見出し画像

BTSとARMYが対峙するもの

今、世界のARMYが獲得しつつある感覚として、「わたしたちは助け合える」というものがあると思う。国境、人種、主義、ジェンダーアイデンティティ、あらゆるボーダーを超えて。こんなにも違う言語、生活環境、生活習慣、でも心踊ったり、笑顔がうれしかったり、思いやりがありがたかったり、肉体の痛みが辛かったり、尊厳を持って扱われないことに心を痛めたり、あれ?わたしたち、こんなにも一緒じゃん!という気持ちを共有し、リアリティのある実感覚として、言語、習慣、人種、ジェンダーアイデンティティ、それらの階層のもっと突き詰めた奥のところ、何か個の存在そのもの、そこには全てを超えて共有されている何かがある。目に見えない何か。目に見えないのに、わたしにもあなたにもあるね、共通するもの、確かにそこにあると実感されつつある何か。

BTSとARMYが、自然な流れの中で獲得しつつあるその感覚、共感能力とでも言おうか、その、人が本来持っているポジティブな力が、しかしそれがリアリティが伴って成長する時、それは意識していようとしていまいと「世界に分断を必要とする者」と対峙する構造になる。

HSPという言葉を知ったの。「HSP」という単語は前から見かけてたけど、「生きづらい」という言葉とセットになって現れることが多かったので、わたしには関係ないと思ってたの。でもなんとなく興味を持って昨日初めて調べたのね。そしたら、

Highly Sensitive Person
・考え方が複雑で、深く考えてから行動する
・刺激に敏感で疲れやすい
・人の気持ちに振り回されやすく、共感しやすい
・あらゆる感覚がするどい
(※ 要素だけ抜き出してます。興味のある方はお調べください)

えっ…と…

呼んだ?

ていうかこれって普通じゃないの?むしろこうじゃない人がにぶいんだと思ってたわ…。

ところで。この世界には、「分断」がなくては困る人がいるんですよね。大きな大きな経済的な理由で。この国とこの国が敵対しています、戦争します、というだけで、とても大きな経済効果があるのですよね。「この国とこの国」が対立するためには、スモールスケールの「この地区とこの地区」が対立するところから人々には敵対心を育てて欲しいし、「この地区とこの地区」のさらにスモールスケールでは「このグループとこのグループ」でさらにスモールスケールでは「あの人とこの人」で、それがつまり「自己責任」という考え方です。「わたしたちは手を取り合わない」という考え方で、「わたしたちは助け合わない」という考え方です。人々がベースに「自己責任」を当たり前に感覚的に学んでいることが、世界を戦争状態にするために一番重要な下準備なのです、戦争を起こしたい人にとっては。だからヘイトが、人種論が、LGBTが、異なる思想の社会的対立が、「煽られる」ことは、マーケティング的にどんどん資金と人材を投入するべき重要なトピックなのです。と、いうことは、何か特殊なレポートを読もうとしなくても、一般的な経済感覚で納得の行くところだと思う。

「人種」って、くっきり線引きできるものだと思いますか?

「ジェンダーアイデンティティ」ってくっきりはっきり線引きできるものだと思いますか?

パクチーはかつて、人種の遺伝的違いに興味を持って、Y-DNAのハプロタイプについて調べている時がありました。その時感じたのは、「人種というのは、遺伝的に言って、違うというほどには違わない」ということでした。パクチーの友人の子供は、「性未分化疾患」と診断されました。生まれた当初目視で「女の子」とされましたが、その後「性未分化疾患」とされ、遺伝子が「XY」だったことから親の判断で「男の子」となりました。その子は掌より小さい超未熟児で生まれ、生まれた時にはまだ性別が完全に分化する前の状態だったのです。胎児の性別がどのように分かれていくかご存知ですか?精巣・卵巣どちらにもなれる器官が、ホルモンの刺激を受けて段階的に変化していきます。「性未分化疾患」が、どの時点で変化が止まってしまうかによって症例がグラデーションのように存在するのは、想像に難くないと思います。ジェンダーアイデンティティを区別する言葉にも、「LGBT」の4種以上にそれはもうたくさんの言葉があります。パクチーも全然全部は知りません。例えば「フルイド(流動的に変化する)」、「ノンバイナリー(区別しない)」など、網羅しきれない分類をフォローするために「Q(クィア、変わってる)」「+(それ以外の全て)」を足して「LGBTQ+」と表現したりします。今自覚している自分のジェンダーが、生涯変わらずにそのままかと言ったら分かりません。本来はとても定義が難しいうえに、定義すること自体にそれほど重要な意味を持たせられないのです。

