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平成大不況以降の出版取次会社 Playback中堅社員時代 元気な大阪屋から退職までの日々 前編

1997年から平成大不況の時代に入った。
戦後最悪の大不況時代で大きな曲がり角を迎えた日本。
出版業界も同時期に右肩上がりの時代を終え、街の書店の廃業が相次いだ。いわゆる出版不況が始まった年だ。

時を同じくして到来したIT時代。その波を感じてボクは1998年6月に初めてPCを買い揃えた。プライベートでインターネットを始めること、そしてDTP(PC上でのデザイン・編集作業。DeskTop Publishingの略)の勉強をするのが目的だった。

KBCでは学参辞典担当でブイブイいわしていた。部署では若手の中の年長者ということで、後輩社員やアルバイトを指揮しながら大車輪のように動いていた。社会人になって一番調子に乗っていた時期だ。
しかしこの頃になると会社での出世願望も消え失せはじめていた。
以前のブログでも書いたが、元々は編集的な仕事がしたかった。ミニコミ・ヴィレの活動に邁進していたが、これでは食い扶持にならないということに気づき、DTPをマスターすることで手に職を持ちたかったのである。

1998年の終わり頃に流通業務課という部署に異動した。
同じKBC内だが、既刊本の入庫とピッキング主体の倉庫と違い、ジュンク堂や他の大型書店チェーン店の業務に特化した部署だ。
大手書店からのFAX注文、書店から直接受けたスリップ(書籍に挟んである短冊)を片手にKBC内の倉庫を駆け回りながらピッキング。そしてPC端末とハンドスキャナーを使って伝票を発行、箱詰めして発送ラインまで運ぶというもの。
同期社員も数名おり、仲良しグループだった。若手営業マンのうち、使い物にならないメンバーが配属されたとも言われていた。でも和気あいあいとしてとにかく居心地は良かった。

出版業界、安定神話崩壊の瞬間

この時期に専務から直々の談話があった。
「出版業界も初めて2年連続売上減少し、安定神話は崩壊しました。右肩上がりの時代は終わりました。これからはこういう状況がずっと続くでしょう。なんとかしないといけません」
出版不況を実感した瞬間だった。

とはいえ、メイン取引先のジュンク堂が東京・池袋店、名古屋店、広島店など全国展開のラッシュを続けていた。極めつけは1999年3月開業の大阪店だ。アバンザ堂島に全国最大規模の1500坪の売場面積を誇るものだった。
加えて阪急ブックファーストも全国へ。大阪屋も街の書店や地域チェーンより、大手書店とのメイン取引に舵を切ったのだ。
この頃、すなわち1998年秋頃から真剣に会社を辞めようと思うようになっていた。共にミニコミ・ヴィレを活動している友人と起業を考えはじめたのだ。彼は姫路市でコピー業を営んでおり、新たに共同経営しようという試みだった。そのためにはまずはDTPなどを習得してどこか派遣社員などで修行しないといけない。
色々調べ始めたが、働き口はほとんどなかった。あったとしても「実務経験1年以上、40歳まで」。年齢制限には引っかからなくても実務経験が問題だった。
‥‥これじゃ、修行どころじゃないやん。辞めようがないやん!
新卒入社して10年近く経つのに、蓄えはそんなにない。
独立起業すれば無駄使いもできなくなる。車も手放し、あっという間に蓄えは無くなるだろう。
貧乏はしたくない。婚活すら考えることすらできなくなるだろう(笑)。

転職先として経験を活かす業種といえば、まず書店員。斜陽化が加速しているので、将来性は見込めないだろう。次に出版社の営業マン。東京がメインなので、出版不況のあおりで関西支社も徐々に閉じつつあった。元大阪屋の肩書があるとしても採用は限定的なものになるだろう。あとはどこかの物流会社かヤマト運輸などの配送会社。30歳過ぎだが先々年齢的な衰えを考えるとやりたくないし、ガラッパチ連中に囲まれて仕事をするのはうんざりだ。
最後は東京へ行って出版社の編集職に就くこと。これは博打だ。なぜなら親戚も友人も全くいない場所へ真っ白な状態で行けるのか? おそらく一年で関西に戻ってくるだろう。きっと辞めたことを後悔することになると思った。
この葛藤は2001年頃まで続いた。背中を押す人も皆無で、決断に至らずじまいだった。

