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女と男ってどうして分かれてるんだろう②

改めまして、パクチーです。

とっても大層なタイトルがついてるんですが、全く、学術的でも何か統計的でもなく、わたしのnoteにおいては毎度のことなのですが、ただただ、わたくしの体験と内なる気持ちの、内省の過程を、このテーマで少しずつ明文化しながら自分が理解しよう、という内容でございます。

続き。

わたしはこの2年、自分の「女性性」をもっと良きものとして愛おしみたいと感じるようになり、それは自分の中の「男性性」と「女性性」を、もっといい感じに融合させたい、ということでもあった。それは、うまく進行しているようでもあり、しかし融合し切らない葛藤がある感じもする。

では、一方の「男性性」について、わたしが理解を深められることが、何か、あるだろうか。

わたしは、現代において多数の女性にパワーを与える「男性性」の代表として、男性アイドルを通して知れるものがあるのではないかと考えた。そこで、大好きなBTSの弟分的アイドルグループ、Tomorrow X TogetherことTXTさんのステージを見ることにした、が、

やっぱり最後まで見れない…。

理由を考えてみた。

エロすぎる…。


エロスは男性に属するものでおk?

ちゅうてもこれ、全くわたしの個人的な嗜好なので、こんなこと言われても皆さん困ると思うんですけど、TXTさんの表現のデザイン?というの?は、わたしにとってはエロスの、鋭角がタイトすぎるんですよ…!!!い、息が出来ねー!止まる!!

例えば、わたしくしとどなたかの間にエロスどぶどぶのずぶずぶの瞬間があったとして、それって空気感としてはシリアスに属すんだわ、わたしにとって。一瞬一瞬が緻密に構築されていて、呼吸すら気楽に出来ない。だけど、もし、例えばそこで鼻毛が出てたら、「あははっ!」って笑いたいのよ…!実際に笑えるかどうかは別として、笑っても強度を失わないタイプのエロスが、わたしにとっては理想なんだ。…って、今書いてて分かってきたけど、エロスを通して暴かれる自身の未知なる部分に対して、「これが開示されたら相手はこれを好まないかも…」という、自分と相手に対する不信による緊張感が、余計息苦しいのかもしれない。ちょっとの緩みも、隙間もなく、密度の高い情報量で構築されるぎちぎちの空間。

息するのも、憚られて、無呼吸で、苦しくて、

…苦しくて、タブを閉じてしまう…。息がしたい…息しないと死ぬ…。

TXTさんに全く落ち度はない。彼らは、彼らになされているディレクションを、素晴らしく発揮しているだけでありましょう。対してBTSのジョングクくんの【Seven】が、ユーモアのおかげでわたしは気楽だったのは、イコール「息をありがとう」ということだったんだね。皆さんも【Seven】のダンスのエロスがTXTさんとは全然違ったタイプのデザインがなされていることにはお気付きだろう。MVもしかり。このユーモアに救われたんだけど、ユーモア!ありがとう!それ好き!…が、そもそもTXTさん的ああいう少年耽美系のエロスは、もしかしたら日本で成立したジャンルである可能性も無くはないんだけどね。今「高畠華宵」氏しか思い出せないんだが、「美少年・半ズボン・制服・包帯・血痕・半眼」=「エロス」みたいなジャンル、昔の日本に、かつてしっかりくっきりありましたからね。美少年=濃〜〜〜〜いエロスの、本家本元は古代ギリシア先輩ですかね。長い人類の歴史だよ。「エロス」がまずギリシア語だしな。こちらは「健康」が前提だと思うが。

ユーモア。

ダンスのリアクション動画から、このコラボレーションを発見。あああッ!東京ゲゲゲイのMIKEYさんッ!

14分42秒からコラボダンス開始(23分06秒から固定カメラバージョン)。BE:FIRSTさんについて、わたしはパクチー妹からちょこっと聞いたことがあるくらいで、良く知らない。「最年少の子が頑張ってるんだよ!」。そしたらコラボは、その最年少のRYUHEIくんの希望によるものだったらしい。

もー、
あーもー、
すげー、

ほっとする!!!!


