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ファッション、パクチーの場合

わたくしの話で恐縮なんですが。

最近、#自答自問ファッション、というタグを熱心に読んでおりました。そのタグを見つけたことをきっかけに、noteから本を出版された方の、「自答自問ファッション」というアイデアがあるのを知りました。自答自問ファッションに取り組む自答自問ガールズさんたちのnoteでは、大抵、買う物を決める思考のプロセスと、買うに至るまでが紹介されています。わたしはまだそのアイデアを、理解するところには全然至っていないのですが、そうであっても、それぞれの方の買うものを決め、購入するまでのお話の中に、いくつも感動して泣けてしまうのです。

昨年、パクチーはYouTubeでSUGAくんの曲の練習動画を公開しました。きっかけは求められてでしたが、自分にとって教えは何のストレスもなく、何も考えなくても出来る。

ある時、コメントにて、ジンくんの曲の練習動画を求める方がいました。

と、

ここで突然わたしは撮影する為に何を着たら良いのか迷う…!!

今まで、全く、迷わなかったのに…!!!


作りたい。自分の魅力の「不自然体」

しかし、自分はなぜ、ジンくんの曲でだけ分からなくなったんだろう。それはわたしがジンくんのファンだからです。そこにでっかい何かが、自然なわたしのあり方を阻害するものがあるんである。

それを、自意識と言います…。

無難なのは嫌。小綺麗なのも嫌。誰かと同じような良さではなく、自分の一番いいところが出ないとだめ。見られるわけない。分かってる。分かってるけど、万が一、億が一…ちょっとでも良く思われたいよ…!

正直、リクエストされたジンくんの曲、【The Astronaut】の練習動画を作成するかは、迷っていました(そもそも演奏動画の視聴者自体が少ないのにニッチすぎる)。でもたまたまある日、美容院に行って、帰宅して、とっても丁寧にブローしてもらって髪がさらさらで、「撮るなら今だ、このさらさらは自分では絶対出来ん」と、思って、

iPhoneをセットした(iPhoneで撮ってる)。

普段全く着ない、すてきな色の、肩がパフになったモヘアのセーター。島の生活では派手で付ける機会のない、フリフリの揺れるイヤリング。そしてさらさらの髪。

その時撮影した動画はイントロ、説明部分で、必要な内容はきちんと撮れた。つかみもOK。動画としては全く問題ない。

問題なのはわたしの自意識だよ。誰よこの人。

動画は問題ない…でも拭えない違和感…これじゃ顔向けできない…納得出来ない…じゃあ何を着るんだったら良いんだ…髪は…この時以上にさらさらになることはないし…そもそも照明が天井についてるただの電気が、全くアラを隠してくれない…実物以上になるためにはメイクをどう…

…というかわたしは…
何者になりたいんだ…?
どういう人だと思われたい…?
自分でない素晴らしい人…?
それは一体どういう人物…?

…と、ここで、最近わたしが目的もなく熱心に読んでいた、ファッションについて「自答自問」することに繋がるわけなのね…ふぅん…そうなんだ、わたし…

自答自問して具現化されるもの

自答自問ガールズの皆さんが取ったアクションは、抽象的に言うならば、「意思を現実に具現化する」。その中でも、「最高の現実をクリエイトする」という、とっても、パワフルなことを実践しておられると思うのですよ。

思い込みを外す。深層で望む、最も自分の最高な状態をイメージする。「それは叶う」というアイデアを受け入れる。ちゃんと引き合っているかどうか、自分の体内感覚、バイブレーションで診断する。何度も繰り返して「実現化」に習熟する。そして現実に感謝する。

「自己評価」と「なりたい自分」の思い込みを、どんどん捨てて、自己に出会って行く。見つけた自分を愛していく。最高の評価を与える。その、それぞれのエピソードは、どれも胸が熱くなって、感動的です。愛に出会っていくから。最も望む自分の心地良さを味わって生きるから。それを複雑な、社会的な、具体的にクイックに現実に反映される、ファッションという要素で行う。これは…地力がつきそうです。

