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女と男ってどうして分かれてるんだろう:雑談編③

じゃじゃーん!ついに、わたくしパクチー、自分のホロスコープを、はるなさんに鑑定して頂きました!

鑑定をして頂いたことで、わたしのアセンダントは、「プシュケ(小惑星ナンバー:16)」が合していることを知りました。アセンダントに合しているということは、わたしが生まれて持ち続けるテーマということになる。そして「プシュケ」のテーマとは、『男性性と女性性の融合』であるという…!

なんと…!

わたしは丁度鑑定のレポートを頂戴する少し前からこの「女と男ってどうして分かれてるんだろう」のシリーズを始めて、自分の中の「女性性」と「男性性」の、さらなる融合に、まさに取り組もうとしていたタイミングであった。

こいつは…生涯のテーマだったのかッ…、それを、今、まさに、解き明かさんとしていたとは…ッ!?

ギリシア神話の、「プシュケ」にまつわる部分を早速再読。我が家の本棚にあるのは『ギリシア神話:串田孫一著』。


「プシュケ」の神話は、一見、男性性と女性性の融合とは関係のない話のように見える。これを、『男性性と女性性』というただ一点からのみ読み解こうとすると、ある仮定が浮かんだ。

 プシュケというのは三人姉妹の末っ子だったが、大そう美人だった。姉たちも美しかったが、プシュケの美しさは、ちょっと比べるものがないほどだった。その評判は隣の国まで伝わって、わざわざ見にやってくる人さえあった。
 美しい女神と言えばアプロディテであるが、この女神の美しさを忘れるほど、人々はプシュケに夢中になり、彼女が通る道には、花をまいたり歌を歌って迎えた。

『ギリシア神話』串田孫一:著

プシュケは王女で、つまり、全てを予め与えられている。賞賛、地位、財産、家族、美しさ。そして、自らが特に望んで得たわけではない「美しさ」によって嫉妬を受けた彼女は、一旦全てを手放し、身一つになる。

物語はアフロディーテの息子、神エロス(キューピッド、アモールとも)に好かれることで展開する。神と人間の結婚は禁忌だ。プシュケは風の神によって謎の宮殿に運ばれ、そこで一人で暮らしながら、姿の見えない、誰かも分からない夫、エロスに、ひっそりと、大切に愛される。

エロスは男神で、エーロス(恋心、求愛)のギリシア語が神格化したものだ。のちにローマの神アモール(受難の愛)と神キューピッド(情熱的な欲望)と同一視される。キューピッドはクピド、kupiは「震える、欲望する」「沸騰させる」のインド・ヨーロッパ祖語から来ているらしい。この、震える、体の内部の身体的な感覚、外部の対象に対して自発的に起きるエネルギーを、「男性性」と定義してみる。

エロスに愛されたプシュケは、離れたままで会えずにいる家族と会うこと懇願し、姉たちを宮殿に呼ぶことを許してもらった。しかし実は姉たちは、プシュケの境遇を見ると嫉妬し、プシュケの心に猜疑を吹き込み、エロスを殺すように唆す。エロスは去り、追いかけようとしたプシュケは宮殿から地上へ落ちる。姉たちはプシュケに同情しているように見せながら、自分たちが宮殿で楽しい生活をしようと、風の神に運んでもらうつもりで岩山から身を投げ、そのまま谷に落ちて死ぬ。

プシュケはエロスの居所を探して訪ね歩き、エロスの母親であるアフロディテの元へ行き、詫びる。アフロディテは無理難題を出すが、苦労と勇気を試される試練に、エロスが陰ながら助け舟を出すことで、プシュケは毎回難題を成し遂げた。とうとう冥府の女王のペルセポネのところへ「美しさ」を分けてもらう試練を与えられ、箱をもらうが、再びエロスに会う時に一層美しくなっていたいと思ったプシュケは、のぞいてはいけないと言われた箱を開けてしまう。箱には「眠り」が入っており、プシュケは眠る屍のようになる。昏睡したプシュケをエロスが救うと、エロスはゼウスに働きかけ、プシュケを神の一員にしてもらう。アフロディテはプシュケを許す。

これがプシュケの話の顛末だ。

ここで、「プシュケ」を軸にして、彼女が、「エロスの愛」=「優れた男性性」のターゲットになったことで与えられたハードルを、時系列に整理してみる。

自分以外の全てを失う
他者からの嫉妬心
他者からのエゴ
家族の見せかけの愛情
死のカルマ
自らの英知や勇気を他者のために使う
「陰」との対峙
自分に対する不信を手放すこと

