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女と男ってどうして分かれてるんだろう:雑談編④

ここでいよいよ、今度こそ「女性性」を解き明かしたい、というのが、わたくしがパクチーに課した課題なんでございますんですが。

なんてこった…

「君どう」観たよ…!!!(号泣)


「君どう」ことジブリ映画『君たちはどう生きるか』を、先日、わたくし、一人で映画館に行って見て参ったのですが、

これが………「女性性」とは何か、「男性性」とは何か、を、とにかくしみじみと、始終深めてくれる、超良作でありましたよ…!!!…パクチーにとってはだけど…!君たちはどうかな…!


まずは男性性についておさらい。


パクチーに理解された「男性性」とは

前回のnoteでたどり着いた答えが、わたしの今理解している「男性性」で、これはかなり正解に近いんじゃないか!と、自分としては、しっくり、ほくほく、ほんわかしているんですが。

「男性性」
=目的に対して、変化を与えようとするエネルギー。

映画を見てはっとしたんだけど、そうそう!男児が生き生きするのは、目先の目標が具体的で、はっきり見えている時だ…!そうだよ…!

目標は具体的であるほど良い。だから目近なところにあるのが良いが、目標を達成して獲得する成果物は、大きい方が、強いエネルギーになる。大きな的は、達成するのが難しい。

適切な的は、自己の中の別種のエネルギーを次々と連結させ、新しい能力に展開させていく。このような時、本人は非常にいい循環でエネルギーが巡っている。恐ろしい集中力を発揮し、周囲は見えない。これが、人の持つ「男性性」だ。

逆に言えば、良い的が持てないと、「男性性」のエネルギーは動かない。

例えば、やる気のない子供がいたら、目先の目標をビジョンさせてみる。「家まで競争」「あと3ページ終わったらアイス」「先輩より多くシュートを打つ」。的は、本人的にピンとくれば、無意味であって良い。具体的な的が見えて、初めて動くのこの「男性性」、近距離の的が合う人もいれば、長期スパンで大きな的を持つ人もいる。「インターハイ優勝」「現役合格」。ちなみに、パクチーはホロスコープを鑑定してもらった結果、射手座に月があるため、今日・明日くらいのスパンの目標しか立てられないのだそうだ。これ…すごく納得……!!!!良い風に言えば、「やりたいことを思いついたら、逆らわずに今やる」、それが、わたしが一番自分の全力を余すことなく使うことの出来る方法なのである。

それで、一方「女性性」とは。


「女性性」は、境界を溶かす

「男性性」は、いわば「個」であろうとする、分離の力だ。一方、「女性性」とは、それぞれ個々に分かれているはずのものの、壁を壊して、境界線を無くして、溶け合わせて、体内に取り込む。自分とひとつにしてしまう。一体化。エンパシー。共感能力。「あなた」と「わたし」を、同じ一つの、「自分」のことのようにする。

それが「女性性」の機能だ。

この時、「女性性」のエネルギーの質は、2種類あるんじゃないか?というのが今のパクチーの考えです。どちらも「自分」と「その他」を一体にしてしまうんだけど、その方向が、違う。

ひとつは、自分の感情をダイレクトに空間に発して、空間全体を「自分」が支配するタイプ。「感情発散型」と名付けてみる。

もう一方は、周囲のエネルギーを観察して察知し、自分に取り込んで、周囲のトーンに自分を合わせてしまうタイプ。こちらは、「情報収集型」と名付けてみよう。

「男性性」が発揮されるのには「目的」が必須であったのに対して、「女性性」が発するエネルギーに、「目的」は、無い。「感情発散型」は、「好き」「嫌い」「イライラする」「暑い」「寒い」「つまんない」「美味しい」「不味い」をそのまま表現する。が、そこに目的はない。しかも、その時その時で自分の思ったことを正直に言ってるだけなので、「好き」が「嫌い」にもなるし、「行く」が「やっぱり行かない」にもなる。本人は嘘をついていない。悪気もない。でも、そうやって自分が世界に対して感情を表明して、「世界」を「自己」に染めることで、自分に取り込む。そして「自分」と「世界」が「同一」であることを、確認するのである。「わたしがそう思うんだから、あなたもそう思うよね」。このタイプにとって、世界は自分の「外側」にある。

