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【レポート】BUG Art Award関連トークイベント「アーティストのための近代美術史~過去の芸術家たちの挑戦から見えてくること~」横山由季子×末永史尚(3.24開催)

みなさんこんにちは。
株式会社リクルートホールディングス BUG Art Award事務局です。

3/24にアワード関連トークイベントの初回、「アーティストのための近代美術史~過去の芸術家たちの挑戦から見えてくること~」横山由季子×末永史尚が開催されました。この記事では、トークのアーカイブとして、全文書き起こしで内容をお届けします。トークに参加できなかった方も、もう一度内容を確認したい!という方も、どうぞご活用ください。

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【読み切り時間目安:20分】

公募展と審査制度

横山由季子さん(以下、横山):横山と申します。よろしくお願いします。今日のテーマが「アーティストのための近代美術史」ということで、自分でもかなり大きく出てしまったなと思い、準備の段階でもプレッシャーに襲われたのですが、今日は限られた時間なので、これまでの美術史を全て網羅するというわけではなく、副題の「過去の芸術家たちの挑戦から見えてくること」とあるように、あくまで芸術家の視点から見る美術がどういう風に生まれて、今につながっているのかということをお話しできたらと思っています。まず前半は私が中心となって、いろいろな事例をお話して、後半は末永さんに現代のアーティストの視点で自作についてを含めながらお話をしていただこうと思います。
本日、会場にはさまざまな世代の方がいらしてくれていますが、物心ついた頃には美術館があって、展覧会が開かれていて、ギャラリーもあって、公募展もたくさん開催されていて、美術を取り巻く制度は多様化して身の回りにあったと思います。まずは、それが一体どのように生まれたのか、ということを私の専門であるフランスと日本の事例を中心にお話していきたいと思います。その中で、過去の芸術家たちは既存の制度の中でどのように闘い、作品発表の場を獲得したのかが見えてくるといいなと思っています。その話を通じて、21世紀におけるみなさんのようなアーティストが作品を作るということ、アーティストであるということはどういうことなのか、この辺りを考える機会になればと思います。それでは、さっそく内容に入りたいと思います。 

横山:最初に、公募展と審査制度についてです。今、公募展は、国立新美術館を会場にしたものなど、非常に多く行われています。今回のBUG Art Awardもある意味では、誰でも応募する資格を持っていて、審査に通れば発表の機会を得られるということで公募展の延長線だと思います。これらの公募展がどんな風に生まれたのかをお話していきたいと思います。

横山:左はフランス、右はロンドンのサロンの様子です。18世紀には作品を発表する場というのはサロンしかない状況で、ここで作品を発表できるのはアカデミー会員のみに限られていました。アカデミー会員はかなり狭き門です。いわゆる普通の家庭に生まれて、アーティストを目指して自分で作品を作って、ここで展示をするというのは考えられなかった。選ばれた人しか作品を展示できないという状況がかなり長く続いていました。

横山:そのような状況が変わるきっかけとなったのが、1789年のフランス革命です。簡単に年表をまとめてみました。フランス革命が起こり、それまで特権的だった作品を展示する場を広くいろいろな人に開こうということで、1791年に全ての芸術家に開かれた公募展へと生まれ変わります。最初は、審査なしで展示をしたい人は誰でも展示できるというオープンなものだったのですが、まもなく応募人数が殺到して、会場がパンクしてしまい、審査制度が導入されました。なので、審査制度というのは「会場が足りない」という即物的な理由で当初は導入されました。ただ、この審査制度というものがまた物議を醸しました。どういう人が審査をしていたのかというと、アカデミー会員の重鎮が大半を占めていました。かなり保守的で、落選する人は「納得がいかない」という状況になっていました。

末永史尚さん(以下、末永):アカデミーの重鎮というのは、制作者なんですか?

