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女と男ってどうして分かれてるんだろう:雑談編①

こんにちは。パクチーです。

ここのところわたしは、自分の中の「女性性」と「男性性」を、どう扱うか、ということがテーマだった。自分が負いたくない「女性性」の部分。自分が女性であることを愛しながら、女性として生きるとはどういうことなのか。見たくない部分を受け入れる。見ようとしなかった部分を愛でる。既にわたしが持ってるものを、自分の中の「女性性」と、「女性性」と呼ばれない部分、「男性性」を、融合する。

このシリーズを4回に渡って書いて、結論。

女と男とは、機能の為に分けられている。これは変えられない。でも「女性性」と「男性性」とは、アプリである。個々が搭載できるアプリの種類は、適性はあれど、性差はそれほどない。自分の意思で、自分に適うとするものを、時々で選択したり、消去したりすればいい。

だけど…生きてると避けられない、負いたくない「役割」がある。負わざるを得ない「役割」がある。選択可能と言ったって、それは理想論。現実は、社会は、自由を許していない。

…と、もしも、自分が起動させているアプリのうち、それが自分の外側にある力によって強制されているように感じるものが、あるならば。

それは、この世が、「覚醒した意識」が見ている「バーチャル」で、「実態は虚無である」という体感まで行けると、「外せるよ〜」、というのが、内容であった。

女性の、「女性性」のアプリの積み方について、
本来は、
究極は、
結局は、
実は、
完全に、「自由」で、


最近見たのんさんの動画がある。

この、のんさんの発している「女性性」。のんさんがインストールしている「女性性」のアプリの並び。「すごく興味深いな!」と思ってちょっと感動したんです。

わたし自身、自分の中の埋もれていた「女性性」を、もう少し見えるようにして愛でよう。そういう試みを始めて、2年経つが。そこで。

一番抵抗があったのが、服装だった。

とにかく、バストライン、ウエストのくびれ、が、出るのが嫌。「怖い!」という感じに近い。そして、この対談ののんさんの服装を見て、明らかに、何か、「知ってる…」の安心感。安心する…。この安心、「不思議だなあ」「なんだろうなあ」、と思う。この心地よさとは…?

しかし、最近は努力して、着てみたんですよ。本当は。わたしは。自分の体のラインが。好きなのです。「何か怖いことが起こるかもしれない…」。でも何も怖いことは起こらなかった。後は慣れかなあと思う。

対談で話題になっている、のんさんの楽曲【荒野に立つ】。わたしは存じ上げなかったのですが。というか彼女が現在、こんな風に音楽に力を入れているって、全然知らなくて。

このMVも、結構彼女の持っている「女性性」について、すごく、「興味深い!」と思ってしまう。確かに彼女、結構デザイン性の高いもの、アート性の高いものを着る印象があったけど、そういう衣装の中に彼女自身が見ている、自分の「女性性」の、何と言うんだろう…質の高さ?

メイキングで、このMVの監督がのんさん自身であることが分かるのですが、

アクトして、自分で「カット」を言うのがカッコいいな。

いや。カッコいいわ。

というか…………。

ゲロ泣きしたんですわ。わたし、このMV………。

ゲロ泣きしたのは歌詞ですわ。歌詞、表示させなくてもすごくよく聞き取れます。さすが…。なんか、この、まるで可愛らしいだけに見える彼女の…「女性性」が、一体、どういうものにさらされて、今、この状態になっているのか、という…。それを歌詞が、ぐいっと引っ張って想像させられてしまう、というような…。

彼女が今セレクトしているアプリのラインナップは、彼女が現在導き出している、「一つの答え」みたいになっている。「彼女の過去」がそうさせた。彼女の過去が、彼女がもともと持っていたものを、このように仕向けた。

火山のてっぺんにあるダイヤモンドみたいな。

これ……彼女、今、かなり孤高な位置にいるんではないか。と、思ってしまう。

ひとつ、彼女の選んでいる衣装の基準に、女性としての美しさ、「女性性」を引き立たせるかどうか、「エロい」とかの眼点じゃなくて、「服 として きれい」という基準があるのだな、という気がした。これがわたしが一番ほっとする部分なのかもしれない!分かる!すごく分かる!

