あの日みたポケモンの名前を僕たちはまだ知らない

100円玉に100円の価値はあるだろうか。

25円くらいのコストで作られた銅とニッケルの合金。キラキラ光るあのコインに100円の価値があると思えるのは、もちろん国が信用を担保しているからで、西暦2100年にも同じようにあのピカピカした小さな円盤でパンが買えるとは限らない。

小学生のころ、もらったおこづかいを握りしめて、ポケモンパンをスーパーまで買いに行った。菓子パンそのものも美味しかったけど、欲しかったのはもちろんデコキャラシール。貼ってはがせるポケモンのシールだ。

スーパーのレジの人は、僕のことを知ってる人だろうが知らない人だろうか、僕が100円玉を持ってさえいればポケモンパンを売ってくれた。僕が子どもだからと追い返すことなく。

貨幣がない世界では、知らない人と物を交換するのはとても難しいことだっただろう。僕らが見知らぬ人と気軽に物をやり取りできているのは、物の価値を貨幣の単位で表す取り決めをして、かつその貨幣の価値を皆が信じているからだ。

僕たちは「じゃあこのパンは100円ってことにしましょうね」という盛大なごっこ遊びを、毎日意識せずに繰り広げている。

子どものころ、ポケモンパンを買った後は公園に行って、みんなでゲームボーイで遊んだり、通信ケーブルをつないで対戦したりした。ゲームに飽きたりゲームを持ってこなかった奴がいれば、公園を走り回って野生のポケモンを探した。

草をかき分ければ茂みの影に草ポケモンの姿が見えたし、公園の小川には水ポケモンが潜んでいた。見えないポケモンを操ってポケモンバトルもした。「いけ!ピカチュウ君に決めた!」

あの公園にはたしかにポケモンがいたし、僕たちにはそれが見えていたように思う。それはそこにいたメンバー全員が共有した、想像上の拡張現実だった。

***

あの日、ポケモンパンを買うために握りしめていた100円玉を、今では少しぞんざいに扱うようになってしまった。今日も仕事帰りに100円のパンを買った。もし貨幣がない世界だったら、この店員さんは僕にパンをくれただろうか。見ず知らずの人と信用を共有できただろうか。

ポケモンGOをやりながら帰り道を歩く。深夜の渋谷はいつもどおり人でごった返していたけど、いつもと違うのはみんなポケモンGOをやっていること。

女の人が叫んだ。「あ!ピカチュウおる!!」。僕もスマホをかかげてモンスターボールを投げる。ピカチュウの入ったボールはフラフラと揺れている。息が詰まる。

「うおー!」と叫んだのは僕の後ろにいた酔っぱらいのおじさん集団だった。「ピカチュウゲット!」。僕も自分のスマホを見る。集中していなかったからか、ピカチュウはいなくなってしまっていた。周りからも何人か落胆の声が漏れた。でも僕は笑ってしまった。知らない人と、いもしないポケモンに逃げられたという落胆を共有することができる。捕まえたときは、捕まえた喜びを共有することができる。

小学生のころ、公園でポケモンごっこをしていたとき、ポケモンが確かに見えていたのは仲良しの友達たちだけだった。ベンチに座っていたおじいさんも、犬の散歩のおばさんも、中学帰りのお兄さんお姉さんにも、僕らのポケモンは見えなかった。

それが今、知らない人と見えないものを共有できるようになった。「ポケモンがいるということにしましょうね」というごっこ遊びが、見知らぬ人とも共有可能になったのだ。

100円玉さえあれば、子どもの僕でもポケモンパンが買える。スマホさえあれば、大人の僕でもポケモンが見える。

信用を仮想して交換価値を共有できるようになった貨幣の仕組みと同じように、この時代に生きる僕らは異世界を仮想してポケモンを共有するようになったのだ。

数日後、20年ぶりに公園でポケモンバトルをして、僕はついこうつぶやいていた。「いけ、ピカチュウ君に決めた!」

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