「名前」をつけることは、必要です。自分が何者であるかを分かるために。でも線引きするための名前は必要ありません。

Highly Sensitive Person」は「名前」です。でも、「生きづらい」は線引きです。ここからこっちは「生きやすい人」、ここからあっちは「生きづらい人」、と線で分ける行為です。

Highly Sensitive Person」は、生きづらいんじゃなくて、アンテナの感度が高いのです。どんどんアンテナを磨いてください。そして役立ててください。おそらく「Highly Sensitive Person」の人は、言語化できないレベルの、本質的な有用、無用、がキャッチできる人です。そして世界が分断したままであって欲しい人たちにとっては、HSPが言語によらずに本質的なものの判断ができるようになっては困るのです。だから、生きづらいマイノリティとしてしょんぼりしていて欲しいのです。言語によらない本質的な判断とは、例えば「この場所…なんか、良くない…」とか、そういうやつです。引越しの時などとても役立ちますよ!

それではここで、世の「Highly Sensitive Person」さんに、パクチーの選択を紹介したいと思います。パクチーは今のジンくんくらいの年齢から、体に入る化学物質を積極的に避け始めました。こうすることで何が起こるかというと、「自分の体にとっていらないものが、自信を持って『わたしはいらない』と分かる」ということです。あなたの感度の良いアンテナをポジティブに強固に扱えるようになります。かつ健康になるはずです。

<パクチーが選択したことリスト>
・電子レンジを捨てる
・テフロンの鍋を使わない
・土に帰る素材の食器を使う
・添加物の多いものを摂らない
・伝統的製法で作られた調味料を使う
・なるべく有機の食べ物を選ぶ
・国産小麦の製品を選ぶ
・国産のお肉を選ぶ
・なるべく薬を飲まない
・電気を白熱灯に変える
・土に帰る素材の衣類を選ぶ
・合成洗剤をやめる
・TVを捨てる

パクチーは東京に育ちました。友達は丸の内が大好きでしたが、わたしは丸の内エリアに入ると頭が痛くなりました。でも頭痛じゃないのよね、ギーンと振動している感じ。パクチーは妨害電波か無限に飛んでるWi-Fiのせいじゃないかと思っていますが…。少なくとも霞ヶ関は妨害電波が飛んでいます、タクシーで通りかかると、かけていた電話がそのエリアだけ不通になります。一番苦手なのはユザ○ヤという手芸屋さんでした。ユザ○ヤも手芸も好きなんだけど、蛍光灯が明るすぎるのと情報量の多さがダメなんだと思う。もうろうとします。もうろうとして、「ガメて帰ろう…」という気持ちになります。もはや正常な判断を失ってます。あとは池袋、パチンコ、パチンコ、電気屋、と並んでいる路地に入ろうもんなら意思と関係なく殺意が湧きます。音がミックスしているのがダメみたい。だからTVのワイドショーもだめです。一度に4、5種類の音がなりますね。すごく雑な気持ちになって集中できないので、実家にいる時は「消して!!」とよく家族にいちゃもん付けていました。とにかく基本人混みが苦手でした。人々が予測できない方向にランダムに動く、というのが一番疲れるようでした。

パクチーの提案が「無理だ!」とおっしゃる方。ま、そうですよね。はい。承知です。もし興味のある方がいれば、無理なく、「あれ?こっちのほうがいいじゃん!」と思えるやり方で進行できるようなプランを、改めて別記事に提案させていただきたいと思います。そして、これを実行するとどうなるか。人の体は3ヶ月で細胞が入れ替わると言います。早ければ1ヶ月くらいで、体に溜まった化学物質がほぼ排出されていると思います。

