生の癖に生意気だと言う。断念したが二度とできなかったから、何か新発見だったのかもしれない。青酸ガスの発生事故はシナモンの有機合成の途中でシアノ基を付加する反応で青酸ナトリウムを使うところ、何故か誤って塩酸を加えてしまったために起きた。他にはIR吸光分析で岩塩レンズを(注意書きを無視して)蒸留水で洗浄し溶かしてしまったこともあった。弁償して欲しいと言われた(しなかったけど)。
2) 陰険な助手は記憶違いで技官の人だった。後で知ったことだが、技官は高専出身の方が多く研究職ではなく実験準備の仕事。研究室をもたず実験控室で、彼は演歌を聴きながら(ヒポクラテスではなく)少年ジャンプを読んでいた。理学部の職業カーストのようなものだ。助手にも研究助手と事務助手があり、更に、秘書がいる。秘書も聞こえはいいけれど、公費ではなく教授の私費や研究予算のなかから支払われ、助手の半分くらいの給料だった。
3)       ヒポクラテスの Corpus Hippocraticum の部分訳が岩波文庫に入っていて、その頃読んでいたらしい。滋養強壮による未病が医療の根本にあるとか、読みかじっていたのはいいが、体液料理学説とかきちんと読みこんでいませんね。まだ科学史の大学院に進む前の頃で、GFが玄関で毎日迎えてくれて、三四郎池やお茶の水のLEMON か、画廊喫茶ルオーで一緒に過ごした。ピアノの会で知り合った彼女はショパンのエチュードOp.10-4 を見事に弾き、後に青山学院大で英文学を教えることになる。妹は東大から芸大に転進してオルガニストになった。彼女の父親は北海道の大学教授で一度頼まれて無機化学の斎藤教授からオーチャードリーフを預かって届けたことがある。変なことを覚えているが、経緯は忘れた。大学院に進む直前にあえなく振られて三日三晩泣き続けて、それですっきりして勉学に励むように…はならず、気ままに好きなことをして暮らす今の生活リズムが確立した。
4)       新潟での独身生活は約十年。飯田深雪の和洋中の料理本を買って、片っ端からつくる毎日。後に叔母がベターホーム社から出版したレシピ本を貰ってそれも重宝した。燕の台所用品の問屋で調理器具は結構集めた。何故かプリンづくりに凝っていて、竹製の蒸籠を買ったし、炒飯用に北京鍋を求めた。ただ一人分をつくるのは困難で過食は必然でそのために十五キロも太ったのだ。
5) 松本彰先生は六歳上。ちょうど大学紛争の時に受験だった世代。ドイツ現代史がご専門だが、音楽学会とかバッハ学にも通じていて、お宅にグランドピアノ2台とチェンバロにオルガンがあって、よくお邪魔して手料理と演奏を楽しませて頂いた。松本先生がゲーテ・インスティテュートでドイツ語を習った村上紀子先生は、私のピアノの先生で、なおかつ大学院の指導教官の村上陽一郎先生のお姉様。断っておくけれど、松本先生の料理の腕前はプロ並みで私のとは雲泥の差だ。
6)       本文で大正生まれの人間だって、と変なたとえをしているが、これは父のことを想定して書いたのだと思う。父は一生に一度だけ母がお産で入院しているときだけ料理をした。サッポロ一番に業務用バターを溶かしただけの簡単なもの。でもとても美味しく嬉しかった。松本先生のトマトシチューは、スペイン料理のガスパチョに近いと言っていた。坂井健君は私が助手に赴任したときは国文科の四年で将棋部。その後筑波大学の大学院に進学し、函館ラサール高校に勤務した後に、仏教大学の教授になる。初期の十年ほど、美味しい店情報を全国津々浦々調べ上げては、実際にそこに行き、私に教えてくれた食の恩人である。バンドネオンを演奏し、ラテンタンゴが好きで、ラテンの意味を間違えてラテン語の授業を受けていたこともある。
7)       塩炒飯は具の問題はあるけれど、坂井君は通常のレンジの炉温では作れないと専用のレンジを買っていた。そういうところにはお金を使う。ガスも都市ガスでなくプロパンの方が良いそうだ。あと、コシヒカリは炒飯には適さない。べちゃっとしたのが好きならいいけれど。ペペロンチーノは今でも好きなレパートリー。オリーブ油の質がすべてだと思う。国産物は高価だがパンにつけてもいいし、ドレッシングにも使う。小豆島産を使っていた時期もある。 