エロス…?ではなくセクシーさか?セクシーでほっとするって何だ。あとここ、このお二方は生物的には男性である。女性?男性?…的表現?のボーダーをバキバキのぐちゃぐちゃに超えて、美しく、何者だか分からない感じで存在して下さってることに、わたしは、何だか分からないが、めちゃめちゃ救われる…んだな…!

お二人は、何か「女性性」が持つ美しさを取り出し、それをくっきりはっきりコントラストをつけて表現することを、このシークエンスで成功させている。と、いうようにわたしには見える。この表現者が男性で、ユーモアが混ざってることで、何か、息のできない緊迫感が抜けている。単に形と動きの美しさをくっきりと浮き立たせている。「今のところ女性に主にあてがわれている、こういうシルエットって、美しいよね!」に対して、「はい!美しいっス!」と、すっかり素直に受け取ることが、わたしには出来る。というような。そうなの?

つまり、セクシーの表現が、対男性でもなく、対女性、でもなく、単に表現として、他の、いかつい、奇妙、など様々な表現と一緒に、「特別なもの」でなく、いくつかの表現の一つとして、等しくイーブンに扱われている。

しかし…。今、こんな大きな会場の、ダンスが主体のイベントが実現し得る、ということを、わたしは全然知らなかったよ。「ダンスで人は集まらない」というのが、わたしが舞台に関わってた時のセオリーだったので。このイベントの実行はSKY-HI氏によるもので、彼はアイドルグループAAAの元メンバー、そしてBE:FIRSTのプロデューサーである。と、こりゃ基本ですかね…やっと世間に追いついて来てますか…?

このインタビューで、日本の音楽ビジネスの仕組みが、ほんのちょっとだけ分かる。SKY-HIさん自身に、なぜアイドルグループをプロデュース必要があったのか、現行の仕組みのためにアーティストが不自由になっている部分を、BE:FIRSTというチームを実際に動かすことを通して、彼は現状を良く変化させていける、と、その為に必要な手段が、彼には何となく見えてしまうのだろう、と察し。

この動画で「XG」というグループが話題になる。そのプロデューサーの「サイモン」さんについてSKY-HIさんが、「自分同い年なんですよ。で、元アイドルなんです」と。XG?前に一回MV見たかな…?日本人をプロデュースしているK-POPの元アイドルが、こうして今、アイドル業界に風穴を開けようとする日本の元アイドルと同い年…。なんか、時代をガッコンガッコンと変える音が、聞こえてくるような…。


そして見た、「XG」が持つバランス

俄然「サイモン」さんに興味を持ったわたしは、サイモンさんについて調べ、SKY-HIさんも見たというドキュメンタリーを、わたしも見てみることにした。

アイドルの誰もにプロデューサーの素養があるわけではない、はずだけど、こうなると「アイドル」が持つマルチなポテンシャルの高さが、もう…言葉を失うわ…。芸術スキルの高さ。視野の広さ。社会派的視点。人を育てる愛情。教育者としての平等性。人格の安定。

XGの認知、あるいは話題性ってどのくらいなんだろうか?

ドキュメンタリーを見て、わたくしパクチー、洗濯機でまる洗いされた…何度もびしょびしょに洗われたパクチーが、そこにいた…(本編のプロローグはEP XX。現在6話まで公開)。

公開されている動画全部を見たわけではない。だが、わたしがぐっと感動したのはこのプラクティス動画。

そうだよ…女の子の可愛さって、本当はいろいろじゃないですか…。

パクチーは女子校出身なんだけど、すごく女子校の感じがした。彼女たちから読み取れる表現は、「男性目線」の基準が、「分かっているけどそれほど優位ではない」、ように見え、そこが女子校っぽく感じられるのかもしれない。「何が好きで、何が心地よいか」。本来それは主観で、多様だ。また、タレントフルで愛おしい存在としての女子の、造形の多様さ。すなわち「美」の多様さ。