「あれ…?なんだこの味…」

まず感じる違和感は、においかもしれません。次に、これまで食べてきたはずの食品等々の化学物質に、今や舌が違和感を感じるはずです。体の中に化学物質が溜まりに溜まっていると、もはや新しく入ってきた化学物質に体は反応しません。しかし、一定以上体がクリーンになっていると、ちゃんと異物として反応してくれます。そして排出しようとしてくれます。パクチーの旦那くんは、ダメな食べ物は食べている最中から口の中に血豆のような口内炎ができます。そしてすぐ下から排出されてしまいます。彼の場合は特殊だと思いますが、体がいらないものは口で、しかし食べてしまったものには下して、なるべく体に滞在させないようにして体外に出してくれます。そういうリジェクトする機能をオンにすることができるのです。

そして実感として、「いらないもの」は、食べてしまうと、出すのにとてもエネルギーが要るということが分かります。時間もかかるし、下すのもそれなりにしんどい。最初から口にしないのが、一番平和だと感じます。

Highly Sensitive Person」の人は、他人の感情に敏感だと言います。パクチーは、「気」に敏感なのだと考えます。「気」あるいは「周波数」あるいは「波動」。詳しいわけではありません。なんとなく言葉を言っています。とてもイライラしている人、とても悲しんでいる人、怒っている人、そういう人が空間にいると、場の空気のトーンがその人に支配されます。空間全体が下がるのです。その空間に対して自分が影響を受けるのです。方法は3つです。1、その人を遠ざける、2、自分が波動を上げる、3、何かの要素で浄化する。自分のテリトリーに来た人なら、帰ってもらう。あるいは気力があれば、面白い話や超絶美味しいご飯の話などして空間のトーンを変える。あとは窓を開けて、空気を入れ替え、大きく柏手を打つ。柏手は、両手があればなんの道具もお金もいらない、ミニマルで強力な浄化ツールです。神社で手を打つのは意味がないわけではないんですな!重たい波動は自分のものじゃありません。手を打って、自分と切り離します。恒常性を保つことを意識します。神社の柏手のようなのはちょっと人前で抵抗があるわ、と言う方。ドラマのヒロインのように、「さて!(ぱちん)」と可愛く、しかし真剣に手を打ってみるのはどうでしょう。キャラ作りもできて一石二鳥ではあるまいか。

たまに、そういう人の、あるいは人知を超えた重たい気が、長い間蓄積して、淀んだまま動かないような場所・空間があります。そういう物件は住むのにも商売にもよくありません。物件全体の中で、一部だけ気の流れない場所がある場合もあります。壁を破って窓を付ければ解決するだろう、という場合もあります。あるいは「人」もいます。もうそれは素人にはどうにかできません。どうにもできない、と思っているのが賢明だと思います。

そういうものに触れた時は、柏手を打って、ピュアなものに触れて切り替えます。触れた波動を切り離して、元の自分のトーンに戻りましょう。誰かを看病している人でも有用な考え方だと思います。病院にいる時間はそこが世界の全てのように感じますが、看病する人は病院と全く異なる情報量の世界とを行ったり来たりしなくてはなりません。看病中は、当然相手にシンクロしてしまいます。ですが自分の時間を少しでも自分のトーンで生きるために、自分のものでない周波数を切り替える感覚を持つことは、ほんの少しでも苦労を減らすような気がします。

…さて!(柏手)

パクチーの提案させていただいた<選択したことリスト>を実行して、3ヶ月経ったでしょうか?アンテナがびりびりと磨かれたでしょうか?

そのびりびりアンテナが立っている状態で、

先日のグラミーを見てみましょう!

…BTSのパフォーマンスが、なんと波動の高いことか!

そして他のパフォーマンス群と比較して、なんと、異質!

パクチー、今回初めてグラミー全体を見ました。パフォーマンスも全部見ました。クラシック部門とかもあるのね、知らなかった。受賞者がオンラインでコメントしていましたが、あらゆるジャンルの中でもクラシックの人たちはなんかほっとする感じでしたね…。パクチーはクラシック畑にいたので「知ってる知ってる」感ありました。が、そう、本題に戻すと、

他のアーティストのパフォーマンスが、全体的に非常に暗くて重たいのがお分かりになるかと思います。「えっと、なんか召喚してるの?」と思われる、陰も陰、ド陰です。BTSのステージに見慣れているせいか、余計に際立って見えるというか、女性シンガーに「歌を歌うのにそこまで脱いで頂かなくても、十分お綺麗ですが…」と、違和感の方が大きくて、グラミー全体が、「これはパフォーマンスだから」「エンターテイメントだから」という以上に、波動が重すぎるんである。

実はパクチー、数年前からヒットチャートのMVはそう言った理由で見られないので、やっぱり久しぶりに見たら食らってしまった。クラシックで少しリセットしよう、と思って、グラミーで賞をとったクラシックのアルバムを聞いてみたの。そしたら…、こっちも、もう相当にヘビー………。いや、もう召喚系で揃えすぎだよグラミー!