第 12話 福井来訪

 福井の朝は物憂いどんよりした朝だった。前日の晩に夜行列車「北国」で新潟を出発し、福井には明け方三時四十分ごろ到着。駅の三階に仮眠室があり、九時まで寝て千三百円ほどの金額を支払ったが、隣に鼾をかく人が寝ていることまではガイドブックには書いてなかった。京福電鉄で永平寺へ向かうこと約五十分。周りはおばさんばかりで、やたらとうるさい。嫁の悪口とか利殖の話やら。この人たちにも恥じらいの紅色が頬を染めた季節があったのだろうか。とにかく深山に抱かれた古刹の門に到着したときは最悪の状態であった。去年の同じころ、能登の総持寺を訪れたが、どこかしら似た雰囲気が漂っている。母方の祖父三浦廣洋の描いた天井絵を見るために来たわけだが、沈鬱な驟雨のなか足取りも重い。エレベーターの前を通り過ぎで広間に案内されると、若い僧侶が見学の順と秩序について、厳めしい面持ちで解説している。私が大学でしている講義も、本当はこんな風に退屈なのではないか、調子の悪いときは物を悪い方向に解釈してしまう。山の斜面を這うようにしつらえた回廊の縁に、雨よけの雑巾が並べられていたが、それぞれ柄や模様が違い興味深い。わが家の煎餅蒲団の生地と同じものもあり、少しでも仏道に寄与しているようで嬉しく思った。結局、観光団体が津波のように押し寄せてきたため、ゆっくり見ることもできずに昼には福井に戻った。
 なぜここにいるのか。半分は仕事のためである。残りの半分で三日間フルに県内を駆けめぐることができたのは、建設業界から一転して教育事務の仕事を始めたという春日四郎氏のご親切による。東尋坊へまず連れていってもらった。車で三十分ほど。柱状節理という規則正しい岩肌は、新潟では清津峡が有名だが、ここでは見下ろすと言った方が正確で、年に数人投身を試みるこの名所の暗鬱さを浮き彫りにしている。翌日は丸岡城跡へ。人柱にされたお静という女性の碑が立っていて、その悲劇の解説を読んでいると、福井に来たらオロシそばを食べないと、と言われて、供養というのも妙なのだが、戦国時代の迷信を呪いながら辛味たっぷりのそばを啜った。
 最終日には、風化作用で自然に岩塊に穴があき、そこを街道が通っている呼鳥門と称される越前海岸の名所へ向かった。雄大な眺めではあるが、それがお目当てではない。トイレです、と春日氏は誇らしげに言う。レストラン有情の左手奥のトイレは、本当に凄かった。一人分が三畳分は優にあって、庭木に石灯籠がありコオロギが跳ね回り鳥の鳴き声まで聞こえてくる。竜安寺の石庭で粗相をしているような気分だ。というわけで、大変世話になった事務長に何か御礼をしたいと言ったら、じゃ私の歌を聞いてください、と言う。フランク永井から山口百恵まで、数時間歌いまくった揚げ句、私もどうぞと来る。雪山讃歌ならカラオケに入っていないだろうと高をくくっていたら、ちゃんとあって、結局歌わされてしまった。 

[33年後の注釈]

