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お金で買えないものって何ですか

こんにちは!パクチーです。

わたしが、実はかなりスピリチュアルな人間だということは、あまり表に出さないように出さないようにしていたのですが、先日、自分で勉強したホロスコープにばーん!と、これでもかと、スピリチュアルなメッセージばかりがぞろぞろ出てくるので、

…驚いてそのまま出しちゃったよ。

え?全然隠せてなかったって?

10年くらい前かなあ。わたしがまだ東京に住んでる頃、一時期、結構がっつりとスピリチュアル界隈を勉強している時があったんですよ。死後の世界がいくつかの違う文化圏で、同じような構造で構築されているらしいことにある時気が付いた。死後が「ある」とか「ない」の次元を超えて、現代ではここまで死後の世界について、世界レベルで明らかにされてるのかあ!と、いうのが、単に物語として面白かったのだ。

しかし、どれだけ知識として取り入れても、それがどんなに興味深くても、「世界はこういう構造になってるよ」「死後の世界の方が本当はメインだよ」と言われても、自分の現実のリアルな生活の中において実感がなかったら、「へー、そう、そういうこともあるかもな」。で、何も変わらない。

攻略本だけ見て、そのゲームを理解したか?というと全く別の話である。

そこで、わたしは一旦スピリチュアルな方面の探求を掘り下げることを止めた。スピリチュアル、つまり、「現実って、目に見えないけどこういう仕組みになってるよ」、その中から、自分が「何となく分かった」と思えた基本的な部分を取り出して、わたしは、実生活の中でひとつずつ、書いてあることが本当に真実なのか、仕組みを利用して現実を変えることが出来るのか、実践していくことにした。

と、書くと、何やら知的で高尚だが、実際はその時点の自分は何もかもが上手くいかなくて、特にわたしはお金のことが昔から全然理解出来なくて、それでも社会人としてお金を獲得し続ける手段がなくては生きていけない、つまりお金が「生存に不可欠」とされていることが、どうしても腹落ちしなくて、自分が不可解で苦しくてしょうがないお金のロジックに生きようとするよりも、未知のスピリチュアルなロジックの方が、まだ良い風が吹いているような感じがしたのだ。つまり単に社会不適合です。そういう人は、表現の世界にはたまにいる。

稼げないんだけど。自分以外のものになったら、もっと可能性はないって思ってる。

 金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。金は現実ではない。
 金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。脳の場合、刺激が目から入っても耳から入っても、腹から入っても、足から入っても、全部、単一の電気信号に変換する性質を持っている。神経細胞が興奮するということは、単位時間にどれくらいのインパルスを出すか、単位時間にどれだけ興奮するかということです。
 (中略)結果として、経済の世界には、実体経済に加えて、ほかの言葉がないのですが「虚の経済」とでもいうべきものが存在している。虚の経済とは何かというと、金を使う権利だけが移動しているということです。(中略)
 『貨幣論』(筑摩書房)のなかで岩井克人氏は、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」と書いています。金には何らかの価値の根拠があるわけではない。その金が何で通用するかというと、私が使った一万円を貰った相手が同じ一万円として使えるという思い込み、でしかない、ということです。次に、その一万円を受け取った人が相変わらず一万円として使えると思っているという、「と思っている構造」の中で通用している。これは実は裏付けがない。だから、別の言い方をすれば、紙幣の発行には限度がない。「と思っている構造」が成立する以上は幾ら刷ってもいい。

養老孟司著『バカの壁』

わたしは20代、アーティストになりたかった。

自分の持てる能力を全て総動員して、

「あなた、鉄骨の入ってないマンションに住んでるよ」

って言いたかった。だから意地悪がしたかったんです。悪意。

これは、なぜ自分がそれをしたかったかというと、大声を上げて注目を集めて、人々に往復ビンタを食らわせるようなこと、それをなぜ自分の役割だと思い込んでいたかというと、自分こそ、鉄骨の入っていないマンションに住んでいて、そこで大人にならなければならかったのが何より不安だったからだ、と、最近気が付いた。