ここでひとつ、個人的な見解だが、グラミーが「白人主義」だと分析する人がいる。わたしの感じ方では「白人主義」なんじゃなくて「選民主義」なんじゃないかと…。「選民」になる踏み絵を踏んだ人が上がれるステージ。アルバム「BE」の記者会見で、メンバーたちが「World Order」の動きで入場しましたね。「World Order」が暗に「New World Order」の存在をリークしようとしていたのは明確で、そして選民とは「New World Order」の支配層にカテゴリされる人たちのことである。だから受賞できなかった時のナムさん(RM)の「I told you」なのであろう、でも「来年には」という言葉、この構造は来年はもう生きていないかもしれないということを暗に示しているのでは…しかしそういう分析をする人が他に見当たらないので、この分析はわたし個人の偏ったここだけの見解として下さいね、内緒…。

グラミーのBTSを見て改めて思ったけど、アジア人てきれいだなあと思うのですよ。パクチーが一番始めにそう思ったのは、AMAでBTSが「FAKE LOVE」をパフォーマンスした時でした。旦那くんはヨーロッパに留学経験があるのですが、欧米圏でアジア人が白人以上に歓声を浴びるなんて、まず考えられない、見たことがないと言って、本当に驚いていました。パクチーはPinterestが好きなのですが、そこにさまざまな民族の実に多様に展開された「美」を見て、わたしたちは目の形、眉毛の形、髪の質、体のフォルム、ファッション、美しさの定義を何者からか一方的に与えられ、与えられた基準を美しいと思わされていることに気づいたのでした。世界の国の、わたしたち日本人が持ち得ない感性の伝統衣装の、それを最上の豊かさとして身に纏う人々。環境の必然が生んだ人の形。そこにある名前のないものの価値を理解している目。BTSのメンバーを通して改めて感じたアジア人の特性、きめ細かな肌質、ベビーフェイス、しなりというかバネのある体、個人主義とグループ主義のバランス、「グローバル」と言った時、それは一見ボーダーを超えた理想的な状態に見えます。しかし「グローバル」とは実際には美の基準を第三者が一方的に与えるのと同じことで、世界の多様さを失うことで、ナムさんが「辺境から来た人間、そのことをよく考える」と言っていたのと真逆のことです。「グローバル」と言った時、グラミーからBTSが排されたように、アジア人の美しさは美しさとして定義されません。しかし、そこには、もはや、すっかり、必ず、比較しようのない価値があることを、美しさがあることを、世界中のファンが理解しています。均一にならすのが、境界を超える方法ではありません。分断する言葉を使わないことが、境界を超える一つの方法だとわたしは思う。

愛あるARMYのBTSに対する考察群をリサーチし、動向と嗜好を分析し、アイコンをメンバーの写真にし、世界に莫大な規模で存在するARMYを分断させる活動をすることは、可能かどうかで言えば可能です。ヘイトが、人種論が、LGBTが、異なる思想の社会的対立が、「煽られる」ことが、必要な人たちにとって、その活動の目的は「わたしたちは到底手を取り合うことなんてできない」と人々に感じさせ、「世界はこんなにひどい」と失望させることです。その目的と意図に気づいた場合、わたしたちができることはなんでしょう。それを超えるのは「わたしたちは助け合える」という感覚です。「分けたら足りる」という感覚です。あなたとわたしは違う、だけど、あなたが辛いということが分かるから、あなたが嬉しいということが分かるから、国境、人種、主義、ジェンダーアイデンティティ、あらゆるボーダーを超えて、共通するものを持てる。共通して持てる要素が増えていく。「助ける」という時、余剰のあるものを不足しているところに渡す、というイメージが起こります。「助ける者」と「助けられる者」は対等です。「助ける者」は、別の人との関係性では「助けられる者」になり得る。「助ける者」と「助けられる者」が対等なのは、この役割が持ち回りだからです。