一方、「情報収集型」は、周囲の空気を、言語・非言語コミュニケーションを通して、ひたすら感度高く察知し、求められていることを汲み取る。その時に「世界」の方に、「自分」の境界も溶かして一体化させてしまので、こちらは「自己」が薄まってしまいがち。「自分が何をしたいか」「本当はどうしたいのか」を見失ってしまうことがある。このタイプは、自分の「内側」に世界がある。

ところで、人間には「肉体」と「霊魂」があるわけです。

「感情発散型」は、「肉体」に付随した「女性性」。
肩を組んで、「ウェーイ!」という一体感は、表明した感情が、互いに一致することで起こる。一緒に泣いて、一緒に怒る。一緒に笑って、ご飯を作って一緒に食べる。そういう、身体を伴って共有する「女性性」。

「情報収集型」は、「霊魂」に付随した「女性性」。
「人の感情とは」「それを起こさせた根本の理由は何だったのか」「人が悲しむ最大の原因は」「幸せとはどういうことか」。「悲しみ」「喜び」「憎しみ」「愛」の、言語になる以前の根底の感情を、ひたすら人々からじっと感受して、自分の中に取り込み、膨大なデータを収集して、「魂」というものの性質に迫ろうとする。

両方とも必要だと思うけど、人それぞれ、優位な方があると思う。そして、どちらが優位になるか、これは、もともとの生まれた気質や、育ちが、大きく関係するような気がする。

さて。これらの「女性性」が、拡大した暁にはどうなるのでしょうか。

「女性性」は、やがて、生命の闇、生命の光を自分の一部として同一化させる。

そしてまた、地球、大地の陰と陽を、自分の一部に同一化させる…のじゃ…!!!

映画『君たちはどう生きるか』を見終わってみると、「少年」と「母性」の関わりとはなんぞや?ということが見えてくる。宮﨑駿氏は母親に対してコンプレックスがあったらしい。

生まれた子供は、「肉体的」「霊魂」の両面で母親の「女性性」と関わる。身体の一部を物理的にくっつけて、喜怒哀楽を共有し、言葉にできない感情の根底のところに寄り添ってもらう。自分は母親の一部だし、母親は自分の一部だ、という一体感を感じている時、自分はジャッジされていない。大きな存在、大地、世界、宇宙とつながっている感覚を、母親を通して全身で浴びている。無条件で許され、エネルギーを相互に受け取る。これを「母性」とする。

「お母さんは、永遠に生きて、自分を愛し続ける」

これは、最初に子供が持つ世界に対する概念じゃないだろうか。世界=母親だ。しかし、少年が「母性」を十分に獲得する前に、この幻想が破られると、決して獲得出来ないものだとすっかり理解される頃には、「理想の母親像」は執着になる。

「母性」の喪失は、外界とのつながりの喪失である。「自分は、地上にひとり、見放されている」。それは不安定で、孤立しているような感覚だ。裏切ることのないはずの「母性」…現代のお母さんは忙しい。お母さんが「男性性」を優位にしていれば、子供への感度が下がるし、離婚したり、早くに亡くなることもある。「母親が理想の母親だったら良かったのに」。どこかにあるはずの「理想の母親像」に救いを求め、囚われ、自分をつなげてくれる安心、地に足がついている安心、よりどころになってくれる安心、それは「母性」がもたらしてくれるはずなのに。

やがて、成長して他者と関わっていくようになると、他者の持つ「女性性」の中に、一部、母親が持っていたのと同じ種類の「母性」が含まれていることに、気が付いていく。他者の「女性性」の中にある小さな「母性」は、少しずつ、少年の失った世界とのつながりを修復する。

少年は、他者の「女性性」を通して、母親が自分に与えたはずの「母性」を、受け取り、理解していく。それは裏切られたのでも、消えてなくなったのでもなく、今、人々の「女性性」を通して宇宙に存在している、ということを知るのである。

そう、「母性」は宇宙でつながっている…!