一方。果てしなく延々と人類が負っている、「命に対する虚無感」。主に女性が引き受けていて、男性が味わっていないこの「虚無」を、「よく知っている男性はいい男だッ…」ということを、シリーズの中でわたしは書いた。

んで。この、【Workin' Hard】を歌う、藤井風さんは、

ああ、そうだね…確かに歌詞は「風くん自身」よりも視点が高い…、んだが、それを歌う風くんは、

…むっちゃ「虚無」にいる…。

わたしは、この曲は、このMVが、むっちゃ「虚無」を、びしびしのびんびんに発してるように、感じる。

そして相変わらず、すげー泣いた。

一時期、彼の精神的なメンター(がいる?らしい)を、問題視したファンがいたらしい。改善を求める活動を呼びかける声明文を読んだ。その文章は、まるで、正しい、ように、見えた。正しく行われるべき正義が、書いてあるように、とっても、よく、見えた。

わたしは、MVの中にいる風くんが、まるで、そういう活動を一生懸命、真剣に、行う、かつてのファンであった彼女達に呼びかけている風にも感じられるような気がして、

「Workin' Hard」
「あなたは頑張っている」
「わしかて負けんよーに」

ああ…必要な変化を起こすのに、向けるべきベクトルは、逆向きなのだよ…。変化は自分に与えるのだ…。と、いうことに、若い時は気が付けない。わたしは気付けなかった。自分の人生の時間を使って、エネルギーを使って、他人を変えようと頑張る。一生懸命頑張る。善だと信じて、誠心誠意、それは、出来ることなら手伝ってあげたいくらいで。

彼は分かっている。彼女達が彼女達の問題を外側に反映させて解決しようとしていることに対して、風くんが出来ることは何もない。風くんは、彼女達の問題と自分自身の問題を分離して考えている。そして、風くんは風くん自身の問題を、懸命に解いているし、それしか今生彼に出来ることがないのも分かっている。「ひそかに何かと務めるわ」。

…な〜んて。わたしは彼のことを全然知らないんだけどな。

「虚無」を知る男と言えば、パクチー的第一位RMくん。

このWeverse Liveの中で、RMくんがSNSであるアーティストの楽曲を共有して、それについて一部のARMYが受け取っている意図は本意じゃない、というようなことを話している。

わたしはこの顛末を、いつもながらまるで知らなくて、ちゃらっと検索して見てみたんだけど、

おお…………………。

そうか………………。

彼が今いるステージ、彼が今持っている世界は、「神が許さない」と、人が決めた・・・・・人、が、ターゲットになっているのだな…。

信仰の問題の難しさは、信仰を持っている人の意識が、「宇宙の真理を追求する為に、全ての現行を疑ってみる層」と、「思考停止している方が望まれる層」と、多重構造で存在しているからだ。と、いうのがわたしの個人的体感だ。

人間誰しも、自分より大きな存在に打ちのめされて、自然とこうべを垂れることがある。敬虔な気持ちになることがある。「神にひざまづけ」と、人に指示する主体は、「神」か。それとも人か。

わたしは、「女と男ってどうして分かれてるの」シリーズの最後で、「虚無」について書いた。「虚無」を理解することが、真のクリエイター(創造者)への道だったのね。クリエイター。この、「現実」を、創造するクリエイター。

わたしは、彼、RMくんは、人々のマインドを何が縛っていのるかを、ほとんど完全に理解していると思った。人々のマインドが縛られていることと、RMくん自身の問題は、別であることを、彼ははっきりと理解している…と、このLiveを見て、やっぱり、はっきり思った。いや…すごいよ…すごいかっこいいよ…。

彼には今、彼に見えている現実がある。
彼に見えている世界の真理がある。
その中にあって、彼が自分で確実に捕まえている自分の誠心誠意を、「ねじ曲げろ」という理念形態があるなら、それは、「bad religion」であることを、知っている…知っちゃってる…。

当然──当然と言っていいのか分からんが──どの宗教も「bad」な部分を内包しており、それは「人」を構成させるための仕様に「人」が作っているのだから、うーん…それは…仕方のないことなのですよな。

やがて、ゆくゆく、成長した我々がその課題をクリアする前に。

RMくんは。

「家族さえ愛さない。コミュニティの誰も愛さない。誰も愛さない。神すら愛さない」、と、地上に見放された、でも「自身の愛の誠実さを知る人」がそこにいるとして、

その人に、自分の愛を寄り添わせないでいることは出来ない。

と、いうのが、言いたいことなんだろうな、と思って、わたしは見ていた。それをしないでおれない。そうしようとする自分を押し留めておけない。何故なら、そんな人が地上にいるなら、最も、最も!自分のなすべきことは、その人に自分を愛をシェアすることだからだ。

「世界中から愛をもらっている自分が、それが自分の役割でなかったら何だというのだ」、くらいに思っているかもしれない。

…と。

このように、人は、成長段階で実装するアプリを入れ替えていく。これまで優位だったアプリをアンインストールして、自分が選んだ、別のアプリをインストールしてみる。

のんさん、風くん、RMくんは、いくつかの、社会が彼らに求めたアプリを外し、自ら選択したアプリを実装し、起動させ始めている、というところに共通点がある。と、わたしはここまで書いて、思った。

わたしは、「虚無」の体感が、「社会が自分に求めていて、自分にとって心地の悪いアプリ」を、外す、機動力になる、と説明した。

だがしかし。そうして「望まれない」アプリを、新しく稼働させた時、人々のリアクションは、好意的とは限らないのだよ…。


つづく!!


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