共感能力はエンパスとも呼ばれます。日本人はエンパスが多いんだそうです。パクチーは「つまりのび太くんみたいな人」という説明で腑に落ちました。約5人に1人が当てはまるんだそう。「Highly Sensitive Person」も5人に1人と書かれていますね。は、あはははは…5人に1人好きやね。なんでや。

違いは、どうしたってあります。「うわ、あかん、これは無理」ということもあるでしょう。世界に分断があり、その対立が世にも深刻な問題として取り沙汰されているのと同じくらい、分断されているはずの対立しているはずのコミュニティに所属している人同士が、ボーダーを超え、困難を超え、違い超えて助け合っているシーンが存在しているはずです。わたしはそちらに学びたい。そちらに学ぶものがあると思う。幸せな結婚をしたい女性が、ダメ男ばかりと付き合ってしまう時、何が解決させるかご存知ですか?心から愛し合い、信頼し合っている夫婦の近くに、とにかくただ、いることです。何もしなくていい、近くにいるだけでいいのだそうです(岩月謙司:著『幸せな結婚をしたいあなたへ』という驚愕する本より)。わたしはだから、ただそばにいたい、それだけでいい。その波動に触れていたい。

「A」と「B」が違う、という時、「違う」ということそのものはニュートラルです。その違いを「美しい」「醜い」「おかしい」「クール」「気持ち悪い」「すてき」と感じるのは主観です。ニュートラルなものに何か名前を与える時、与えられた名前とはつまり「自分自身」のことで、「これはこういうものである」と定義する自分の中の設定を通して、自分が自分に与えている条件を見ているのである。しかし、そういった内面に起こる豊かな英知を無視して、地面にビビビーーーっと線を引いて、「こっちからこっちはおかしい!こっちからこっちが普通!」と、人々をカテゴリに分けて分断するとき、分断者は、英知と、本質的な自己愛と引き換えに、思考を停止したままにして権力と自尊心を得ることができる。そしてそれは線を引くことによってもたらされたものであるので、線がなくなると同時に失われる。

アンテナの感度の高い人は、是非、その感度をびりびりに磨いて欲しいなと思う。「生きづらい」現状を「心地よい」状態に変えることができた時、「Highly Sensitive Person」のあり方は周りの人々・動物たち・植物たちにとって、その空間の周波数を高いところに保つキーパーソンになり得るからだ。そして現在SNSやメディアで目にする発言が「分断」を目的にしているのかそうでないのか、自分のアンテナでキャッチしてみて欲しい。自分にとってその発言に価値があるかどうか、きっと判断されると思う。

音楽は振動する波でできているんだよ。それのみでできているんだよ。その曲それぞれが持つ波動がある。自分の発している波動と近い時、その曲は心地よく感じるんだよ。音は空間を浄化もする。祈りをも含む。グラミーイズムが支配する世界の音楽界に、BTSの「Dynamite」が、その電波を使って流れた。彼らのそこに詰め込んだポジティビティが、ガーゼで世界を拭ったような、そんなようなことであったのだと、パクチーは感じた。


追記(2021.3.31):
このnoteを投稿したのは、BTS本人たちのアカウントがアジアンヘイトに関わるtweetをするのの以前でしたが、図らずも近いタイミングで人種に関わる話題を書いてしまったのでどきどきしています。彼らのtweetの真剣味と比較したらわたしのnoteはそうではないですが、それでもここで書きたかった意図は変わっていません。アジアンヘイトについて大きく取り上げられるニュースは、複数のソースで調べる必要は今後ますますあるような気がします。分断を煽ることを目的にしたポストの反対側にあるのは、リアルにそれを体験した、本人の肉体の発する生の声であると思います。わたし自身は、数限りある海外の滞在経験でアジアンヘイトを経験したことはありません。だからアジアンヘイトに関して語れるものはありません。ただ、広いアジア圏の中で、同じアジア人同士の中に序列があることは体感しています。自分が本当に分かるのは、自分が体験したことだけです。違いが、序列を作るのでなく、少なくとも自分の中では、ただの違いとしてニュートラルに存在できるところにたどり着けるよう考え続けたいと思う。peace。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?