偉大な「母性」の本質に触れ、それは常に存在していることが分かると、「自分は、地上にひとり、見放されている」という感覚を手放すことが出来る。自己愛。その時、自分を救うはずの「理想の母親像」も、同時に手放されている。「理想の母親像」、それは願望であり、希求であり、命綱だが、どこまでも幻想で、どこにも存在しない。

と同時に、いつも目の前の人の「女性性」の一部に存在している。

ひとりひとりの「女性性」の中にある「母性」は、少年を育て、「理想の母親像」から自立させる。自立することが出来て初めて男性は、「母性」と同時に「闇」を抱えて生きる目の前の「女性性」を、守らなければならないものだと認識する。

実はパクチー、雑談編②にて、以下のように言うてます。

「女性性」
=内側から自発的に発せられるエネルギー。

だから…これだとちょっと違うんだな。

パクチーはホロスコープを鑑定して頂いて、そこで「女性性」について「受け取る力」だと教えてもらいました。「世界の素晴らしいもの、それは自分に当然ふさわしい」という、まるごと感受する能力。これ、しかし…なかなかわたしには分からない感覚なのだ…。

しかし、上下も、天地も、陰陽も、明暗も、全部、境界を溶かして一体にさせてしまうのが「女性性」なのだったら、

その中の、

この世の美しいもの、輝きに満ちたもの、純粋なパワーが溢れるもの、繊細で貴重なもの、その、生命と大地の祝福された部分も、また「自己と同一」させることが出来る。

それなら分かる…!

優れた「女性性」は、ジャッジしない。生きとし生けるものに優劣はないんである。母なる大地が全ての生き物を包括して育むように、優劣を与えず、純粋な愛情を与える。肯定し、母なる大きなものと自分を連結して、そこから、自分を通して、純粋に無償のエネルギーを注ぐ。

「女性性」の能力の中の、最もポジティビティの高い部分の集合体を、「母性」と呼ぶ。

そ、そうかあ…そうだったのか…。
自分で書いてて驚いてるんですが…。

話を、「女性性」の「感情発散型」「情報収集型」に戻す。

「情報収集型」の「女性性」が、いわば境界を無くして、無形の概念を果てしなく、宇宙まで広げることと、イコールになるんだろう。宇宙の最善。宇宙の虚無。冥府の暗黒。暗黒の道理。そして、「感情発散型」の「女性性」は、自分に起こる感情エネルギーを、無目的に、純粋に、発するための、いわば基礎トレなんですよ…!やがて発せられるものが、ポジティビティのトップオブトップ、「母性」となった時、それが無条件に、ストレートに、何のエゴを纏うことなく、発せられるための準備。

ということなのでは…!?

余談だが、他者の「女性性」を通して受け取る「母性」が、少年を自立させると書いた。他者の「女性性」から「母性」を受け取れなかった男子は、ということは、「母性」に呪われたまま、「理想の母親像」を希求することになる。それがミソジニー(女性嫌悪)に拗れていくんじゃ?

現実の女性は「自分が守るべき対象」にならないとすると、自分を「受容してくれる」「ジャッジしない」という「母性」の代用は、二次元ロリコンに求められるのでは…?永遠に生きて、無条件に自分を愛し続ける。それは理想の母親像に当たるのでは?

女性が家庭で「女性性」を発揮しないと、「母性」を十分受け取れなかった男子が増える。かつ、女性が日常社会で「女性性」を発揮しないでいると、少年・青年が「女性性」に触れ、そこから「母性」を受け取る機会も減る。女を守れない、「理想の母親像」から自立できない男性が増える。ま、いいんだけどさ…。


さて、おわりに…

大変長かったこのシリーズ。ここで終焉で良いと思います!みなさん、お付き合いくださってありがとう!ありがと〜〜!

最後にパクチーから個人的な雑談を(え。このnoteもともと雑談じゃないの)。

「感情発散型」について、身の回りで思い当たる方がおられる人もいると思います。最近パクチーは、よくオネエのYouTuberの動画を見ていて、わたしは時々思い出したようにまとめて見る期間があるんですけど、彼らは非常に「感情発散型」の「女性性」に優れてる、お見本!お手本!のように思います。目的のない、「好き」「嫌い」「楽しい」「楽しくない」などの、ストレートな感情の表明。これですよ!これ、これ!