そしてこのプロセスは、何と、ファッション以外のことでも、何でも当てはまると思った。食べるもの。日頃使うもの。インテリア。仕事。

やりたいこと/出来ること/求められること

「着たい服」「似合う服」「求められる服」が全部違う。そういう悩みについても書かれていました。あるある。わたしもわたしも。

これ、「仕事」も同じなんじゃないだろうか。若い時、誰でも、「自分の天職って何だろう」って思ったと思うんですよね。

得意なこと、収入になることが、別に好きじゃないこともある。
好きなことが、収入にならないこと。あるある。
求められるものが、自分の本当にありたい姿と、全く違うことだってある。全然ある。すごくある。

3つが一致していたら、さぞ気持ちいいだろうね!だけど3つが一致しているって、難しい場面もあるだろう。

「夢」と「職業」と現実の「仕事」。内観して、自問して、本当の望みにアクセスした人は、「それは叶う」というアイデアを受け入れて、具体化する為に行動する。夢を叶えて、次の夢をどんどん描き、それもどんどん叶えていく。3つがズレている期間も、そうであるからしか出来ない経験をそこで獲得して、最終的には夢の現実化のクオリティを豊かにすることに使う。

「こんなはずじゃなかった、でも仕方ない」。それを基本のスタンスにして生きる人もいる。その思いは、信念のようにして現実に反映していて、内側からしか壊せない。

あるいは、パートナー選びも一緒かもしれない。理想の相手。実際に付き合う人。好意を寄せられる人。3つが一致しているのが一番良いし、していない時に悩みが起こる。一致するには、やっぱり、再び、深層で「自分をどう思ってるか」「どうなりたいか」にアクセスすることが必要になってくる。

現実の変え方。
自己の認識法。
すべての出発点である「想像の力」の鍛え方。

この、「自分が満足するファンション」のために必要だと提案されているスキルは、おおもとのところで、非常に、ものすご〜〜〜く、本質的である。そしてファッションから始めるのは誰しもにとっても、決して簡単ではないが、分かりやすく実力がつくのでは、と、読んでいてわたしは思った。

そう。だから一体、わたしはファッションで自分の何を表現したかったのか。

それとも自分「以外」の何を、わたしは表現したかったのか。

わたしが服で具現化したいもの

よしよしOK、じゃあ考えてみよう。と、ここで自答自問してみるのですが、これは公式の「自答自問ファッション」の考えるプロセスとは関係なく、単語に触発されてやっている、単なる自己問答でございます。注

わたしは一体、ファッションでどうありたいのかな。理想のファッションってどんな感じ?どうあることを大切にしたい?何を表現したい?どんなイメージの服装をしたいのかな。

白い紙を広げて、紙の中心に言葉を書いた。

言葉はすぐ浮かんだ。

心の中にカミソリ

…え?
誰?
誰が書いたの?

「心の中に陽だまり」とかじゃなく?なんでカミソリ?

言葉はつぎつぎ浮かぶ。

森の奥の得体の知れない店の店主
ロマンチックさ
セクシーさ
きれいな色
きれいな柄
きれいな形
きれいな刺繍
人と違う。明らかに異質

続いて

普遍性
人混みに混ざるとどこにいるのか分からない
おっさんっぽい
野暮ったい
無害
中性的
職人の伝統的な技術
作り手のマインド
労働服

相反する要素たち。

「人混みに混ざるとどこにいるのか分からない」
「人と違う、明らかに異質」

が相反しているところからして、どうも、おっさんムードで無害、包容力がありつつ、カミソリは持っていたいらしい。隠すんだな。

言葉は続く。

全ての人が「愛されてる」と感じられるような笑顔
自然体

最後に。

狂気と社会性を同じくらい

これは映画監督に対しての評で書かれた文章の引用。なんでこれが出てくるの…怖いよ…。

書いている間、色々と思い出すことがあった。

自答自問ガールズさんたちは、最初のミッションを靴と鞄に設定し、ハイブランドへのバリアを解いて、本当に自分が心からなりたい状態を叶えるものに出会っていく。それらを読んで「いろんなブランドがあるなあ」「こういうバッグも作ってるんだなあ」と思いながらも、「自分はそれを持ちたいと思うか?」。そもそもハイブランドにパスがない。それは、心にバリアを張っていて、本当は触ってみたいのに、「自分にはとても無理」とリミッターをかけてるのだろうか?