これを見ているうちに気がついた。K-POPアイドルで女子が、ダンス動画でいつもどうしても上半身がタイトで、臍が常に出ていなければいけないのか。髪が長くてばさ〜っとしてなくてはいけないのか。に代表される、彼女たちが許可されている範囲のあまりの限定的な、狭さ、に、わたしは、自覚していなかったが、ものすごく抑圧を感じていたらしい。

…抑圧を通り越して、怒りかもしんない。

まあ、現実には、研究生のダンスをする時のユニフォームが、そもそもブラトップであり、スパッツであり、ダンスの修正がしやすいように臍も出してるのがデフォルトなのだと理解したが。しかし。それでもさ!XGちゃんのプラクティス動画で、全く体のラインが出ない、だぼだぼのシルエットで、それでも良く分かるじゃないッ、十分あまりあるじゃないのッ…女子の可愛くて美しきことが…。

つまり、これは、誰に向けた可愛さか?

誰に向けた表現か?

K-POPの女性アイドルは、簡単に言うなら男性から見て「彼女にしたい」の最上級のお手本で、それは女性からのニーズでもある、というのがわたしの理解だ。だからどれだけ自由を、強さを謳っているように見えても、韓国の一般的感覚の「アリ」の枠から出られない。そしてその「アリ」の範囲は、日本のようにはバリエーションが広くない。

このMVで提示されているアイドルのスタイリングは、わたしは、もう、ここで、ぶっちぎりで、ずば抜けて、規格外で、「洗練されている…!」と思っっちゃったんだけど、どうでしょう。ここに出てくる可愛さは男性目線じゃ、完全にない。ここに出てくるジャンルの多様さ、カルチャー、複雑さ、レイヤーの多さ、マニアックさ、オタク的カルチャー、チープさ、ラグジュアリーの品位…が、非常に日本的で、そのことがますます面白く、「海外から見た日本」を、むちゃくちゃ高いクオリティで日本から発している、というように見える。大変に興味深い。メイクもスタイリングも、むちゃくちゃ可愛い!!でも絶対合コン受けしない。このMVに登場する女子たちとお近づきになりたかったら、これに準ずる文化レベルのカルチャーへの造詣と親愛があって、それでもって初めて、中身の、美女の、生身の心に、接せられるわけなんだわ…。

パクチーが感動した極め付けが、スタイリングで話題になったらしいこれ。

バケットハットで顔が分からず、しかも全員同じ衣装。こりゃ革命じゃねーの?!むちゃくちゃ攻めてる。カウンター。ううむ、あるいは攻撃的…。K-POPにおける「女性の美」に対する壁を、大砲持ってぶち壊しに来てる…。

でもパクチーは、ほんと、いや、まじに感動したよ。見ていて「チャドル」という言葉が浮かび、女性の美しい部分、髪、目、肌を隠しても、明らかなのだ、彼女たちの美は…と…。同じ衣装で個性を隠しても、よく見ればこんなにもひとりひとりが違う存在で、見ればそれがくっきりと分かるんだ、と。

隠されたとて隠れないのか。7人の女子が、それぞれ違う美しさを持って、7つのあり方で展開している。

それはなんて豊かさだ。

K-POPの女性アイドルのダンスが、もう、本当に「女性アイドル」というダンスのカテゴリから、どこまで行っても抜け出せないように見えるのに対して、XGは「女性アイドル」の範囲を超え、「マニッシュ」まで行ってる。それは使える型の多さであり、女子アイドルに課せられてる制限の解除、イコール、受け手が受け取る表現、印象、メッセージの、範囲が広がるということであると思う。

しかし…それにしても…この、ものすごいレンジの多ジャンルの表現を、咀嚼して、飲みこんで、自分の内側から説得力を持ってアウトプット出来る、彼女たちの柔軟さ。海のような広さ。全然頭が固くない。

