バブル崩壊期と出版取次会社 Playback若手取次社員時代 その2 営業から物流センターへ

いつまで言っているのだろう『出版不況』。
出版不況の原因は?
まあネットの時代に突入し「雑誌が売れなくなったこと」と「コミックの市場が縮小していったこと」が最大の原因ではあるが。
要は携帯電話やITなど、90年代の頃から時代の流れにほどんど向き合っていない。
いつまで昭和的価値観を引きずっているのでしょうか?
引き続き腹の底に残っている会社員時代を振り返り、過去として断捨離していきたいと思います。

開発企画部から少し希望していた営業部へ異動

入社時の1991年はバブル崩壊が始まった年だった(バブル期という言葉はこの年に生まれた。それまでは未曾有の好景気とか言われていた)。
業界の動向といえば、郊外型書店の新規出店が一気に減速していった時期。しかながら出版業界は右肩上がりを続け、「不況に強い安定業種」と呼ばれていた。
まあそれも1996年までの話ですが。

3年目を迎え、開発企画部から営業部へ異動となった。
一度やってみたかった部署だった。
以前開発企画部で上司だったT課長の引っ張りらしい。
営業第二部というところ。担当書店エリアは奈良県・和歌山県・東海北陸・山陰地方・岡山など。ボクは和歌山県を受け持った。
早速、主任や係長の人たちに尋ねた。
「営業って何するのですか? 担当の書店訪問してどんなやり取りするのですか。何を商談するのですか?」
営業マンとはいえ、この業界に飛び込み営業なんてものはない。
取引先である書店が顧客なのだ。
「まあ、色々商談するんや。ルートセールスや」
‥‥なんじゃそれ。答えになってない!
ルートセールスとはリピートが多い得意先へ向けて新商品などを提案していくこと。ちょっと意味合いが違う。
全く腑に落ちなかった。
始業し、朝礼が終わるやいなや、書店からの電話の嵐の毎日。
「事故伝票切ってほしい」「荷物が割れて来た(届くはずの商品の荷物が足りないこと)。追跡してほしい」「在庫確認してほしい」「客注(購読者からの取寄注文)で送ってほしい」「書誌検索してほしい」などなど。
業界の基本である物流センターすらほとんど経験していない新卒三年目。とにかくチンプンカンプン。しかもジャンジャン鳴り続く電話は朝9時から17時までひっきりなし。一日100本は受話器を取っていたであろう。
そんな中で仕事の流れや処理方法を教わってもまともに集中できないし、教えるほうも大変だ。何もかもがハチャメチャだった。
マニュアルなど存在せず、もちろん営業研修なんて存在しない。
すべてがぶっつけ本番。

‥‥これってホンマモンの営業なんだろうか? 
ずっと抱いてきた疑問だった。
外回り付コールセンター業務の形態ではないのか?
あとで判ったことだが、取次会社の営業部の形態は『リテール・サポート(小売支援)』らしい。「よろず請負なんでも屋」「書店さんのパシリ」など揶揄されてきたが、供給契約している書店に対して窓口であり、さまざまな要望に対処する大事な業務なのだ。

前回の書き込みでも述べたが、会社全体が派閥抗争の縮図に気づいたのがこの頃だった。
部署の人たちと飲みに行くと、人間関係の話ばかり。特に上司であるT課長の悪口がいつものハイライトだった。とにかく悪口と愚痴のオンパレードだった。
‥‥多少の愚痴はいいけど業界の動向や研究の話はないのかい!
派閥意識いっぱいの人間関係には本当に擦り減らされるばかりだった。

以前の記事もチラッと書いたが、仕事以外の話だとギャンブル一色!
「昨日はデジパチで1万負けたわ。週末は馬券買わなあかんわ〜」
とにかく競馬・パチンコ・麻雀が社内の常識。当時の会社全体の社風でもあった。
‥‥出版業界の会社なのに、なんで共通の話題がギャンブルやねん。

