街に出てアートと出会う ~「感度」をあげる?~_アートエデュテイメント#12
アートエデュテイメントという視点で、主にビジネスを熱心に進められている方々を読者と想定してお話してきています。
〈パブリックアート〉
すっかり春めいてきました。アート作品と出会うために、街をそぞろ歩きするにも、気持ちよい時期ですね。
「…あれ? 美術鑑賞って、美術館やギャラリーでするもではないの?」
なんて方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。パブリックアートというものがありますので。
例えば都心でしたら、丸の内ストリートギャラリー。
東京駅からほど近い仲通りで、草間彌生や名和晃平、ヘンリ―・ムーアなどなど、美術ファンなら垂涎のアーティストたち19もの作品を、365日24時間、いつでも鑑賞できます。
勿論、無料で(笑)。
箱根の彫刻の森美術館からわざわざ丸の内まで「出張」できていただいているなんて、ありがたいことですね
〈『見てる』と『見えてる』〉
しかし、このありがたいパブリックアート。じっくり鑑賞している人って、意外に少ないんですよね。通勤や買い物で丸の内に行ったことがある方でも、「そんな作品あったけ?」というのが普通の反応かと。じっくり鑑賞どころか、存在に気づいてもいない人が圧倒的に多そう。視界には間違いなく入っている(=見てる)はずですが、全く印象に残らないまま、作品の前を素通りって感じ。
これ、別に丸の内の話だけではないのです。数年前の六本木でも同じような光景に出会いました。壁面の作品に足を止める人は勿論、視線を移す人もほぼ皆無の状態…。
どこにあるパブリックアート作品も、鑑賞者不在の寂しい想いをしているのが日常なのかなと。まぁ、よく言えば、背景に溶け込んでいるということなのかもしれませんが、忙しい今のご時世、アートファンでもない限り、街中でゆっくりとアートを愛でる時間は。ないのかもしれません。
と、こ、ろ、が、これが桜の花が咲いていると全く違った光景が展開されます。同じく六本木の風景ですが、多くの方が足を止めて、スマホで写真を撮っています。たっぷり「鑑賞」している(見えてる)わけですね。
うーむ、この違いはどこから来るのでしょう?。
〈「体験」と「感度」の関係〉
唐突ですが、ここで質問です。
「桜に関する思い出にはどんなものがありますか?」
私でしたら、前の日の夜桜見物で飲み過ぎて、翌日の朝に満開の桜の下で目を覚ました…。なんて学生時代のおバカな体験が思い出されます。
「卒業式の日の桜が綺麗だった」
「披露宴で桜坂を熱唱しちゃった」
何かしら桜にまつわる思い出(体験)を語れるのではないでしょうか? では質問が「アート作品に関する思い出」となったらいかがですか? 答えに困ってしまう方も多いのではないでしょうか。そう、これが、パブリックアートと桜に対する反応の違いの正体ではないかと。
私たちは、自分の過去の「体験」に強く影響を受けて行動しています。(ここでいう「体験」には「知識」も含みます)
赤信号で止まるという行動も、そのルールを知っているからだし、道行く人の中で、見知った顔に気づくのも、過去の付き合いがあるからです。多くの日本人が桜に反応するのは、それだけの「体験」が桜に対してあるからで、パブリックアートに反応しないのはそれだけの「体験」を積んでいないからです。馴染みのあるものに対して、人は「感度」が上がります。逆に言えば、「感度」を上げたければ、上げたいものに対して、ますは単純に触れる機会(≒体験)を増やせばよいということになります。
VUCAの時代。先が見えないビジネスシーンにお嘆きの方。実は、「見てる」のに「見えてない」だけかもしれませんよ。ここの「感度」を上げるエクササイズとして、まずは街に出てパブリックアートと触れ合う機会を増やしませんか? 見てないものが見えてくる体験を積んで、「見えてる」世界を広げる感じをつかみましょう。まぁ、どれだけ機会を増やせばよいのかは、なかなか「見えない」かもしれませんが…。
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