横山:そうですね、後には制作者以外の人も入ってくるのですが、最初は芸術家だけで、かなりキャリアがあって、評価されてきた人に限られていました。
このようにお話をすると、審査員にかなり偏りがあり、問題があると思われるかもしれませんが、実は審査員も審査員でとても過酷で、ものすごい点数の作品を判断しなければならなかったんです。当時のサロンの状況を研究されていた方がいて、その方の研究によると、1作品あたり数十秒で判断しないといけない状況だったらしく、そうなってくるとやはり知っている芸術家を選んでしまいますよね。きっと「この人はあの先生の弟子だから、通しておこう」というようなことがあったのだろうと想像するのですが、審査の偏りというものがだんだんと指摘されるようになり、1863年に有名な落選者のサロンというものが開かれます。

横山:これは、ドーミエが描いたサロンに落選した人たちです。「落選」という意味である「Refusé」という文字の前で、うなだれたおじさんがいるのですが、当時の美術雑誌である『ラルティスト』には当時の状況を表す、このような文章が載っています。
「成功に導く道はひとつしかない、それはルーブルだ」。ルーブルはサロンの会場だったんですね。ルーブル美術館の「サロン・カレ」という部屋でサロンが行われていました。「画家や彫刻家にとって、唯一の宣伝となるのは、ルーブルの展示である」。要するに、サロンに入選して展示できないと作品は全く売れないという状況がありました。「若い芸術家が独創的で力強い作品を試みたとしても、サロンでは全く評価されない」。「審査員の不寛容は随分前から有名である」。このように、どんどんと不満が溜まっていったわけです。

横山:1863年の入選者のサロンの様子です。18世紀の絵でもそうでしたが、床の方から天井の方まで絵で埋め尽くされていますね。最近、五美大展を見て、サロンを彷彿とさせるなと思いました。限られた会場で、できるだけ多くの作品を見せてあげたいという主催者側の思いがあるとは思うのですが。こういった状況で展示が行われていました。

横山:これは非常に貴重な資料で、ある研究者の方が執念で見つけ出した、《1863年、落選者のサロンの様子》です。写真ではなくカリカチュアなのですが、真ん中の方にマネの有名な《草上の昼食》があります。この作品が出品されて物議を醸して、マネという画家がパリの人々に広く知られるようになるきっかけとなった展覧会として位置付けられています。
ちなみに、当時のサロンにはどのくらいの人が来ていたと思いますか? 今、ブロックバスターの展示とかだと数十万人くらい来場者がありますが……。当時のパリの人口は今の日本より全然少ないので比べられないですが、40万人くらい来ていたらしいです。なので、パリの人口よりも遥かに多く、ヨーロッパ中から詰めかけていたということだと思います。

末永:へぇ。期間はどれくらいやっていたんですか?

横山:確か、3ヶ月くらいだったと思います。だから、今の展覧会の会期と一緒くらいでしょうね。ここまでは、フランスで生まれた公募展の背景です。
それでは、日本はどうかというと、日本で今一番大きな公募展というと日展というものが国立新美術館で開催されているます。

横山:こちらの起源は1907年に始まった文部省美術展覧会、略して文展というものになります。要するに、国が作った公募展という位置付けです。これは開始早々に審査員の選考が紛糾して、今日は詳しく語る時間がないのですが、「あの人が入るのなら、自分もなってもいい」というような芋づる式にいろんな人が審査員になっていき、1907年の時点で既に日本画も洋画もいくつかの流派に分かれていたので、そのバランスを見て審査員も決めていかないといけないという状況でした。
これ(右側の新聞記事を指しながら)は、東京国立近代美術館のライブラリーで見つけた資料なのですが、第一回の文展について書かれた記事です。既に第一回目から「落選者の展示を開くべし」というように書かれていて、「546点の多大なるはねられ物を出し候」ということで。確かにすごい点数です。この「はねられ物」という表現もすごいですね(笑)。このように日本では第一回目から落選者の展示が求められていたのですが、実現はしていないと思います。この文展は審査員の分裂が収拾がつかなくなって、1918年には一旦終了します。1919年からは、帝国美術院による帝展というものに変わり、中堅作家が審査員に入るようになります。1937年からは文部省の主催による新文展というものに変わり、1946年、戦後に日展となり、今に至ります。
今の日展というと、どのくらいの方が足を運んでいるのかわからないのですが、当時の文展というと、当時を代表する芸術家たちが出展していた場所でした。

横山:これも、昨日私が必死に探してきた資料です。第一回の写真は残念ながら残っていませんが、文展の第三回目の会場内の様子を写したものが残っていたので、いくつかご紹介したいと思います。この写真は、上野公園竹の台陳列館とありますが、当時もいろいろな展覧会が開催されていたなかなか立派な会場です。