地に足がついていない恐怖。

その後、わたしは育った東京を離れて、自給力のどえらく高い、島民の60%以上が農民の島に移住するのですが、開発から取り残された、この風光明媚な島で、

おいしい空気を吸って、吐いて、るうちに、

わたしの恐怖はすっかり取り除かれたのだった。

地に足がついている。地に足がついている…!わたしがずっと欲しかったもの。アートで決して手に入らなかったもの。アートが与えてくれなかったもの。結局、この「地」、よりアートで、「地」、より美麗なシステムってないんじゃない。敵わないんじゃない。「自然」。だから、ちっぽけなわたしは完敗なんです。何も表現したいものがなくなって、田舎に来て、完敗で、こんなすごいものの前で、何も作るものがなくて、ただお料理、お野菜に火通して塩かけておわり。気の合う人とふたことみこと交わして、子供の今日の成長を聞いて、お風呂入って、終わり。おーい!!おーいい!どうするよ!!なにすればいい!!聞こえますか!!!

BTSのRMくんが、韓国の国防部遺骨発掘鑑識団の広報大使に就任したというニュースを見た。

(Bang4さんのnote、参考になりました、ありがとうございます。)

発掘鑑識団の団長さんが「Spring Day」の一節を引用したらしい。おっ…?そ、それは引用していいのか……?

BTSの、彼らのデビュー曲から始まり、いくつもの曲に込められていたのは、「社会に対する怒り」で、しかし実際は「地に足のついてない恐怖」、この、鉄骨の入っていないマンションのような社会で、大人にならなければならないことに対する不安、だったのじゃないだろうか。「これ、崩れたらどうなるの?」…そうです。わたしはいつも主観で語ります。わたしに客観はありません…!彼らの不安とわたしの不安が、「同じわけがない!」そうかもしれません。でもわたしは同じに感じている。

「貨幣とは何か」。自分の言葉で説明しろと言われたら、ふつう人は説明できるものだろうか。アートの世界に片足入れようとした当時、「貨幣とは何か、きみは説明できる?」、問われて以降、わたしは、自分の問いとして長い時間持っていた。

貨幣とは概念だ。「これは一万円」と、わたしもあなたも信じている。それだけ。その「概念」を、より効率的に奪い合う為に、韓国の若者たちが自分の人生の時間をまるごと注ぐ。深夜のコーヒーショップを毎晩受験生が埋め尽くす。入社試験のために整形する。人々は、概念のかたまりをアイデンティティにする。それを目指して人生を構築する。じゃあ、その鉄骨の入っていないマンションが崩れた時、その人の人生はどうなるの?都市でインフラが、ある日突然止まったらどうするの?誰が、一体何日生きられる?【Spring Day】。有事の時こそ、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」、つまり「貨幣」であるという以外に意味がないことを、皆んなはっきり悟るだろう。デフォルトしたらどうなるの?「貨幣」が「貨幣」であるという以上の価値を持たなくなった、その瞬間、船が沈みつつあるその瞬間、大人は子供を助けなかった。大人に責任を負う能力は備わっていなかった。「この」社会は、そういう風に人間を成長させていない。誰が生き残り、誰が犠牲になるのか…この船に、本当に乗っていいの?このマンションに、どうしても入居しないといけませんか?この世界の中で大人になることが、わたしは不安で不安でしょうがない。

経済には「実の経済」と「虚の経済」がある。「虚の経済」のために自分の大切なものを差し出し続けることには不安がついて回る。

一方、「実の経済」の為に働く場合、そこにはエネルギーの循環、エネルギーの交換がある。

ここには地に足のついている安心感がある。

RMくんとSUGAくんが、デビューして10年を控えて、「本当に言いたいことがない」と言う(と言いつつ、全然書いてると思うんですが)。彼らの不安は今、もうほとんど解決されているのではないか。「虚の経済」の中で大人にさせられる不安を、もう感じなくていいようになっている。だって彼らは、既に人生何回分を生きられる財を、ばーんと寄付しても待ちきれないくらいの財を得ているし、例えアイドルでなくなったとしても、世界中のクリエイターと協働して生きていけるだけの、無から有を生むスキルに自信を持てている。彼らが今持っている「クリエイターとして、実の経済で生きていける」という実感は、地に足をつけた安心になっているのではないか。

遺骨の発掘とは、経済の理論とは真逆の事業だ。経費があって利潤を生まない。HYBEが企業としてがめついか?わたしには分からないけど、BTSが企業の収益に、今後、今までのようには貢献出来なくなり、Weverseが現行有料に耐えるサービスな場合、「せよ」というのは、いかにも株主が言いそうではある。