感情を表に出すのが苦手な方は、オネエの方々をお手本になさると、「感情発散型」をポジティブに使うイメージが持てるのでは…?と思っています。

でもパクチー自身は正直、自分の感情をストレートに出すのは苦手なの。

なんでかと言うと、「感情発散型」で空間を支配するのが、わたしの母親だったからです。わたしはそれを「情報収集型」で吸収し続けて育ちました。

男性の前で女っぽく出来ない。女性らしさを出すことに抵抗がある。不自然な感じがする。だから髪は短く、ボーイッシュなスタイルで、メイクもしない。わたしが長年持ち続けたこのスタイルは、色々要因はあるものの、結局、母親が無言で発していた「姑への憎悪」を、吸収し続けた結果なのかなあ〜〜という気がしています。母親より幸せになってはいけない、という、自分で被せた蓋。それは、女性として魅力をアピールする行為が、当時の自分にとっては「若さを謳歌する」こととイコールで、それは人生を充実させて生き生きと過ごしている、すなわち「幸せ」に「見える」「母親から見て」、ということと、つながっていたのではないか?

母親からの嫉妬の毒性は強い…。一般論。

女性が女性として生きていくこと、また結婚生活に伴う少し前の時代の、ひたひたとした不幸感。あるいは母以外の、他人の発している感情。それらをじっくり自分のものとして受け取り続けたわたしは、なぜそうする必要があったかと言えば、「わたしに必要な情報を収集していた」。「未来のわたしにそのデータが必要だった」のだ。きっと。

その「未来」とは、「今」だ。きっと。

わたしは理解したかったんだと思う。母を含め彼女たちが背負ってきたもの。逃れられなかったもの。なぜわたしはそれを理解しようとしたか、その、今自分で理解している最大の理由は、「それを子世代に渡さない」為だ。

男性の前で男っぽくしてしまうのには、もう一つ、思い当たる理由がある。男性同士の「女性性」を、好きだ、と思っているからなんじゃないか。

男性同士が群れている中には、そこには肩を並べて感情を共有する、「女性性」的一体感が存在する。男性同士に、「仲間だよ」という友愛が存在している。

そこにメスを一匹投入すると、とたんに男性同士は、「男性性」を向けあい、対立構造が起こる。そして男性の「男性性」が女性をターゲットにする。わたしは、自分の「情報収集型」の「女性性」が、男性の「男性性」を感受するよりも、男性の「女性性」を感受する方が心地よいし、美しいと感じていたんだろう。自分が男性に視覚的に与える刺激を極力減らして、女性的な仕草を減らして、男性の「女性性」に自分のトーンを合わせる。このことでわたしが受け取ることの出来る、男性たちの、ニュートラルな感受性や、共感や、理性や、ユーモアや、愛情に、わたしはとても救われてきたし、育てられたものがあると思う。同じ目線で一緒に遊んだり、一緒に仕事をしたり、一緒にコミュニケーションを、とってくれてありがとう。そのことで、わたしは彼らを、縦からも見れたし、横からも見れた。それは人間を愛するために、とても重要だった。

「情報収集型」の「女性性」で、周囲の人々のバロメータや得手不得手を認識し、必要な手を借りる。「感情発散型」の「女性性」で、自分の嘘偽りのない状態を共有し、足りていない部分に正直に、そして感謝と喜びを目一杯発して一体感を味わう。

そこで生まれる一つの小宇宙は、個人の魂を軸にいつでも完成しているのだが、優れた「男性性」は、イマジネーションを使って、今いるエリアの境界の、さらに遠くに的を置くことが出来る。そうすると、小宇宙は全ての循環を素晴らしく保ったまま、ポジティブな方向へ新しく拡張する。

これが、今わたしの感じる、「女性性」と「男性性」の融合かな。

この世に「性別」があって、「性別」が強制的に振り分ける「男性性」「女性性」が存在する分、それに翻弄されて生きるセクシャリティを選択せざるを得なかった方々には、本当に、「女性性」「男性性」の本質を考えさせる知見を与えてもらっている。自分の中の「女性性」「男性性」を生かし切ったら、「性別」はきっと、最後に後からついてくる、おまけみたいになるんじゃないだろうか。考え方の凝り固まったブロックを、「自分」を押し包む壁を、女と男で、女と女で、男と男で、女、男、それ以外で、互いに役割を持ち回りながら、がっこんがっこん壊してってるんじゃないかなあ。

わたしたちそれぞれ、人の喜びを余すことなく感受するために。


それでは、また!!!!



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