一番うっとりした瞬間

ファッションについて、ふんわりと夢心地のような感じになったことが一度ある。お名前を出してしまおう。市川実和子さんが出演される舞台で、スタッフをした時のことだった(20年くらい前です)。毎日の稽古に、もちろん皆私服で来るのだが、実和子さんはいつも、夢の中のような雰囲気で稽古場にいらっしゃった。上下とガウンがクリーム色で、ゆったりしてて、あまり見たことのない丈で、柔らかい生地。スボンの裾にパステルカラーのぽんぽんのついたゴムを付けていることがあって、「かわいいです」と言ったら、「自転車に巻き込まれないように付けてたの、忘れてた〜」と言っていた。わたしも早速髪ゴムのカラフルなぽんぽんを、自転車に乗るときの裾留めにした。わたしが着すぎて、着心地が良くて、すっかり小さな毛玉だらけになってた水玉模様のカットソーを見て、「そういうの、いいよね、好きだからいっぱい着ちゃって、毛玉だらけなの」と言った。

「わたしは着心地がいいのが一番好き、そのまま寝たくなる気持ちいい服が一番好き、今日の服も朝起きてそのまま来た」

実和子さんの服を着る力は、何にも分かっていない、無知で無学ながら、「すっっっっごい」という思いだけは当時もはっきり持っていた。その実和子さんの服に対する評価。

なんか、頭にうっとりした風が、すわーーーんと吹いた。

朝起きたら「着替えなさい」。そう言われて染み付いた概念。「外着」の役割、稽古で動ける、汚れても大丈夫、人を不快にさせない、良く見せたい、が、全部、吹き飛んで、「なんて、かわいくて、気持ちの良い服を、ずっと着ているのが一番幸せだって、どうしてわたしは気づかなかった?」、という、風。稽古場では、若者だったら全身ジャージなどを着ている。伝わるだろうか、稽古場の現実と、実和子さんの見ている現実のギャップ。

劇場に入り本番期間が始まると、いろいろな人が見に来て、楽屋に会いに来たり、差し入れを持ってきてくれたりする。それを実和子さんは、パッケージの可愛い部分を、包み紙を、添えられた手紙を、包みのリボンを、一緒に撮った写真を、自分に割り当てられた楽屋の鏡に、美しくコラージュして貼っていた。コラージュはお隣を邪魔しない程度に自由な形に広がり、おとぎの世界のように美しかった。

それはかけがえがなく、かけがえなく美しかったのは、「物語」があるからに違いない。と、今のわたしは思う。

彼女の元に、友人が訪ねて来てくれたという事実の物語。自分が食べた、美味しかったという、真実の物語。配置や色が素敵である以上に、それは実際の人とのつながりからできた日々変化するコラージュで、「完璧」や「完成」というものはなく、つまりは、毎瞬が「完璧」で「完成」だった。そのコラージュは公演の楽日の後に剥がされてしまうわけだけど、その時その作品は、劇場で過ごした約1ヶ月を彼女に振り返させるだろう。美しい紙や、一緒に貼り付けられたキャンディーは、日々の思い出を鮮やかに表現して、実和子さんに返す。剥がすという行為が心に与える余韻、そのことまで含めて完璧だと思った。

自然体で、愛おしさを感じ、感じた愛おしさを全く力みなく、保つやり方。

そして、わたしが直接お会いして「ぐわーん」と痺れた、幾人かのミュージシャンのことも思い出した。彼らはたいていお金が潤沢な感じで暮らしていない。本番でもぺな〜っとした年季の入ったTシャツを着ていたりする。と同時に、かなり奇抜でちゃんとした服装も、すっと着こなす。

わたしがかっこいいと思った人たちの共通点は、「この人たちは、着たくないと思ったものは着ない」、だと思った。今着てるものは、着たいと思ってるから着てる。思わなかったら着ない。バイブレーションの一致。嘘のなさ。そして物語がある。「あの人にもらった」「買う時面白かった」「あのイベントで着た」「友人がデザインした」。個人的な来歴。彼らにとって、その「もの」への思い入れは、一般的なファッションの「良い・悪い」の評価、他者の評価に上回る。

ものがたりを身体が纏っている。それはわたしとって、とても興味深く価値ある価値基準だ。

ハイブランドにはハイブランドの長大な物語がある。

ふつう、人がハイブランドを持つ時、ハイブランドの「物語」を自分の物語に組み込むわけだ。あるいは物語を「借りる」。ハイブランドの物語を借りるには、表現者である彼らは、身体が発する物語の声が大きすぎる。借りたところで、評価されるのは自分が発する実力が全てだ。「ブランドの名前」という冠の権威が通用しない世界。でも愛のものがたりは、表現者を支える。