 末永:これは現存していない場所ですよね。

横山:はい、これは現存していませんね。

 横山:当時の会場の図面も残っていてすごいなと思ったのですが、ジャンルは日本画と西洋画と彫刻に分かれていて、事務室があって、休憩室まであって、よく見ると「風月堂売店」とも書いてあり、多分、甘いものも食べられたんだと思います(笑)。なかなか観にくる人のことをちゃんと考えている展示だなと。

末永:西洋画は何でこんなに集まったんでしょうかね。

横山:作品が小さかったので、けっこう詰め込めたというのがあるのかもしれませんね。日本画は軸だったり、屏風だったりある程度スペースが必要になってしまいますが。

 横山:これが、日本画陳列室の様子です。今の展覧会と変わらないくらい、一点一点離して壁にかかっています。ただ、この植物がたくさんあるという(笑)。今はこういうことは難しいですが。作品と植物を同時に楽しむという感じで、ちゃんとベンチもありますね。 

末永:ゆったりしていて、これいいですね。

横山:そうですね。そして、これが洋画の陳列室です。この写真を観ると、明らかに床が濡れていますよね。どうやら当時は、雨漏りがしてしまう建物だったようです。

横山:こちらは、彫刻の陳列室です。台座もしっかりと置いていて、一点一点をちゃんと観られるように展示されています。

横山:これは、洋画部審査委員の写真です。このように集まってちゃんと写真も撮っていたんですね。今見ると、美術館に作品が収蔵されている作家たちばかりです。

末永:そうそうたるメンバーですよね。

横山:これがすごいなと思った写真です。会場内の看守さんの写真もちゃんと残っていました。着物を着た方が、ちゃんと作品を守っていたようです。こういうかたちで、日本の公募展というものは始まったということです。
フランスのサロンでもそうなのですが、最初は官展と言う形で、かなり権威のある展示というかたちで始まって、だんだんそれが保守化していき、保守的な価値観に反発した人たちがどんどん独立して、新しい公募展を作っていくというように、フランスでも日本でも同じような流れを辿っています。今も『日展』以外に公募展はたくさんあると思いますが、メンバーが独立したり、新しいメンバーが加わったりすることで、新陳代謝していくという。これが公募展の流れになってきています。 

同時代の作品のための美術館

横山:続いて、美術にまつわる大きな制度というと、やはり美術館というものが挙げられると思います。今回は、あらゆる美術館ではなく、同時代の作品のための美術館ということで、当時の現代美術を収集していた美術館をいくつかご紹介したいと思います。

横山:一番古いところは、やはりフランスです。リュクサンブール美術館というところで、今も同じ建物でリュクサンブール公園の敷地内にあります。開館はかなり古く1750年で、元々はヴェルサイユ宮殿のコレクションを公開する目的でスタートしています。それが19世紀に入った1803年から、同時代の現代美術を展示する現代美術館へと生まれ変わります。19世紀の初頭の時点で、同時代の作家の作品を展示することが行われていました。やがて展示するだけではなく、収蔵、作品の購入も始まります。今では美術館で作品を収蔵したら、よほどのことがない限り、その作品は半永久的に美術館のコレクションとして残っていくことになるのですが、リュクサンブール美術館が同時代の作家の作品を展示していた当時は、まだ同時代の作家たちの評価が定まっていないわけです。そういった作家の作品を収蔵して、もしも将来的に見た時に、「美術館に入るほどでもない作品だったら、どうしよう?」と考える人がいたんでしょうね。今はこのリュクサンブール美術館は、コレクションを持っていないんです。それでは、その時の作品はどうなったかというと収集した作品は作家の没後数十年くらい経って、その作家がフランスの中でかなり偉大な作家であると評価された場合には、ルーブル美術館に収蔵されました。ルーブル美術館に収蔵されるほどではないと判断された作品は、地方の公立の美術館に収蔵されるという(笑)。没後の評価によって行き先が変わるという。

 末永:それは、アーティストにとってちょっと怖いですね(笑)。

 横山:そうなんです。最初はそのようにちょっとシビアなシステムを導入していました。同時代の作品を美術館という半永久的に残していく際にとられた方法だったということです。

 横山:日本ではどうだったのかというと、日本で最初の公立の美術館として1926年に開館したのが、東京府美術館です。今は上野にある東京都美術館です。元々は先ほどご紹介した文展やそれ以外の美術団体のギャラリーとして出発したのですが、やがてコレクション収集を開始しています。1943年に東京都美術館に改称して、1975年に現存する新しい建物に変わっています。
この東京府美術館のコレクションは、今は東京都現代美術館で管理されています。複雑な歴史を辿っているのですが、東京都現代美術館へ行くと、明治時代などかなり古い時期の作品などが展示されているとおもいますが、それはこのような歴史があってのことです。