1)   私を新潟大学に呼んでくれた故渡辺正雄先生の友人が産業能率大学の学長をしていて、通信教育のスクーリングの講師をして欲しいと頼まれることが多かった。東京、新潟、富山、金沢、福井を年に二、三回のペースで訪れた。福井は簿記学校の学生でとにかく行儀が悪くて、アメリカのハイスクールドラマみたいに足を机に乗っけたり、バイクのヘルメットに顎を乗せてたり、静かではあったが大半は寝ていた。科目は「自然科学概論」で産能大の教科書は確かに面白くはない。それで、教科書を放り投げて、「聞かないんだったら意味がないから、どんな話だったら食いついてくれるか、言ってみろよ」と挑発したら、結構正直な連中で「彼女いますか?」とか「モテる方法教えて」とか「好みのツーリングのコースを教えろ」とか、だんだん可愛くなってきて、膝をつめて話し合った。教科書を使わなかったことは内緒にね、と念を押しておいた。最後にリーゼントの兄ちゃんが福井のお薦めラーメン屋を教えてくれた。
2)       永平寺の天井絵は曹洞宗の系列の襖絵や壁画の多くを手がけた、邦画家・寺崎廣業の一門(祖父は一番弟子)による。京都の大徳寺にも祖父の襖絵があった。祖父は日露戦争に絵師(今ならば報道カメラマン)として従軍し、砲弾で怪我をしたときに、作家になる前の森鴎外から治療を受けたと述懐していた。修業時代は根津に住み、近所で療養中の正岡子規に豆腐を買って届けたり、幸田露伴の囲碁の相手をしたり、文人墨客との交流があった。東京美術専門学校(現・芸大)の卒業制作で「栄誉ならずや」という戦死者の上に観音菩薩が降りてくる絵を残している。これが一番好きだ。白内障を患いほとんど眼が見えず、同居していた伯父が北海道教育大学に転勤になると札幌に移り住み、1974年に92歳で没した。
3)       永平寺の坊主は僧衣のまま福井まで出てきて飲み歩き、日頃の鬱憤を晴らしていた。三日目にカラオケスナックでそれを目撃した。福井市内で今でもまた行きたいと思う店は、大根おろし蕎麦の「さのや」、ソースカツ丼の「ヨーロッパ軒」、炭火焼きとりの「秋吉」。秋吉は全国チェーンで、新宿と新潟でも食べたことがある。純鶏という「卵を産まなくなった雌鳥」の固い身をマスタードソースをつける串が忘れられない。
4)       呼鳥門のレスト有情の日本庭園風トイレはもうないことが分かった。そうだよね。33年前だから。
5)       カラオケで歌ったのは人生で二度目。初めて歌ったのは下北沢のカラオケ酒場で先輩の河本英夫さん(現在東洋大教授)と。これきりでもう入ることはないと思う。
 