係長は何かあると「バカタレ、ボケ!」しか言わないし、業務の処理に関してはほとんど説明をしないし、挙げ句の果てには「あちこちで『この会社変えなあかん』って言ってるらしいな。仕事もできひん若造のくせに」という始末。なにかと僻み根性丸出しの人だった。
昼の休憩時間に日経新聞を読んでいると、先輩女性社員に「頭でっかちにならんでも。こんな会社にいてそんな新聞読んでも仕方ないやん」と言われたこともあった。
‥‥こんなネガティブでレベルの低い会社に染まりたくない、と思うようになっていった。
他部署ではベテラン社員同士が「ドアホウが! ぶっ殺すぞ、ごラア!」とデカイ声で口論している。
現代の感覚ならパワハラ一色だ。まあドヤしたりするのが当時の社会の通常だったというしかない。
‥‥とにかくこの会社には教育システムは皆無。接客マナー・ホスピタリティはゼロ。まあ、当時の中堅・中小零細企業ってこんなものだったのかも。
これが昭和的価値観の企業だったのだろう。

営業部勤務も一年数ヶ月が過ぎ、ある程度仕事の流れがつかめてきた。
そこでひとつ思いついた。
「営業マニュアルを作ってやろう」と。
環境が悪いのなら環境を作ればいいだけ。水面下で営業部のマニュアル作りに着手しはじめた。

営業部から少し失意の倉庫・物流センター異動。

営業部に配属されて一年数ヶ月経ったある日、人事異動の発表があった。
その日は和歌山の書店の定例訪問日であり、異動がないことを確認してから外出した。
翌日、雑誌担当係長から「豊田君は流通二課(倉庫)に異動らしいな」と告げられた。
「え?」人事異動辞令の貼り出しを見ると、手書きでボクの名前が追加されていた。
ちょっと複雑だった。
営業で頑張りたい反面もうやってられない、という気持ちもあったが、ちょっとショックだった。だがすぐに気持ちを切り替えることができた。
当時物流センターは3K職場と呼ばれ蔑まれる風潮にあった。大学時代の友人からは「大卒の人間が何考えてんねん」と言われる始末。「関係ないやん、この業界は物流センターが基本やから」と言い返してたりした。

倉庫では学参辞典係に回され、辞典担当だった。
正直、気楽だった。入庫(本を棚詰めすること)・出庫(ピッキングのこと)作業もアバウトでマイペース。勤務時間もきっちりしており、プライベートに時間を割くことができた。社内の仲良したちと組んでいたバンドも大いに楽しめた。

しかし、ここで会社の全体像が完全に見えてしまった。
40代半ばを過ぎたオッサン同士がどつき合いの喧嘩をしている。こういう光景を幾度か目にした。
年下のやんちゃ系な社員たちが「アイツ、鬱陶しいのー!」と声を張り上げている。
ガラッパチの課長たちが頻繁に若い女子社員の尻を触ったり、「お○○い揉んだろか!」卑猥な言葉を浴びせている。
下品な課長がアルバイトの女性に「今からワシと遊びにいかへんか?」と電話してたとか。
10数歳年上でリーゼントのヤンキー先輩はいつも「アイツらどつき回せ!」「アイツら死んだらええのに!」とがなり立てていた。

‥‥ここは中学校か? あまりにも下品で低レベル過ぎる。無法者だらけの会社だ。

その冬1月に阪神大震災に遭い、その直後に春の学参時期を迎えた。
中学・高校向け辞典の大口注文(業界では『採用注文』という)があり、春先には書店で参考書がずらりと並ぶ時期。2月上旬から5月のGW明けまで続く繁忙期だ。

それらが一息ついた頃、普段から「こんな会社にいて社会人として成長できるのか?」とカッカするようになっていた。
出勤前、母と些細な口喧嘩を起こした。家の壁を利き手の左手でどついてしまった。手の甲の骨折だ。整形外科でギプスをはめる羽目になった。
一ヶ月以上経ってギプスを取ると、手の甲が膨れ上がるように接合されていた。結局、母がいつも通っている近畿中央病院というところで手の甲を手術することになった。1995年夏の話だ。
部署の人には迷惑かけてしまったが、自分の時間が取ることができ、将来のプランを模索できるようになった。
この時期に立ち上げたのが、今のボクの仕事の原型であるミニコミ「ヴィレ」なのだ。