横山:東京府美術館が開館したその3年後、1929年にニューヨークに「近代」「モダン」という言葉を冠した美術館ニューヨーク近代美術館(MoMA)がオープンします。ロックフェラー2世夫人ら3人の女性発案による私設美術館です。MoMAは、同時代の現代アートを収集していくのですが、それだけではなく、今の美術館に繋がる基礎を築いたという点でも有名で、ホワイトキューブの展示室や、今は美術館に行くと作品の横に当たり前のようにキャプションや解説が書かれていますが、そのような展示方法を初めて導入したのもMoMAです。キャプションや解説が作品の真横にあるのがいいのかどうか、ということも最近議論されるようにはなってきていますが、基本的には今もこの方法が世界中の多くの美術館で引き継がれています。この「近代」を冠した美術館というのが日本で誕生するのは、戦後になってからです。

横山:最初は、1951年に開館した神奈川県立近代美術館です。数年前に惜しまれつつもこの建物での活動は終えて、現在は鎌倉の別館と葉山館で展示活動を続けています。

横山:翌年、1952年に東京国立近代美術館が開館しています。当時は「東京」はついておらず、国立近代美術館だったのですが。元々は旧・日活本社ビルというところで開館して、1969年に今の竹橋に移転しています。国内外の近現代美術を収集しています。ここで「あれ?」と思う方がいるかもしれませんが、「近代美術館」なのに現代美術も収集しているんです(笑)。これはなかなかジレンマというか……。

末永:これはどういうことなんですか(笑)?

横山:そうなんですよね。これはいつも話題になりますし、最近だと富山県立美術館や、滋賀県立美術館が、元々は「近代」という言葉が入っていたのをとってしまった館も出てきていまして、「近代」という言葉の呪縛というか、ジレンマがあるんですが。私が元々フランス近代をやっていた人間なので、元々フランス語で「モデルネ」は「現代性」という意味なんですね。元々、同時代の美術という意味合いが強い言葉だったのですが、だんだんと「モダン」の後は「コンテンポラリー」という言葉がでてきたりして、中世、近世、近代、現代というように時代区分の中の一つを示す言葉としての方が感覚的にあると思うのですが、本来は「現代性」という意味も持っていたと。

横山:今は「現代美術館」というものもたくさんあると思いますが、東京国立近代美術館が出来た頃には、同時代の作家の作品を展示する「現代美術館」がたくさんできています。今、資料上では日本語になっていますが、「コンテンポラリーアートミュージアム」という名前の美術館が世界中に出始めました。

横山:日本で一番早い現代美術館は、実は最近リニューアルオープンしたばかりの広島市現代美術館で、1989年に開館しています。次に1995年に開館したのが、先ほど話に出た東京府美術館のコレクションを引き継いだ東京都現代美術館です。
こうなってくると、中世、近世、近代、現代、その次もまたあるのではないかと、思いますよね。そうなってしまえば、「近代」という元々は「現代性」という二重の意味を帯びていた言葉を取捨するというのも一つの選択かなと思っています。この辺りはやはり、フランス語で「モデルネ」と言った時と、英語で「モダン」と言った時と、日本語で「近代」と言った時の一般の方々の受け取り方の違いもあるので、なかなか難しいところではありますね。

末永:僕も今、ようやく納得しました。

横山:それはよかったです(笑)。なので近代美術館と言っても、同時代の作品もどんどん収蔵し続けています。時代の更新というよりは、収蔵庫がいっぱいいっぱいなので、いつまで更新し続けていけるのかという心配もあります。

個展 

横山:続いて、個展についてです。ある芸術家の作品だけを集めた「個展」という展覧会がどのようにできたのかというのをご紹介したいと思います。最初に行われた個展がどれかということは調べきれなかったのですが、作家とは別に主催者がいて、ある作家の展示を行うものというよりは、作家自身が自分の作品を多くの人に見てもらいたいという気持ちで開催した個展をいくつかご紹介します。