第13話 お巡りさんの思い出

 昔はお巡りさんを尊敬していた。私が育った東京都世田谷の用賀町には、馬事公苑という馬術訓練する場を兼ねた公園があって、その端の派出所の警官は周囲の少年たちの憧憬を一身に集めていたからだ。第一、馬に乗って巡回するその姿が凛々しく格好が良い。それに十円玉を拾って持っていくと「えらい」と誉めてくれて濃紺の制服ズボンのポケットから自分の財布を出して、代わりに五十円玉を手のひらにのせてくれる。草野球をしている前を通り掛かったところを誘うと「勤務中だから」と言いながらもバットを握ってわざと三振し「上手だねえ」とつぶやき帰っていく姿など、アラン・ラッドの孤独に去る姿と重なってほれぼれしたものだ。
 ところがいつの頃からか、警察と私との間の平和で友好的な関係は急速に薄らいでいった。期間にして十三年、走行距離にして十五万キロ余り、間断なく中古車を運転してきたが、私は速度違反で捕まったことが一度もない。安全運転しているというよりは、単に運がよかったことに加えて、何か不吉で怪しげな雰囲気を事前に感じとることが多かったからである。しかしながら、さしもの私とて交通巡査の魔の手から一切免れていたわけではない。誰が忘れよう。長野県北佐久郡岩村田を貫いている国道へ間道から出ようとした折の話。あたりはすばらしく見晴らしが良い。雄々しい八ヶ岳の峰々が遠望でき、背後には浅間山が噴煙を立ちのぼらせている。もちろん、左右前後に上下を加えても、他に一台の車のないことは容易に見てとれる。不審なものは何もなし。パトカーのいないことも確かめた。てなわけで、ブレーキを踏みながらギアをセカンドに入れて、心地よいハイウェイドライブへいざ、という頃合いに、畑に廃棄されてあった段ボールの中から、キノコのようにむくむくと警官が現れたのだ。
 トランシーバーで恐らく私の車の番号を告げたのであろう、五百メートル先のわき道から同類が手を広げて出てきて「一時停止違反ね」とまるで注文をと取りにきたウェイターのごとく伝票に何やら書き込み始めた。あらゆる運動物体は実は止まっている、という古代ギリシアの哲学者の学説を持ち出したが通用しなかった。
 そして昨年、冬のことだが、来るべき日がとうとうやってきた。刑事の訪問を受けたのである。「昨晩、五十嵐一の町の交差点付近で若い女性が暴行を受けたのですが…」。まずい、アリバイがない。十一時のバスに乗ってちょうどその頃にバス停で降りたことを言うべきか否か。いや、そうだ。家に帰ってプロ野球ニュースを見たし、その内容も覚えている。駄目だ駄目だ、留守番録画という手がある。冤罪で無念の日々を送った人びとの姿がおぼろげに浮かんでくる。とにかく正直に言うしかない。私はそんな怖い犯罪にかかわっていないことを力説した。「何か誤解されているようですが、不審な人を見かけませんでしたか?」。搦手から落城させようというのか?最終的には納得して帰ってもらったが、本当に恐ろしかった。
 

[33年後の注釈]

1)       馬事公苑は自宅の都営住宅から歩いて十分くらい。初デートの場所でもある。中2の時で相手はなんとか佐藤さん。大学院時代には公園入口にロイヤル・ホストがあって、ここのお代わりただの珈琲を飲みながら深夜に翻訳の仕事をしていた。向いが東京農大で母校の桜丘中学校の隣。中学時代は学食のカレーを食べにきた。一皿四十円の時代。学祭は収穫祭と言って、豚の丸焼きとか果樹園でつくった蜂蜜が子供に人気があった。乗馬で巡回する警官はほかにあるのか知らないけれど、道路交通法ではどうなっているのだろう。車馬というくらいだから自動車あつかいだったのか。十円玉をもっていくと多めにご褒美が貰える特典は別の警官になってからはなくなった。
2)       岩村田に行く途中の交差点(御代田から国道にでる三叉路)で捕まった衝撃は、今でも鮮明に覚えている。まさかいないよね、という状況。相手は釣りでもしている感覚か?その後33年間で一時停止違反はなく、シートベルト違反が二度あったが、このお腹を見て下さい。苦しくて締めるのが無理なの分かるよね、と言って許して貰ったときと、整形外科の診察券を見せて、いま治療中でとてもベルトに耐えられません、とごねたら、診断書を後で見せて下さい、と言われ、診断書の手数料と違反点を天秤にかけて、違反を認めたときがある。
3)       古代ギリシアの哲学者とはゼノンのこと。ゼノンを読んでいる警察官がいるはずないのに、悪あがきだった。飛ぶ矢のパラドックスは、どの瞬間、瞬間でも止まっているのだから(写真がそれを示している)、矢は運動していない、というもの。
4)       刑事の訪問はこの時だけ。二人で来て、仕種とか目線とかドラマそっくりだった。さだめしドラマを見て訓練しているのかもしれない。椅子を勧めたが最後まで玄関で立ったままだった。
 