そんな時。いわば経済のサイクルから取り残されている事業、「虚の経済」の反対側、華やかさの対極にある事業に対して、「自分たちの理念と合致している」、と、このRM氏は、言ってのけるんだわ…。

「虚の経済」で回る社会の中で、しっかり両足を地につけ、安心している彼が、何をするかと言えば、

「虚」でも「実」でもないもの、
重い、見えないけどそこにある現実を
無かったことにしない、
言ってみれば、「負」
あるいは「カルマ」

そこに着手するのか…。

わたしの中学・高校時代のクラスメイトが、大学生の時、シベリア抑留兵の遺骨を発掘する遺骨収集事業に、ボランティアで参加していた。今、改めて考えてみると、何が女子大生の彼女をその使命に駆り立てたのか、いろいろ引っくるめて本当に、心から大変な、難しい事業であると思う。亡くなった方の遺骨を日本では「柱」と数える。「上手く焼けると、骨ってすごく綺麗で感動するんだよ」。森の中にある埋葬地へ、現地の人の情報や生存者の話を手掛りに赴き、掘り起こし、そして現地で荼毘にするのだそうだ。彼女の見せてくれた小さな画面の写真に、精密に積まれた組み木が、等間隔に、いくつも炎の柱になって並んでいるのを、だから「柱」、と、妙に腑に落ちたのを覚えている。この事業は後に問題が発覚して、現在ロシアでは行われていない。

前述のリンクのnoteには、RMくんが任命された式典の様子の動画も埋め込まれているが、ここで流れるプロジェクトのPR動画がとても良く出来ていた。彼が広報を務める事業について、端的に分かりやすくまとめられている(人骨が高頻度で映るので視聴注意)。団長さんによれば13万人が発掘されないままであるという。ちなみに韓国で行われている遺骨の収集は、友人がボランティアでしていたのとは別レベルの規模でして、専門家集団によって行われているようだ。

RMくんの思いは、動画のスピーチでより良く伝わった。

朝鮮戦争を説明する長い長いwikiの文面を読んで、RMくんが自国の、育った環境の中で感じてきた影響はもちろん、それに加えて、韓国のアート、自室にいくつも置いている、その絵画が生み出される背景にある朝鮮戦争が作家の魂に与えた影響を、日頃RMくんが感じていないわけがないので、だから彼は「遺骨が家族の元に還れない」ことの意味を、自分の延長線上にある痛みとして、感じることが出来るのだろうと思った。

朝鮮戦争についてのwikiを読んだ後で思うのは、「韓国はこの先何をアイデンティティにしていくのだろう」。個人的な感想だが、それは結構難しい問題なんじゃないかと思った。歴史の中で無限に繰り返されている、体制に反発する。粛清する。そして?獲得した覇権で何をするか。人々をどこに導くか。その絵は一体どこから得ることが出来るか。

RMくんのような、国際的に訴求力のあるビジョンを持てる人材は、もしかしたら韓国の歴史の中で非常にセンセーショナルな事なのかもしれない。彼は自分の国の地域性を愛するために、正しく自国を認識しようとしているように見える。そしてそれは、彼自身の問題、「自分が何者で、何をして生きる人間か」を、彼が適切に自分で理解していくことと、不思議なほどリンクしているように見える。

韓国が、自国を自国民が統率して、何をするか。そのゴールが「国が豊かな状態」なのだとしたら、それは一体どういう情景か?

つまり、「豊かさとは何か」?

自己の正しい認識があって、
アイデンティティがあって、
「自分は何をする人なのか」。

そして同じプロセスを経て獲得する、

「この国はこれまでどうあって、今後どうあるべきか」。

わたしが移住してしばらくした頃。

わたしは、とても大きな、自分についての発見をした時があった。それは、わたしは、「お金の為に創作が出来ない」ということだった。「クリエイター」と「収益化」は、割とセットで語られるじゃない。わたしも、まあ、自然とセットで考えてたよ。

わたしは自分を器用だと思っていた。多少ソフトが使えて、多少絵が描けて、たまに頼まれてフライヤーやWebサイトを作った。「素人だから、安く頼めると思われてるのかな」。でも自分の持ってるスキルが、ちょっとしたお金になるのは、有難いことだと思っていた。絵を描くことも好きだ。