プシュケが経験するこの全部の過程で、彼女は常にエロスの愛に守られている。プシュケが「のぞいてはいけない」と言われた箱を開けるのは、好奇心か、それとも自分自身に対する不信か?「エロスが愛したのは自分の美しさで、それが失われたらエロスの関心も失われるのでは?」。姉たちの甘言を信じて、自分の感覚を疑う。その、非常に人間くさい心の動きを、それをもひっくるめて彼女は十分神性に適っているとして、神エロスは彼女を愛している。

人間の娘プシュケは、神エロスに愛されたことで、与えられていたものを失い、悩み、迷い、疑い、カルマを背負い、だがこの過程は、彼女の持てるものを神性に近づけた。彼女は自分の精一杯で、じたばたしながら懸命に生きた。プシュケは「息」の意、ひいては「命」、そして「魂」と訳される。

優れた「男性性」は、それを向けられた人の持てるものを、神性にする。そのためのハードルを、優れた男性性は向けられた人に与えるのではないか?これらの難題は、それをクリアしようとあがく人が、「余りある神性な愛が、自分には与えられていて、守られている」ということを知る、そういうステップに結果なっているのでは?

例えば。

優れた「男性性」の例として、とっても素敵で、世界的な人気の、ある男性アイドルがいるとしましょう。そして、彼が生涯のパートナーとして選んだ女性がいるとします。

選ばれた女性は、男性アイドルの愛の対象、男性性を向けられることで、以下のようなシュチュエーションに遭遇するだろうことが考えられる。

自分以外の全てを失う
他者からの嫉妬心
他者からのエゴ
家族の見せかけの愛情
死のカルマ
自らの英知や勇気を他者のために使う
「陰」との対峙
自分に対する不信を手放すこと

……プシュケちゃんと一緒……これ…すごく、いや、かなり、過酷じゃない…??

その女性は、自分が優れた「男性性」の対象となることで、これまで持っていた繋がりの一部、あるいは全部を失い、ものすごい量の他者からの嫉妬とエゴを浴び、「誰が本当に自分のためを思って言っているか」を選び出すのが難しい環境に置かれる。あらゆる人が、あらゆることを自分に言って、絶えず自分を猜疑する心と対峙することになる。家族の愛の中に、信頼する人からの親愛の中に、場合によっては無自覚のエゴが入っていて、その側面を良く知ることになるかもしれない。もしかしたら自分の存在が、誰かの死、精神的な死を引き起こして、それを背負い続けなければならないかもしれない。

しかし、「猜疑」は、自分自身の力を他者のために使い始めることで、フェーズが転換していく。

自分の輪郭が、自分自身ではっきりと自覚できている場合。自分が、自身の闇と十分に向き合えている場合。「自分でふさわしいのだろうか」という、自分に対する不信を手放している場合。その人は、自分の神性を輝かせるステップを歩んでいる。自立した、素晴らしい女性に向かっている。

その道のりは、トータルでいつも天界からサポートされている。

それでは、優れてない普通の「男性性」の場合は、どうだろうか。例えば「友達に彼氏ができました」「職場の同僚が結婚しました」。

こういうものを本心から喜べない場合、逆パターンの、自分に向けられているシュチュエーションも考えられる。自分が誰かの「震える、情熱的な欲望」を得て、「嬉しい、私も大好き、幸せ」という幸福感とは別に、新しい、プシュケが体験した課題を、わたしたちは同様に対峙することになる。他者の嫉妬。家族の愛に含まれる別の側面。自分を信じるか、他人の言葉を信じるか。他者のために自分の力を使うこと。自分に対する不信と、それを手放すこと。

そして別のケース。自分に向けられた「男性性」が、ちっとも好ましくない場合。そこでもやっぱり、自分の感覚を信じるか、他者の言葉を信じるか。家族の愛に含まれる別の側面を見ることになるかもしれない。自分に対する不信。そして、他者のために自分の力を使うこと、自分に対する不信を手放すことは、必ずハードルになって立ち現れる。

ひとつ前のnoteで、わたしは「男性性」を、

「男性性」
=目的に対して、変化を与えようとするエネルギー。

と書いた。神エロスを、「震える、体の内部の身体的な感覚、外部の対象に対して自発的に起きるエネルギー」として、これが「男性性」を象徴していると考えると、「男性性」とは、「ある対象に対して、力を使って変化を与え、目的を叶えようとする」エネルギーだ、と考えることが出来る。「あの女性を自分のものにしたい」というのも、「獲物を食べるために捕まえる」というのも、「この会社でトップを目指したい」も、「海賊王に、おれは、なる」も、目的があって、ターゲットがあって、自分の力を行使する。それは「男性性」と呼ばれるものではないか。