第14話 安いのとオマケに弱い

 安売りとかバーゲンと名のつくものに、私はからきし弱い。正札の値段が本当の価格とは限らないことは分かっていても、つい安いと手を出してしまう。自ら呆れているほどだ。聴きもしない民謡全集を買ったり(定価一万円が八百円!)、結局腐ってしまうことを承知しながらニンニクの芽(二百円のところを五十円)をカゴに入れたり、「お一人様二本に限ります」などと書いてあると、妙に得したような気分になるため、わが家ではサラダ油の消費が購入量に追いつかず、現在一ダース余りたまっている。
 古本屋には一冊百円のコーナーがあるけれど、ド・ラ・メトリの「人間機械論」を見つけるたびに買っていて、ひところは四冊ほど持っていた。それにオマケが付いているとなると、話はもっとエスカレートする。今でも売っているのだろうか、鉄腕アトムのシールが入っているという理由で、マーブル・チョコレートばかり食べていた記憶がある。高校に通いだしたら一年下に上原ゆかりが入学してきたりして、それがオマケだったのかもしれない。リーダーズ・ダイジェストには何度かしてやられた。「あなただけの特典です」といった文句が並んでいて、手帳とかペンケースが付録につく。勉強になるからとその時は思うのだが、一冊について一行も読んだ覚えはない。
 オマケとはちょっと違うけれど、群馬県渋川に近い伊香保温泉にある竹久夢二記念館の切符は、オルゴールや古い蓄音機が飾ってある展示館への入場料が込みになっているものと、単に記念館だけのものとがあって、前者の方が割安なのでそちらをつい買ってしまった。この件については後悔しているわけではないのだが、旅行の最終日であったため残り金は少なく、このため水沢観音の名物うどんを食べる予算が無くなった。後日再び足を運んで待望のうどんを胡桃の入ったタレですすったけれど、今度は鞄を忘れてしまい、店の人が親切にも送ってくれたから助かったものの、ひどいオマケになってしまった。
 もうちょっとで引っかかる寸前で踏みとどまった、という例もある。近くのスーパーでスノータイヤを売っていた時の話である。四本で三万九千八百円でサイズも合っている。オマケはなんと卵二ダース。しかし、そのときは前日にカニ玉を作り過ぎて三食ほど連続していたので、卵は見るのも嫌だったのが幸いした。
 結果としては、あまり良いことではないのだが、オマケにはそれぞれ夢があって、ときには単調な生活に潤いを与えてくれる。たとえそれが商業主義の端的な表われであることが分かっていても、人を夢想の次元に引きずり込む魅力をだれが拒否しようか。
 でも、あれはやめた方がいい。いわゆる「福袋」というやつ。買う寸前のわくわくした気持ちと、開けてみたときの落胆との格差を考えると精神衛生上悪いこと甚だしい。うん?そういうことです。何度も味わいましたよ、その落胆を。買ってから、その店が化粧品店だということに気づいたりして。
 

[33年後の注釈]