横山:最初は、ギュスターヴ・クールベです。1855年にパリで万国博覧会が開催されていたのですが、当時の万博は絵画や彫刻など芸術作品を展示するパビリオンが立派で、ここに展示するのにもやはり審査があり、審査を通った作品のみが展示されていました。クールベは自分が「力作だ」と思っていた作品がこの審査にいくつか落ちしまい、意気消沈してしまいます。ですが、なんとか自分の作品を万博に来る人に観てもらいたいという思いから、当時のパトロンにお金を借りて、自分で立派なパビリオンを建ててしまったんです。ちゃんと建物には「EXPOSITION QOURBET」と書かれていて、これはかなり斬新だなと思うのですが、この建物の中で個展を開催したようです。残念ながら写真は残っていません。

末永:残念ですね。薄暗かったんでしょうかね。

横山:そうですね、薄暗くて写真に残すのが難しかったのかなと思うのですが、その中には今、オルセー美術館に展示されている代表作の一つである《画家のアトリエ》も展示されていました。当時のパリは美術批評も盛んだったのですが、美術雑誌だけでなくいろいろな雑誌にこのようなカリカチュア(スライドを指しながら)が掲載されていて芸術家たちやその作品を揶揄して面白がって、そこから笑いが生まれたり、物議を醸し出したり、批評が生まれたり、スキャンダルを巻き起こしたりしていたようで、当時の芸術家が人々にとってとても身近な存在であったことが伝わってきます。

横山:1855年にクールベがこのようなことをしたと知り、サロンで落選が続いていたエドゥアール・マネも、1867年の万博で自分の作品がなかなか展示できなかったことから、個展会場を作りました。写真は残っていませんが、カリカチュアで描かれているような立派な建物で個展を開催したようです。カリカチュアでは入り口の上に「Musée Drolatique」と書かれていますが、この「Drolatique」とは「おかしな、滑稽な」という意味になります。「おかしな美術館」ということですね。本当に建物にこのように書かれていたのではなくそのように揶揄されていたのだと思うのですが。中には今、オルセー美術館が所蔵している作品で、ほとんど他には貸し出されない《オランピア》や、先ほど紹介した落選者のサロンで展示していた《草上の昼食》など、今マネ展をやろうとしたら、とてもではないけれど集められない作品ばかりがきっと展示されていたのだと思います。マネは裕福なブルジョア家庭の出身だったので、お母さんに個展の費用を出してもらったようです。
マネの立派なところは、個展をやるだけではなく、カタログを自分で作っているところです。このカタログの序文には、長々と思いを書いているのですが、これは実はマネ本人ではなくマネの擁護者であったエミール・ゾラが書いているのではという説もあります。この序文の中に印象的な一説があります。「展示するということは、闘うための仲間や味方を見つけることだ」。マネの周りにはもちろん芸術家はいたとは思うのですが、孤独な闘いをしていたらしく「自分と同じような志を持つ芸術家たちと出会いたい、仲間を見つけたい」という思いも、この個展開催の動機だったようです。そのマネの願いは実り、この展示の後、印象派の画家たち、自分よりも若い世代の画家たちに出会い、影響を与えていくことになります。

横山:日本でもこのように自分で個展を開催していた人がにいるのか調べていた時に、たまたま先日、茨城県近代美術館で開催されていた『速水御舟展』を観に行ったら、彼が過去にやっていたんですね。時代はマネやクールベよりも下りますが、大正時代の1926年に御舟の初めての個展が開催されたようで、これが会場の図面となります。会場は奥さんの実家で、目黒の吉田家の邸内にあった4軒の家だったということです。目黒に広い敷地を持っていたお家だったようで、樹齢数百年の樹木が生い茂る広大な場所の所々に家を建てて、元々ここに御舟や親族が住んでいたようなのですが、その中の4軒を使って個展を開催したらしいです。御舟自身が『第1回個展案内状』というものを作って、会場の案内マップも作ったようです。この個展では17作品出品して、出品作を掲載した画集も作成しました。

末永:個展といえば個展でもあるし、今で言うオープンスタジオですね。

横山:そうですね。自分の住んでいる場所と制作している場所を含めて4軒で行ったということで、確かにそうですよね。オープンスタジオというと、開催する側から見ればちょっとハードルが下がる感じがしますね。

末永:当時そのような概念はないでしょうから、個展なんでしょうね。

横山:そうですね。近代という時代に「自分は芸術家である」という自意識や、独創性を持った一人の芸術家がいろいろな作品を生み出すという考え方が、大正時代には定着していたと思うのですが、そういう中で「自分の作品をまとめて全部見せたい」という欲求が生まれてきたのではないかなと思います。