ところがある時。良く知らない人、共感しない人のために創作するのが、非常に苦しい、ということに気がついた。苦労の割にいいものにならない。作業が進まない。額に見合ってないような気持ちになる。「これ…いくら貰えるとしても、全然やりたくない…」…ああ!これはプロじゃない!どうあってもプロのクリエイターにはなられん……!!通りでな…!薄々勘付いてたけどな……。そして、これは先方のためにも引き受けるべきじゃない、と思った。

自分のことをそう理解してからは、ギャラのあるなしに関わらず、それが、大好きな人だから、大切な人だから、尊敬する人だから、それをさせてもらえるのが自分にとっても喜びだ、そういう場合にのみ、お受けすることにした。ギャラは提示された分を頂戴することにした。「この人のクリエイティビティに、自分の一番ポジティブな部分を添えよう」。そう思うようになってから、「自分は不相応に貰いすぎてる」と感じることもなくなり、それ以降、頼まれごとで悩むことがなくなった。

そして。

我が家はパン屋さんである。

ある時、友人夫婦に頼まれて、1歳になる彼らの娘ちゃんのために、一升パンを作ることになった。

わたしはその娘ちゃんのイメージを切り絵にして、粉でパンに絵が描かれるようにした。

これ以降、知人に限らず、度々一升パンの注文をお受けするようになる。

注文してくださった方の赤ちゃんに会って、そのお子さんが発してるものと、お名前に込められたイメージと、そのお子さんが、この先、全てのものに祝福されて、植物や、光や、土や、鉱物や、水や、天体や、何かがいつもサポートして、望むように育ちますように、そういう祈りをひとつの絵柄に込めることを、わたしはどこにも自分に嘘を付かずに出来た。

ある時、instagramで遠方のお客さまから問い合わせがあった。投稿されている写真にはどれもお子さんが写っていて、全て、あるトーンに素晴らしく統一されていた、服装、小物、背景…、

お母さんの意識が強すぎて、全然お子さんの情報が入ってこない…、

どうしよう…全然浮かばん…

その中に、一枚だけ生後100日記念の、裸ん坊の写真があった。それを見た時、初めてその子とパスが繋がって、わたしはその子に訊いてみた、「きみ、本当はああいう服、あんまり好きじゃないんじゃない?」「きみは本当はどういう子なの?」

そしたら、ぶわ〜〜〜とエネルギーが入ってきて、

「おれ、お母ちゃん、だいっすきやねん!」

ただただ、それだけだった。

ああ…そうかあ、そうだよね。その通りだね。お母さん、大好きなんだね。お母さんが着せてくれる服も大好きだよね。お母さんが君のために選んでくれたおもちゃも大好きだよね。そうだね。

泣いてた。

その絵はすごく上手くいったんだが、その後、お子さんの写真だけ送ってもらって受けた注文は、実際にお子さんに会って作る絵柄より、どうしても情報量が少なくなってしまう。まさか「裸ん坊の写真を送って下さい」と言うわけにはいかないし…。

何度か作ることを経てのち、一升パンの注文は、店頭に来て注文して下さる方のみ、お受けすることにした。

これらのことがあって、初めて、わたしは自分のしていることが何なのかを理解したのだと思う。

ふつう、こういうことがあれば、「テンプレートをいくつか作って選んでもらって、お子さんの名前だけ変えればいいのじゃないか」と、考えると思う。だけどわたしは「多分、それではカッターが動かない」と思ってしまう。わたしは下書き無く紙を切る。絵は自然に浮かぶ。あとは手が勝手に動く。「この絵はあの子の絵だ」と思っているのに、違う子に転用して、手を動かすエネルギーを無理に歪めたら、多分、手は絵柄のバランスを成立させられない。

これはデザインじゃないから。

これはデザインじゃない…。わたしがしているのはデザインじゃないのか……!