1)       民謡全集だけではすまなかった。通販の価格は定価表示が高めに設定されているため、実勢価を考えるとそれほど安いものではない。質よりも量に弱いためにまだこの癖は続いている。エディット・ピアフ全集、バッハ全集、ショパン全集、モーツァルト全集、リヒャルト・シュトラウス全集、古今亭志ん生全集、西洋名画十選などなど。最近はベートーヴェン全集を買った。貧乏性なので全部聴くようにしている。これと較べると楽譜はもともと高価だけど、金に糸目をつけずに購入する。スカルラッティー全集八巻は数万円したけど、衝動買いした。こちらはCDと違って全部聴くためには、練習しなければならない。コープマンのCD全集も買ったので出費が増えた。
2)       ニンニクの芽と豚肉の炒めものは今でも好きなメニューだ。深澤先生と奥様、ご子息の真楠君、石田純子さん、渡辺恵波さんと、蓮華温泉から入って白馬登山した時が最初のご披露目。サラダ油はダブついているのにケチケチ使う。揚げ物に使うと捨てるのはもったいないので劣化しないうちに、天麩羅やカツが続く。独身時代はケーキも焼いたので、サラダ油を使うニンジンケーキをよく作った。
3)       ラ・メトリの「人間機械論」は多い時で四冊もっていて、学生にあげたりして今は二冊。旧約聖書の「創世記」の岩波文庫版も古本で出ていると必ず購入する。まあこれは「世界の創り方」を学べるので貴重な文献ですね。
4)       上原ゆかりさんは、図書委員だったときに話す機会があったが、さすがにマーブル・チョコレートの話はできなかった。もの静かで地味な感じのいい子だった。鉄腕アトムのシール集めは小学校の時がピークで、月刊少年の付録にあったシールと一緒にとってあったけど、引っ越しの時に消失した。残念。
5)       リーダーズ・ダイジェストは、読めばいいのに、と愛好家に叱られた。教会に爆弾が仕掛けられていて、集会の当日に爆破する事件があったが、牧師も信者もそれぞれが偶然に別の事情で集会を欠席したために被害者がいなかった、という偶然論では結構有名な話がこの雑誌にあったことを思い出したのは、全部処分してからであった。
6)       伊香保温泉は3回ほど訪れた。階段がやたらと多い印象があるから、傾斜地だったのだろう。ベルツの湯という草津温泉を世界に知らしめたお雇い外国人医師の施設があった。水沢うどんは、稲庭うどんと讃岐うどんとともに三大うどんにまつり上げられているが、たぶん言い出したのは水沢うどんだと思う。規模が違い過ぎる。でもこしがあって名物を名乗るだけのことはある。面白いのは、「本店」「本舗」を名乗る複数の店があってどこが由緒正しいのか分かりにくい点だ。大沢屋は古くからあると聴く。
7)       本文はスノータイヤ。これは時代を感じる。赴任当時はまだスパイクタイヤが全盛の時代でうるさくて音楽が聞けなくても絶大な制御力があった。その前からあったのがスノータイヤで、現在はスタッドレス。新潟はどれを履いても結局は滑るし、よくスリップしますね。冬季に一度、新津の農道で制御が聞かなくなり雪の田んぼに突っ込んだことがあった。トランクの雑誌を並べて自力で脱出した。卵がオマケだったのは、このときだけか。もしかすると農協のGSだったかもしれない。やはり農協の調剤薬局では、薬をうけとると卵を一ダースくれた。
8)       福袋は良かったことはないです。チョコボールの玩具の缶詰くらいにがっかりする。大人買いして損をした。マクドナルドのハッピーセットくらいで我慢しておくべきだ。
 