結局、その時その時で手に入る、一番着たいものを着ていたら、「その人」としか言いようのない、唯一無二の雰囲気が出来上がっていた。

彼らはそういう人たちなんだ、と思った。

わたしの、化繊で、良いものでもなんでもない毛玉だらけのカットソーを見て、「そういうのが一番よく寝れる」と実和子さんが言ったのを思い出す。今考えると、彼女は最大限褒めてくれていたのだろうか。くたくただけど着やすくて着ているわたしの心に、惰性でなく愛を見出してくれていたのだろうか。

わたしが持っている「もの」と「自分」とのものがたり。

何度も何度も選別のタイミングを生き延びた、わたしの持つ、ちっとも着ない、誰かにもらった、古着屋で買った、今や時代にも年齢にも合わない、「着る時がない」と感じる、自分にはどこかちぐはぐに思える服たち。わたしはその服の、どこかを、色を、形を、その服に作り手によって込められた価値観を、その服に自分が見た感情を、その服と自分の中に持っているものがたりを、とても愛していたんじゃないか、と思った。

そうだったのか。捨てられなかった、愛しているものがたりを、自分がいくつも手元に持っているというのは、それは幸せなことなのでは?

相反するとっちらかった要素は、わたしの中の狂気と社会性を象徴する服は、全部、自分と、自分にとって好ましい「ものがたり」でつながっていた。

それが、わたしの持つファッションの世界らしい。

わたしの方針は固まった

ということで。わたしの中心には結論が足されました。

心の中のカミソリ
||
着たいものを着たいときに着る

「え〜!そしたら、最初に撮影した、誰だこれはのモヘアのセーター、あれはそれで『良かった』ということになるじゃないのッ」

そうなんです。

これがいいんじゃないかと思って着たんだから、それで良かったはずなんです。そこに足りなかったのは、「これが、したい格好をするわたしであるッ」という心、「自信に満ちた目」が足りなかったのである。

と、ここで思い出されるものがあった。

BTSのジンくん。

わたしは、チームで露出するときのジンくん、ソロでのジンくん、どちらも、最初に見る映像を、目が避けてしまう傾向にある。

初動で直視できない。

そのコーディネート…ジンくん…かなあ…?

いけてなくない…?と、ぱっと見思って目をそらしてしまう。Diorのわんわんは可愛かったが、水色の犬が気になりすぎた(こうして並べると、共通項あるなあ…)。

しかし、後日。数日経って、忘れた頃に見ると、全然、超いけてる。これしかありえない。完璧だ、と思うのだ。

彼のスタイリング、実際は、ちょっと奇抜なんじゃない?そんなことない?ジンくんに着せるスタイリストさんって、実は、彼に攻めたものを着せる傾向にない…?人が丁度良く、違和感なく感じる温度感の、斜め上を刺してくる。と、そういうことだったんじゃないだろうかと。でもやっぱり彼のスタイリストさんというのはすごくて、やっぱり正解なんだと。

ジンくん曰く、「ファッションの完成は顔だ」。

これは、単なる面白いナルシスト発言の一環かと思うでしょ?

でも、自分の自己問答を経てみると、「顔」とは「表情」のことを言っているのではないか、と思われた。

ジンくんが仮に、「なぜ俺はこれ…?」と思いながらも、そこはスタイリストさんを信用すると心を決めたら、最後に必要なのは、泣く子も黙らせるドヤ顔だ。ファッションの完成は、流行でも、センスでも、組み合わせでも、素材や質でも、パターンや縫製の技術でもなく、「これでいい…。」に、本体が満ちていることだろう。

そして、それはどれだけ奇抜なファッションでも同じなんじゃないだろうか。最終的には「自信」という、力でねじ伏せるパワープレイ。それは表情に象徴される。「ファッションの完成は顔」。

全ての人が「愛されてる」と感じられるような笑顔
自然体

表情ってすごく重要で、出会って明るくなるような笑顔を見せられたら、正直服装に何を思ったとしても、関係がない。そういう気がする。そしてそれは、わたしが憧れる、決してリッチなタイプではないミュージシャンたちにも言えることで、痺れる音を鳴らされて、空間の質がギュンッと変わったら、着ているものは、もはや、お古のTシャツでも、ファンにもらったYシャツでも、何でも良い。