元気な大阪屋と呼ばれ、平成大不況下安定企業の評価を得る

1999年、2000年の前半まではこの会社もどうなるか分からない、という雰囲気が静かに続いていた。
2000年秋には、以前から噂されていたAmazonとの取引を開始、専用倉庫を本格稼働させた。
同じ頃、業界大手の一翼・日本出版販売(日販)が、経営難に陥っていた。
それらを尻目に大阪屋はしばらくして「元気な大阪屋」という安定企業の評価を得るようになっていった。

基本給は高くなかったが、こんなご時世にも関わらずボーナスも半期で必ず50万円以上貰っていた。残業手当もちゃんと頂いていた。
‥‥元気な大阪屋を退職するのは冒険過ぎるではないのか?
その思いのほうが勝っていた。転職や起業に関する人脈や情報が全く掴むことができない。かと言ってこの会社でのし上がってもしょうがない。
というのは、バブル入社の大学時代の友人たちは平成大不況でリストラされていったり、転職を余儀なくされていたのを目の当たりにしたからだ。
1990年代初頭の頃とは立場が逆転していた。世の中はこんなもの、としみじみ感じていた。だが周りが沈んでいっただけで、自分が頑張って這い上がった感覚はない。今度は10年後に友人たちと同じ目に遭うだろう、そう予測した。だから出世を意識しても仕方がない、と考えたわけだ。

2001年夏頃には全国展開が落ち着いたジュンク堂各店舗が軌道に乗りだし、部署も忙しくなりはじめた。
毎朝1時間以上早出を始め、残業は毎日2時間続く日々。30代も半ばに入る手前で体力の衰えを感じるようになっていた。

「事故ゼロ、業務改善、周囲と連携しながら効率よく働く」。会社も以前の牧歌的な雰囲気が消えつつあった。
マナー向上の意識も浸透しはじめ、まともな会社に変貌していった。
とはいうものの、今度は肉体的にも精神的にもストレスが重くのしかかってくる毎日。
流通業務課では10年半も在籍することになったが、その3年目からは慢性疲労が続く。2004年夏には左肘関節炎、2007年冬には股関節を痛め、苦痛に苛まれる年月を過ごしたのだ。
‥‥とにかくずっとしんどい!
プライベートでは疲労のため頭もまともに回転しなくなり、DTPの勉強どころではなくなった。
人事異動定例発表の度に辞めたいと思うようになっていたが、退職後のビジョンを明確に描いておらず、結局元の鞘に収まる日々だった。

リーマンショックと「明倫堂ショック」

表面的には真面目に働きながらも意識のメインはプライベート。退職後の未来をわずかながらも妄想する日々だった。
ミニコミ・ヴィレの活動はとりあえず2001年頃に一旦停止、以後は韓国、中国・台湾などにハマっていった。上海出身の若者とアジアビジネス研究会というサークルをしたり、出版活動に囚われない年月を過ごしていった。
‥‥冒険して退職しても道は開かれない。チャンスが来たときに動けばいい。
いつしかそう思うようになっていた。
2005〜2006年頃は世の中はITの進化が加速していた。SNSとブログだ。これらは人脈作りと情報収集を爆発的に拡げることになり、結果的にボクの背中を押していたのは間違いない。

とりあえず会社に残ったほうが賢明だ。給料を貰いながら休暇で海外へ行けるし、新車も買い換えれる。何しろ勤続年数が多いほうが蓄えも貯まり、退職金も多くなる。40歳以降にリストラされれば蓄えを背に、自ら一番に手を挙げればいい。
そう考えると30代半ば以降のボクは、仮面不良社員だったと思う。

2008年9月、元気な大阪屋が脆くも崩れ始めた。九州・中国地方を拠点とする大手チェーン店・明倫堂書店の経営破綻である。トーハンから取引先を奪って意気揚々していたのは束の間、半年足らずでババをつかまされたという始末だった。奇しくもリーマンショックと同じ時期だ。噂によれば50億の損害を出したらしい。
2008年12月のボーナスがやって来た。入社以来半分以下の金額だ。もちろん初めての経験だ。
「ついにウチもリストラの時代が来そうだな」と直属の係長と言葉を交わした。
おそらく5、6年後にこの会社も大リストラが行われる、と将来を確信した。


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