末永:どんな展示だったのか見てみたいですが、なかなか資料はないんでしょうね。

横山:そうですね、会場の写真は茨城の展示でもなかったので、おそらく残っていないのではと思います。 

アーティスト・コレクティブ

 横山:ここからは、アーティストコレクティブについてです。ちょっと今風な言葉を使ってみましたが、「コレクティブ」は少し前に『美術手帖』でも特集が組まれていましたが、芸術家たちが集まって展示をしたり、制作をしたりするものと捉えてもらえればと思います。

 横山:その走りとして有名になっているのが、やはり第1回印象派展です。第1回印象派展という言葉はいろいろな画集や解説でも使われているのですが、実は正式には「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社」という即物的なそっけないタイトルでした(笑)。共同出資会社という名前の通り、サロンになかなか入選できなかった印象派の画家たちを中心に、印象派以外にもサロンに入選していた作家も実は入っていたんですが、そういう芸術家たちが集まり、少しずつお金を出し合い、第1回目はパリの一等地であるナダールの旧スタジオを借りて展覧会を開催しました。
この展示で作品が売れることを見込んで、作品を売ったことで得た収入で出し合ったお金をペイしようという合理的な考えだったようです。なので、この会場を借りるためにコレクティブが必要だったのではないかなと思うのですが、これは多分、マネやクールベが自分で個展をやってしまったのを見て、サロンの審査員への不満も溜まっていたし、自分たちで何とかしようと思い立って開催したのでしょう。第1回印象派展には、今やオルセーやマルモッタン、コートールドなど名だたる美術館に収蔵されている作品が出品されていました。
ただ、先ほどの落選者のサロンに40万人くらい来場者が来ていたと話をしましたが、第1回印象派展の来場者数は3,500人くらいだったようです。それでも来ている方ではありますが、なかなか作品が売れず厳しい状態だったとのことです。ただ、面白いのは、サロンのように段がけにするのは良くないということで、しっかりと一点一点の間隔を空けて、赤茶色の布をかけて展示空間として設えていたそうです。

 末永:空間意識を持って展示をしていたんですね。

 横山:そうですね。写真が残っていないことがとても残念なのですが、名だたる作品が展示されていたということです。モネはカリスマ性があったようで、このグループでのリーダー的な存在だったようなのですが、あまり実務はやらず、ルノワールが頑張っていたみたいです(笑)。

末永:そういう関係性はどこにでもあるんですね(笑)!

 横山:はい、今でもどこでも起こっていることだと思うんですけどね。

※横山さんスライド31枚目

横山:当時の印象派は今では信じられないくらいこっぴどく批判されていて、当時のカリカチュアを観るとその酷さが伝わってきます。左側の絵は、画家がほうきみたいなものを持って絵を描いていますが、展示されている印象派の作品はあまりにでたらめだから「絵筆ではなくブラシで描いたのではないか?」と揶揄されました。右側の絵は、男性が絵の裏面を確認していて、それに対してもう一人が「何をしているの?」と聞いています。すると絵の裏を確認している男性が「この絵の作家はすごく才能があると聞いたんだけど、間違った方向で展示をしていないか確かめているんだ」と答えているという。皮肉が含まれていますね。

横山:あとは、この左側の絵も、いろいろな意味で酷いことが描かれています。「君、こんなところに来ているの?印象派の愛好家なの?」と男性が聞かれて、どう答えたのかというと「全然そうじゃない。でも、この印象派展で肖像画を観てから家に帰ると、自分の妻がいつもほど醜くは見えない」という風に書いてあります(笑)。
右側の絵も「そこまで言うか?」という感じですが、妊娠している女性が印象派展の会場に入ろうとしたら、警備の人が飛び出してきて「奥様、どうかお引き取りください」と言っているんです。要するに、妊婦さんにこんなショッキングな絵を見せて何かあってはいけないということで止めている、という感じで、このようなカリカチュアがたくさん描かれていたわけです。こんなものを描かれたら、どうですか?