だからわたしが、自分と、自分の服との間にあるつながりに満足して、安心して笑顔でいれば、結局服は何でも良い。というか何をどう着ても問題なかったのか…

逆に、わたし自身が、「わたしの着ているものにはものがたりがあるから、他人の価値観には良く映らなくても、このほうがいいんだ」、と、自分で言語化して認識していることの方が重要だった。

そんな結論にたどり着いた時、ふたつの写真がtwitterで流れてきた。

Dior twitter

「人混みに混ざるとどこにいるのか分からない」
「人と違う、明らかに異質」

あくまで服装の話です!どうしてセットアップのスーツが、ブーツイン?と、人混みの中にいたら同化するデザインながら、良く見たら明らかに人と違う異質さがある。わたしが言語化したものを具体化すると、こういうことなの…!?

Dior twitter

全ての人が「愛されてる」と感じられるような笑顔
自然体

「ドヤ顔」「これでいい。に満ちた」が必要だと書いたが、つまり表情。どんな服装でも、そこにいるのは「j-hopeだ〜〜」という本人の存在、自然に持っている彼の良さが、服に隠されていないで、前に出ている。

そっか
彼らもチャレンジしているんだ
自分と違う「メゾンのものがたり」に飛び込んで
それに負けてしまわない
自分の身体の持つものがたりを語ることを
試しているんだ

スタイルの良さは必要か

ところで。とは言いながら、今回をきっかけにハイブランドのサイトをくるくると見て、服を見て、見ているうちに思ったのだが、この有名どころの海外のハイブランド、尖ったドレス、奇抜なトップス、

こりゃ西洋人の骨格の人が、
骨で着ることを前提に作られてるじゃねーか…!

見ていたら段々むかむかしてきた。こんなウエストが細くて、二の腕が細くて、足が細い人、まず日常にお目にかかることない。そもそもアジア人の骨格だったら、ずり落ちて成立しないし。どうしてこれがファッションの上位の基準なんだろ?

なんで西洋人の骨格が美の基準なんだろ?

ウエストが細くて、
足が細い方がいいって、

誰が決めた…!
誰が言った…!!

わたしが着心地が良い好きな服は、実際よりもおしりが大きくて足が太く見える。あたたかいズボン、中にいっぱい履ける。汗かきなので、夏は肌に張り付かない、オーバーサイズのトップス。

たいがいがシルエットが美しくない。

…でも、誰も、何も困らないよね?!

時代が変わったら、「その方が魅力的」になったりせんの?というか、わたしが実物以上に足が太く見えても、ウエストが太く見えても、どこにも何も迷惑も問題も、起きてないじゃないのッ!

「着たいときに着たいものを着る」

その不文律の前で、「他人から見たスタイルの良さ」は、今、音を立ててパージされて行った…わたしのファッションの条件から外れて行った…。

かくして、「少しでも良く見られたかったから、何を着たらいいのか」問題は、ここに帰着しました。

帰着…。帰着がそこで良かったんか…?

結局。

最終的には何着て撮影するのかまだ考え中ですが、手持ちの着ない服たちの生かし方が分かって来たところで、心は大分晴れやかになりました。

どういう人だと思われるのが自分にとって正解か。

「表情の良い人」

であった。シンプルだ。

ものがたりのある服を着て、人と違っても、変だと思われても、センスが理解されなくても、自分を隠したくないと思う相手に対して、自分自身を生きている人だと思われれば、それが自分の望む理想の状態でした。なるほど。そうだったのね。

実はわたしは、もう5年くらいの間、3日分のコーディネートが通年で決まっていて、お店に立つ週3日はそれを着ている。「自答自問ファッション」が提案している制服化、何だかんだでなされていたのであった。一生付き合うつもりで作ってもらった靴、バッグも一つずつある。大筋では近かったのだ。

ところで。

わたしの、そもそも、「肩がパフになってる、きれいな色のモヘア」が一体どういう惨事だったのか、ここまできたら気になる方もおられるのではないでしょうか…。

ありだったのか無しなのか、もはや分からん。次のnoteを投稿するまでの間、期間限定で、スキを押して下さったら見れる画像にでもしましょうか…。お蔵入りでもそんくらいの役に立ってもらおうかな…。


それではまた!




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