新潟県某所

視界いっぱいに溢れる緑の中、普段より小さい歩幅でゆっくりと歩く。
木の根っこだらけの険しい山道を、1泊分の荷物を背負って歩いていると
すぐに息があがり、鼓動は速まり、全身から汗が吹き出す。

この1年、しっかり足腰を鍛えてきたつもりだったけど、やっぱり山は容赦ない。
しかしこの先に待っている極上の温泉と、痺れるほど冷たい清水で
キンキンに冷えたビールを目指して、オーバーヒートしそうな体を気力で支えて進む。

電波もない、電気もない、温泉宿。

100年以上家族で営んでいるその宿は、盛夏にはさほど人も多くないようで
15年以上この宿に通っている友人夫婦に誘われて去年初めて訪れた時は、宿のご主人とその息子さんを交え、ランプの灯のもと、お酒を飲みながら楽しく語らうことができた。
宿の歴史、山の話、息子さんが宿を継ごうと決心するまでの話。
中でも、ご主人がきっかけを作ったという息子さんの恋バナはとても盛り上がった。
その時の、息子の話に耳を傾ける嬉しそうなご主人の顔が忘れられない。
今年はその話の続きを聞こうねと、車で登山口に向かいながら、仲間内で楽しみにしていた。

山道を歩くこと3時間。
青々とした水が豪快な音を立てて流れる渓流の傍にたたずむ宿に到着した。

友人夫妻はご主人に挨拶をしに宿の中に入り、私たちは縁側に荷物を降ろして、しばし休憩。
渓谷の涼風が、火照った顔を撫でていく。
その冷たさを、肺にいっぱい吸い込む。

今年は建て替えたばかりの別館で泊まることになったので、指定の部屋に上がり渓流の音を聞きながらしばし休んでいると、しばらくして友人夫妻が部屋に戻ってきた。

泣いていた。
宿の息子さんが亡くなったとのことだった。

厨房とつながっている食事をする広間に行くと、建て替え中の別館をバックに撮った息子さんの写真が飾ってあった。
とてもいい笑顔だった。

去年同様ランプの灯の下で、ご主人から話を聞いた。

無線で連絡が取れず、急いで来てみると温泉で倒れていたということ。
防災ヘリで運んだものの、助からなかったこと。
それが2代目のおじいちゃんの四十九日を終えた次の日だったこと。
孫をとても可愛がっていたので、連れて行ってしまったのではないかということ。
亡くなったのは2か月前で、私たちが訪れたのがちょうど月命日だということ。
息子さんと恋人のお付き合いはとても順調で、来年の春に結婚する予定だったこと。
別館は結婚後の息子夫婦に任せようと思っていたこと。
息子を、跡継ぎを失い、途方に暮れていること。

恋バナのその後を、こんな形で知ることになろうとは。

その日は、みんなで努めて明るく彼のことをたくさん話した。
少しでもご主人の寂しさが紛れればいいなと願いながら。
そして素晴らしいお風呂と空気と夜空を堪能し、渓流の音を子守唄代わりに眠り、次の日筋肉痛で悲鳴を上げる体を引きずりながらも全員無事下山した。

実は私自身、数日後に入籍を控えていて、宿でそれを公表するつもりだった。
夫になる人は宿の息子さんと漢字は違うが下の名前が同じで、お祝いムード倍増しになることを目論んでいたのだが、その夢は叶わなかった。

予定通り私たちは入籍を済ませた。
若くして亡くなった彼の分まで、幸せになろう。
言葉にすると陳腐かもしれないが、そう思わざるを得ない、平成最後の夏の出来事だった。

来年のこの時期も夫婦で一緒に、写真の中でほほ笑む彼に会いに行きたい。

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