末永:意地が悪いのだけど、賢くてなんかむかつきますね(笑)。

横山:そうですね。絶妙にとんちが効いていて、特に繊細だったルノワールとかはかなりショックだったと思います。彼は後に「自分は印象派ではない」という風に語ったりもしています。

末永:なんかTwitterの悪口みたいですね。

横山:今でいうSNSのようなノリで、このようなカリカチュアが当時の雑誌に載っていたという状況でした。
今でこそ、印象派の作品というと、美術館に展示されて物凄く評価されているという印象があると思いますが、当時はたくさん批判を浴びたし、展示する場所を見つけることすら大変でした。

横山:日本でも芸術家たちが複数人集まって展示をするということは、早い時期から行われていました。今回は洋画に絞ってお話をしますが、日本で最初に行われたコレクティブと言っていいだろうという例は、明治美術会です。
この写真は、工部美術学校に通っていた学生たちと、中央にいるのは、招かれて教授としてやってきた画家のフォンタネージですね。この工部美術学校というのは、明治の初期に西洋画を教えていた学校です。すぐに閉校してしまい、その後に伝統的な日本画を重んじる国粋主義的な動きが高まり、洋画家たちにとって冬の時代が訪れ、10年間近く活動できなかったのですが、ここで学んだ洋画家たちを中心に結成されたのが、明治美術会でした。「保守派」対「革新派」というような構図ではなく、「日本画」対「洋画」という流れの中で誕生したのがこの団体でした。
これも残念ながら写真や絵は残っていないのですが、この明治美術会は展覧会をして報告書を作っています。その記述を読むと、第1回目の展示は印象派と同じように有志で展覧会場を借金して、上野公園の不忍池の横にあった競馬場の馬見処を借りたそうです。ここに行き着くまで大変だったようで、7箇所か8箇所の候補の会場は権力を握っていた人たちに断られ、ようやく借りられたのがここだったとのことです。とても展覧会をするような場所ではなかったと思うのですが、「警備員として巡査2名を拝借し、下足所や茶店を設けて、会場には鼠色の洋布をはり、二段に絵をかけて、その前に竹の柵を置き、彫刻を並べ、菊を挿した花瓶と盆栽を置いた」とあります。この第1回の展覧会は1889年なので、先ほどお話した文展よりも10年近く早いのですが、ちゃんとした設えの展示だったようですね。入場券や招待状、出品目録、図録も作成したとのことです。

 

横山:明治美術会から枝分かれして誕生したのが、白馬会です。この写真は、結成当時の集合写真です。明治美術会は、基本的には工部美術学校でフォンタネージを中心に自然主義的な画風を学んだ画家たちの集まりでした。白馬会はフランス留学経験のある黒田清輝や久米桂一郎が中心になって結成した団体です。一番下にも書きましたが、この白馬会という名前は居酒屋でどぶろくを飲みながら結成が決まったことに由来するとあります。これもちょっと、今でもありそうなエピソードですよね。

末永:ありますね(笑)。 

横山:「しろうま」が当時、どぶろくの隠語だったということから由来するようです。

横山:白馬会の第6回展では、「腰巻き事件」というものがありました。黒田清輝《裸体婦人像》が展示されたのですが、警察の介入があり、「裸体を展示するのは、けしからん」ということで下半身を布で巻いて展示されるという出来事が起こりました。ですが、これ以降、黒田清輝は実際に布を巻いた状態の裸婦を描くようにもなって(笑)、これはけっこう影響が大きかったのかなと思います。

ギャラリー

 横山:ここからは、ギャラリーについてです。ギャラリーというものは無数にあって、その歴史を語るとなると数時間かかるのですが、印象派展との繋がりで一つ紹介したいのが、デュラン=リュエル画廊です。

横山:デュラン=リュエルよりも前に画商はいたのですが、彼のすごかったところでは、当時のカリカチュアを観てもわかるように、全く評価されず売れる見込みもおそらくなかった印象派の作品を扱って、ヨーロッパやアメリカで市場を開拓して成功したというところです。このデュラン=リュエルに対してモネがとても面白いことを言っています。

横山:長いので全部は読めませんが、本当に冷静に世の中の変化を見ていたのだなと思います。一文を読むと「物々交換のような、個人が取り交わす小さな商売は過去のものだ。我々は大消費時代のただなかにいるのだ」とあります。19世紀のフランスというのは、芸術でいろいろな変化が起こっただけではなく、社会全体が変わっていて、その中で芸術家の作風や作品も変化したし、どうやって芸術家として生きていくかという考え方も変わっていた時代です。モネはこの変化をしっかりと理解して行動に移していたんだなと思うと、これはとても興味深いなと思いました。
今も、ギャラリーに所属して作品を発表してという、ある意味では「200年前にできたシステムが今も生きているのが現代である」とも言えると思います。