新物流センターが稼動、勤務地が東大阪に。会社も変革の予感

そうこうしているうちに冬場を迎え、会社も転機を迎えた。
東大阪市徳庵駅近くに物流センターが立ち上がった。
1995年12月から稼働をはじめたその名は「関西ブックシティ(KBC)」。
ボクは本社でしばらく倉庫に残っている本をKBCに送り込む作業をしていた。
それらが落ち着いた途端にKBCで勤務、学参時期に入った。KBC3Fの広々したスペースに、ズラリと並べられた辞典が詰まった段ボール箱たちを出庫していくのだ。
新しくキレイな場所で広々とした作業現場。仕事はしやすかった。
大阪市西区新町という都心の本社には営業・総務・物流センターが混在し、雑多で狭いスペースで業務をしていたが、ここは書棚も広大。作業スペースも十分。在庫管理・倉庫の商品発注は担当者がPC上で行うようになった。ロジスティックスという物流システムの概念が会社でも確立しはじめた。
学参時期も後半に入る4月には、学参辞典全体のリーダーを担当するようになった。

会社全体を覆う雰囲気もこの96年〜97年が転換点だったと思う。
まず派閥抗争。営業系の組合が解散状態に陥り、一段落しつつあった。
団塊世代が部長・役員になり、規律正しい会社としてわずかに変わりつつあった。
1994〜95年頃から就職難・氷河期世代が入社、社会人としてのマナーをわきまえた品のある若手社員で占めるようになっていった。
後に社長になる総務人事部次長が社員教育(特に若手社員)に力を入れ始め、まともな社員が育成されるようになった。

ボクもKBCの倉庫でハツラツとして仕事に打ち込み、プライベートではミニコミ・ヴィレの活動に邁進する日々だった。
会社員時代ではこの1996〜98年頃が公私ともに最も充実した時期だったのかも。年齢も20歳代後半〜30歳過ぎという、心と体のバランスがベストに保てた時期というのもあったのだろう。

出版業界もコンビニ業界のように、POSレジで書店〜取次〜出版社のラインで徐々に繋がり、物流センターも情報システムで乗っかる時代に入っていった。
だが世間ではバブル崩壊で抱えた不良債権を賄えなくなり、平成大不況という暗黒の扉を開ける時期に来ていた。
同時期にインターネットが勃興し、Windows95で一世を風靡。誰もがPCを持つIT時代の幕開けとなる。
大量生産・大量販売が通用しない時代へ。
多大な資本を投入し確立したロジスティックス。この仕組は皮肉にも徐々に衰退していくことになるのである。

若手時代を振り返って

最近の出版業界は元気がなくネガティブだ、とよく言われる。
元々業界人の多くがネガティブ思考といえる。
ボクの場合、バブル期ゆえ周囲のほとんどの友人は大手企業に勤めており、すべての面において大阪屋より優れている実態を聞かされてきた。
当時のボクはそれらを対比していたのだ。
大手他業種に目もくれず、出版人としての誇りを身に付けたかったが、現実とのあまりの落差にもがいていたのだ。ボクもネガティブな色に染まらざるを得なかった。
あとこの業界は「古い業界体質」「クローズドで他の業種と関わらない」「物の見方・考え方が極端に偏り、柔軟さに欠けた人が多い」ように思える。
関わる業種が出版社の営業・書店など限定的だ。その上内勤ならさらに閉鎖的になるのは必定だ。
‥‥振り返ると当時も業界全体がネガティブだったのがよく分かる。
本好きな人は基本オタク気質。
作家や音楽・映画などのアーチストは、否定的な感情を広げて作品に落とし込むがことが多い。だから人の闇に潜む感性を大事にする。それらに響く読者・リスナーもネガティブだったりする。

あと高度成長期〜バブル期までの右肩上がりの時代から、平成大不況という右肩下がりの時代の節目に自身は30歳前後だった。これはある意味幸運だったかもしれない。
これは戦後日本の変わり目を体感した世代の一人として、いい経験をさせてもらったのかも。なぜなら世の中の流れを冷静に見つめることができるからだ。大いに感謝すべきである。

次回の投稿は2000年あたりから退職までの10年ちょっとの日々を綴っていきたい。

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