第15話 本や芝居、出会いの予感

 事前に何の情報もなく、それゆえ何ら判断する基準も無いにもかかわらず、その場で霊感や神託のごときものを受けたというだけの理由で本を買ったり、芝居を見たりすることが幾度かあった。今から八年ほど前になる(※1981年頃)だろうか、東京の私鉄沿線の小さな本屋に入るとただならぬ空気が漂っていた。何かいい本があるという予感。幼児向けの童話が並んでいる書棚の隣、歴史ものやノンフィクションの書物が窮屈に並ぶなか空色の箱に白抜きで「塔の思想」(著者は梅原猛ではなく、アレクサンダーという女性の碩学)という背文字が見えた。塔という語のもつ孤独で古ぼけた印象、時代を耐え抜いてきた思想という言葉の力強さ、この二つの結びつきがえも言われぬ魅力的な響きを形成しているではないか。値段を見ずに買い、角を曲がった所にある「ブレンド」という喫茶店に入ったなり読み始めた。中身は期待に違わなかった。セピア色の文字と写真の見事な取り合わせが読む者の眼を喜ばせてくれるし、第一、語り口が真摯であり、かつよどむことの無い名文に、いつのまにか虜にされてしまう。途中、二度も追加の珈琲を注文してそのまま読み切った。
 本を開いてみて、これだと思ったのもある。ポール・ニザンが書いた「アデン・アラビア」。書き出しがすごい、「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。これも、買った書店の付近で最後まで一気に読んだものの一つである。テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲「ガラスの動物園」は、わが国では例年のごとくどこかで上演されているが、演劇集団・円が公演したときは、松本留美さんがローラ役を演じると聞いて、これは見逃せないと思った。初演に中日(なかび)に、そして千秋楽まで合わせて三度も紀伊国屋劇場に通うほど、手放しで素晴らしいと思った唯一の経験であった。翌年、彼女に逢ったときに聞いたら本人も気に入っていて、再演を希望していたが、まだ実現していないのは残念だ。
 そういえば、反アパルトヘイトの黒人音楽劇「アシナマリ」が新潟にやってくるらしい。天寿園入口前のテントで十一月十六日と二十九日。東京で観たときの戦慄をまた味わえるかと思うと楽しみだ。後日NHKの劇術劇場で録画放映されたときは、字幕があって細部の意味が分かったし、アシナマリとはう「俺たちは金が無い」という意味であることが副題に謳われていたけれども、言葉の壁を超えてなお余りある旺盛な肉体表現と役者からじかに伝わってくる熱気のある芝居であることは、見に行く前から予感されていた。
 人が勧めてくれたことがきっかけとなって、名作に出会えたこともかなりある。同僚の山内志朗氏に推奨してもらった漫画「ぼのぼの」は哲学的見地に立ってみても読みごたえのある佳品で愛読しているし、友人から林光作曲のオペラ「セロ弾きのゴーシュ」をぜひ見ろと言われ、今月行く予定にしている。
 

[33年後の注釈]

1)「塔の思想」は余り誉めることのない故金森修さんも「これは良く書けている」と言っていた。尖塔アーチはゴシック建築になぜあるのかと言うと、神の住み賜う天国へ至らんとする意志の表れで、その証拠にイスラムの寺院にはまったく見られない。一読しただけではイスラム寺院が天上に伸びていない理由がよく分からなかった。それにバベルの伝説の再来ではないか、と思いつつ読んだ。文中の本屋は小田急線「千歳船橋」駅近くの「山下書店」。ここは子供時代からツケで買っていて、小遣いはない家だったが本は買い放題だった。
2)喫茶店ブレンドは今でもある。大学院時代はよく立ち寄った。BGMは大抵はビートルズ。濃いめの焙煎で当時は珍しかった。吉祥寺の「もか」を知る前はよく通った。ここから用賀のアパートまで十分ほど。
3)ポール・ニザンのコレクションは晶文社から出ていて、装丁が好きな出版社。「ガラスの動物園」は大学一年の時の英語テキストで、中野里皓史に習った。期末試験でこの戯曲全編への批評を問われて、夢中で答えを書いていたら、裏面に第二問があってそちらは白紙で出した。当時の赤点は50点以下だったから、第一問が満点でなければ落第だった。結果は70点で不思議に思って恐縮して先生のところに行ったら、ウィリアムズのところが良く書けていたからもっと点数をあげたかったけど、ごめんね、と言われた。帰りに駒場東大駅近くのZiZiという喫茶店で珈琲を御馳走になった。松本留美さんとは「間違いの喜劇」の後の役者さんとの交流会で話す機会を得た。口をとがらす仕種が可愛らしく、出演する芝居は欠かさず見ていた。後年、三谷幸喜の「王様のレストラン」にゲスト出演していた。
4)アシナマリは衝撃的だった。アパルトヘイトのことをどう思う。と観客一人ひとりに詰め寄るシーンがあって、英語で problematic みたいなことを誰かが答えたら、そんなんじゃだめた、みたいに手足をバタつかせて抗議したのには驚いた。
5)山内志朗氏は当時の遊び相手で、中世哲学の大家なのに飾るところなく、誘うとまず断ることのない貴重な存在だった。北海道から九州まですべの旅行につきあってくれた。現在は慶応大学教授。最近はラーメン哲学や未来哲学を語っている。でもどこか「ぼのぼの」に似ている。

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