わたしがしているのは、自分がパスをつなげることの出来る限られた人との、「協調」だった。わたしのクリエイションは、対象も、用法も、ごくごく狭い範囲に限定して、初めて発動する。わたしは、大切な人、好きな人、祝福されるべき無垢の存在、に限定して、彼らと自分の波長の合う部分からインスピレーションを得て、「貴方の周囲に愛がありますよ」ということを、具体的な象形にクリエイトする場合にのみ、発動される。

そういう、ものすごっっっっっっく、限定されたクリエイティビティだったのである。

ピタっと条件を合わせられたとき、わたしは迷わず短時間で、全てを忘れて創造出来る。どれか、何かがずれると、まったくだめ。無気力。

難しい子………。

ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化し続けています。
 (中略)生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけれども、情報というのはその中で止まっているものを指している。万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。それはイコール情報が流転しない、ということなのです。
 流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。

養老孟司著『バカの壁』

noteは書くことが好きな人がたくさんいる場所だと思うのですが、「書く」には二種類ある。流転し続ける「自己」の体感するものの中で、自分が「真実だ」と思った感覚を、「言語」という「情報」に置き換える。それは、ある瞬間の真実を、永劫変化しない形で残すことが出来る行為だ。

どれだけ自分の今を感じ取れるか。そこからどこまで本質を抽出できるか。そして一番壊さずに置き換えるには、どの表現を使えば良いか。

例えばnoterのakkiy☆さんは、「寝ている間も成長なり老化なりして変化し」続ける「人間」の、厳密には二度と再現されない、ある瞬間の美しさを、絵に置き換えることで、永遠に残しているのかもしれない。

人によって、それが詩であったり、作曲であったり、立体であったり、空間芸術であったりするのだろう。

自分とは何か。自分が受け取ってきたものは何か。常に流転し続ける自分が見ている、ある一時の景色、その中で最も純粋な部分を、自分を媒介して永遠に残す。これまでRMくんが創作してきた経過は常に、何から何を感じ、何を本質だと思うかという、RMくんが思考しながら獲得してきた「自分」の総体だ。そして、あるレベルまで彼が彼自身を理解すると、「言いたいことが何もない」。

その先には「その自分は、何のために、何をするのか」がある。

それが今RMくんのいる場所なのかなと思う。

「お金」が動くのは結果で、思いの本質と、その強さでしか、彼の人生を動かせない。

わたしは今、お金で買えないものは「循環」だと思う。

つながり。風光明美なこの田舎の島も、バブルの時は開発の計画がいくつかあったらしい。そしてどれもストップしてしまった。何故か頻発する不可解な事故、怪奇現象…。

「ここは神様の島だからね〜」

と、島の人は言う。ほ、本当ですか?事実?「島」の意にそぐわない計画は上手くいかない。の?そして今日再び、開発に名乗りを挙げている都市の企業がいくつかあるらしい。今のところ、どれも上手くいっていない。

人間のエゴが強すぎると、上手く行かないのだろうか。

「島」の意とは?

今ある、暮らしの中で島の人の持っている、人同士のつながり、水脈、生態系の循環。大規模な開発で山を削り、海を汚し、人の生活を変え、切ってはいけないつながりを、「お金」、で切ってしまうと、切れた部分は淀み、腐り、死んでしまう。今の美的価値観の為に整形して、切ってはいけない経絡を切ってしまうと、その部位は淀み、腐ってしまう。そこがまた新しいつながりを獲得して、また元に準ずる状態にまで戻るには、大変な時間がかかる。

自然に構築された、今機能している循環。

その循環のハーモニーが生み出しているエネルギーは、お金で買えないんじゃないか。

つながりを、より有機的に、リズミカルに、循環にパワーを与える変化は、島にも後押しされるのではないか?とわたしは思ったりする。

エネルギーが循環していることを、ふつうの人は目で見ることが出来ない。少なくともわたしは見えない。しかし目に見えないはずのエネルギーの循環を、最も近似値で可視化、物質化したのはお金であると思う。お金はエネルギーの一形態だ。

エネルギーに対して感受性が高まってくると、「この10万円と、あの10万円は違う」という、体感を得る時があると思う。貨幣としての価値は同じ、それとはつまり養老さんの書かれた「全部、単一の電気信号に変換する性質を持っている」と同義だ。ただそこに乗っている「想い」が違うんである。

そういうことを通して、自分を理解していく「修行」に、お金はとても厳しくも面白いツールなのかもしれない。自己を知り、自分の発しているエネルギーの質を知り、それが「何のために、何をするため」ならば、より、高品質に放出できるか。

それを知っていくのが、人生の第二部なんじゃないか。

そのフィードバックが、実は「お金」だったりもする。

ということで。

最近のパクチーは小難しいこと考えてるんすよ…。頭疲れるよ〜…。今そういう月間みたいです。

もうちょっとで一区切りが付くような気がします。


それでは、また!




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