となると、例えば母親が、自分の都合のために娘の行動や思考を、誘導したり、制限したり、強要する場合。それは「女性性」じゃなくて、「男性性」じゃねーの、となる。そして、どの場合の「男性性」も、それを向けられた人は、他者からのエゴや、嫉妬、偽りの愛や、自己の不信と対峙することになり、それらは自分の持っているものの神性を、必ず高めるのだ。

男性が、男性によって、鋭い攻撃性や競争心としての「男性性」を向けられることもある。この場合でも、プシュケちゃんが辿ったのと、同じようなプロセスを経験することになる。不思議だ…。そうだったのか…。自分に関わる人の愛情を精査することになる。自分の感覚の確かさを確認することになる。自分への不信に対峙して、手放す。他者のために力を使える段になったら、その行為はその人の人生に、自信と確信をもたらす。それらがその人の神性を、必ず高めている。

これらの道のりは、いつも神々からサポートされているし、それが「息」で「命」で、「魂」、生きているということなのか…。

天界から見たら、人々が、じたばたしながら、あくせくしながら、迷ったり疑ったり、恐れたりして「息」を、「命」を、「魂」を磨く様子は、それだけで十分愛おしく、十分神性に輝いて見えるのかもしれない。

どんな種類の、誰からの「男性性」も、自分の中身を神性にする。

「そうだったのか、そうかもしれない」と思ったら、どんな「男性性」も怖くなくなってきた。

つまり、どんな男性の「男性性」も、どんな女性の「男性性」も、怖く無くなってきた。

自分のどの感覚を信頼するか。自分に対する不信を安心して手放せるか。毎回、自分の内面と向き合って、毎回、内側にある信頼を高める。それが人の「男性性」と対峙した時の、毎回のゴールになる。


さて。

「男性性」について、大分パクチー内理解が進んだところで。

ということは、女性が、ある目的のために髪の毛を巻いたり、バストメイクをしたり、きれいな服を着たりするのは、そいつは「女性性」じゃなくて「男性性」だよ、という考えが浮上する。「仕事が出来ると思われたい」「婚活で勝てる」「好きな男を落とす」「女子会で優位になる」。目的のための女性らしさのバージョンアップは、目指すターゲットを獲得するための行動、すなわち「男性性」ということになる。男性が女性にモテたくて筋トレするなら、それは「男性性」の優位であることの象徴とみなされるからだが、女性が目的をロックオンして髪をつやつやに巻くのも、それと同じ、「男性性」だよ、ってことである。

社会に進出している女性たちが、自分の「女性らしさ」を、ある目的のためにブラッシュアップして身につけているなら、それは獲物を仕留めるための武器と同等だよ、ってことである。良い悪いではない。それが女性が自分の持てる「男性性」を行使する、ある一つの方向だよ、ということである。美しく磨かれた女性が、優れた「女性性」をお持ちであるとは限らない。そこで我々が見ているのは「女性性」ではなく、「男性性」だからだ。峰不二子が魅せてるのは、「女性性」ではなく、まるごと全部「男性性」である。

つまり、「ゆるふわ」とか「清楚系」とか、自分の好みであるからそうしている以外の「あざとさ」とは、武器の一種で、「男性性」なんだよ〜ってことである。

社会の中で、女性と男性がその能力を対等に戦わせている場面で、男性は男性からの「男性性」と対峙し、女性からの「男性性」とも対峙する。一方「女性性」は、現状を肯定する力で、受容する力で、攻撃性はない。一見美しい、女性らしい女性が、肯定してくれるんじゃなく、受容してくれるんじゃなく、「男性性」を向けてくることに、現代を生きる世の男性は、実は、しゅんとするんじゃなかろうか。

女性が、目的のために行使する「女性らしさ」は、「男性性」だよ。と、この理解が男女の双方にあんまり乏しいと、いろいろ混乱が、自分の中でも混乱が起きるのかな〜?という感じがした。己に向けられた「男性性」は、自分を鍛えるものである。男性からの「男性性」に負け、女性からの「男性性」に負け、「弱者男性」と自認する男性陣は、それが自分を磨くハードルだとして、ぜひ、他人の「男性性」で己を鍛えてもらいたい。自分の感じる感覚の部分を見つけ、自分に対する不信を手放す。他者のために力を行使する。そうすることで、自分の現在持てるものは高まるのである。


一方、「女性性」とは。

…こいつが分かんねんだよな………。


つづく!!


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