彼女たちの中に育っている「女性性」とは、一体どんな感じなんだろう…。そんなの分かる訳無いんだけど…。そしてそれはまだ始まったばっかりなんだ。と、わたしは今なぜか感じる。

K-POPで女性アイドルの中に、今、ガツンと強力に現存する、小さく強固に保持される「女性性」。それを目の前にして、XGの彼女たちはどれだけ自分たちの良さを、柔らかく、変質させずに、保ち続けられるのか。


「男」は抽象概念になってしまうのか

養老孟司さんの本にあった、免疫学の多田富雄さんという方がおっしゃった、「女は存在だが、男は現象にすぎない」という言葉。この意味がわたしにはさっぱり分からないのだが、今、彼女たちの成長とこの言葉が関連があるような気がする。

ネットで見解を漁ってみると、つまり生物として、女は、卵子が受精した時から死ぬまで生物学的に「女」だが、「男」は女性型を無理くりいじって変形させて起きる、「現象」だ、という意味だと考えるのが、まあ適当そうに思えた。男児の胎児の7周目以降に、男性ホルモンが働かないと、その胎児には女性の生殖器が出来る。

つまり、女は最初っから終わりまでずっと「女」だ。

であるなら、無条件に「女」である人に対して、その人が「女性」であることと、「女性性」は、分けて考えるべきであるように思えてくる。

…こういうこと?


うーんと、多分間違ってると思うが、人間をPCで例えてみる。今わたしに生まれたイメージは、人は皆、生まれた時は、女子は空のデスクトップ、男子は空のタブレット、です。基本の性能はデスクトップを母体としている。そして、とある大きな機能をカットしたことで、利便性を上げた、タブレット。とある大きな機能とはもちろん「子を生む」であるが、生物の作りとして、機能として、構造上この差は正直デカいよね…!ここでは、CDやDVDを差し込めるかどうかとでも思ってくれ。

どちらも、空っぽの状態で生まれる。そして、アプリを搭載しながら成長する。

この時に、「デスクトップにはよくインストールされるけど、タブレットにはあまりインストールされないアプリ」っていうのがあって、そのいくつかが、「女性性」というカテゴリに属するアプリ、なんじゃないか……!

代表的なのが、「介護」とか「育児」とかですかね。あるいは「料理」とか「掃除」とか「家事全般」。だけど機能的にはタブレットにもこのアプリは搭載可能なわけで、そのことはこれらを専門職にしている男性が十分多数存在していることで証明されている。

「女は存在だが、男は現象にすぎない」について、男性が理屈や議論、ロマンや名声を求める傾向にあることを、女性にとってそれらは現実ではない、男性は子を生まないので、そんくらいしかすることがない、と解説するものがある。確かにそれらには実態がない。枯れかけた苗木に理屈を説いても、蘇らない。存在に対してそれらは、今、目の前の現実に、物理的な影響を及ぼさない。

ここで「理屈」「議論」「ロマン」「名声」も、アプリだと考えてみる。そして「育児」もアプリだと考えてみるとする。と、これらはどれも、超メモリ爆食いアプリなんだよね!1日あたりの自分の、80%くらいを、優に使ってしまえる。「育児アプリ」を搭載しない男性に「ロマン」「名声」を十分フルスペックで活用できる余地はあるけれど、女性がどれもを積んで、どれもを機能させるのが難しいのは、そういう部分なのかもしんない。それぞれが、ものすごくメモリを食う。

…あ。
ということはだ。

男性も女性も同じアプリを搭載できて、ハードの機能が違うだけとする。ならば、男性は、アプリの並びに加えて「俺は、男だゾ!」と言っているだけの「現象」、つまり「男」とは、概念の中だけに存在している抽象、ということになってしまう…。

デスクトップを「女」とするならば、タブレットは「女’」…?

「女’」を、「男」と呼称されるようにするならば、特定のいくつかのアプリがインストールされていて、かつ一定以上機能している必要がある…?

それが、「男性」……??!


つづく。



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