 

横山:これは、日本で最初の画廊である琅玕堂です。日本で最初の画廊は、実は画商ではなく詩人で彫刻家でもあった高村光太郎が開きました。欧米留学から帰国して、当時は既に官展が開かれていたり、いろいろな団体ができていたのですが、旧態依然とした風潮に対抗して、新しい芸術のための場として開店したとのことです。残っている写真の一つが、扇子や団扇の展覧会の様子です。錚々たる日本画家と洋画家たちが描いたものがずらっと並んでいます。これ以外にも岸田劉生や津田青楓などの個展も開いたということです。
当時の若い芸術家の間では、かなり話題になっていたようで、日本のギャラリー史を考える上で重要な場所になっています。この後、無数にギャラリーというものができてきて、今回はお話をしきれませんが、その中の一つについて後ほど末永さんにお話いただきます。

美術学校

横山:最後は、美術学校の歴史についてお話をしたいと思います。今日会場にいらっしゃる方の中でも美術学校で学んだという方はいると思いますが、これまでお話してきた展覧会や美術館、画廊といったようなものが出てくる前から美術学校というものは存在していました。

横山:パリにあるエコール・デ・ボザールは17世紀後半には既にありました。こういった学校に通っていた人たちがアカデミー会員になって、作品を発表していたということが、展示の始まりだと思います。エコール・デ・ボザールについて言うべきことはたくさんありますが、一つだけ挙げるとすれば、長いこと男性しか入学を認めていなかったことです。女性も入学できるようになったのは1897年。19世紀末のことです。

横山:エコール・デ・ボザールに比べると、実は日本はこの時点ではすごく進んでいて、1876年に開校した工部美術学校は開校年から女学生の入学も認めていたんですね。右上の写真は、先ほどもお見せした明治美術会のメンバーの写真なのですが、右下の写真は、フォンタネージが教授を辞めてイタリアに帰る時に、当時在学していた女学生たちと一緒に撮った写真です。彼女たちは非常に裕福な家庭の出身で、一般教養の一つとして美術を嗜むというかたちで在籍していた学生もいますが、本当に芸術家を志して後に芸術家として活躍した人も存在します。当時、男性と女性でカリキュラムは分かれていたようなのですが、その内容はフォンタネージの考え方で差がないような教育が行われていたようです。この辺りは小勝禮子さんが研究をされているのですが、当時、日本が近代化していく中で、「もっと女性の教育に力を入れないといけない」という考え方が美術だけではなく、社会全体であったようでそういう流れの中で、工部美術学校も女性の入学を認めていたのではないかと思います。ただ、この工部美術学校は1883年には廃校になってしまって、その後を引き継ぐかたちで開校したのが東京美術学校、現在の東京藝術大学です。

横山:東京美術学校は、やはり西洋からの影響を受けた近代美術の流れの反動として、国粋主義的な流れの中でできた学校だったので、最初は日本画だけを教えていたのですが、やがて油画や彫刻といった西洋美術も教えるようになります。入学が認められたのは男子のみで、女子も入学できるようになったのは、かなり遅く戦後の1946年からということなんですね。

 末永:後退しちゃっていますね。

 横山:そうなんです。これは本当に残念なことです。

 横山:ただ、この頃まで女子は美術を学べなかったかというとそうではなくて、今の女子美術大学である女子美術学校が1901年に誕生しています。女子の入学を認めなかった東京美術学校に代わって女性の芸術家育成に大きな役割を果たしました。女子美術大学のホームページを見てもらえば誕生の経緯が書かれていると思うのですが、女性芸術家の育成の必要性を一人の女性が考えて、動いて、それが実現したということです。
右側の写真は、開校当時の授業の様子ですが、裸婦のモデルが真ん中にいて、女性の画家たちが周りを囲んでいて、本格的な美術教育が行われていたことがわかると思います。
このように、広い範囲を駆け足でお話してきましたが、私の話は以上になります。ここからは作家である末永さんにお話いただきます。末永さんは、美術というものを少し引いた視点で眺めて作品を制作している方だなと思っていて、いわゆる自分の個性を発揮して作品を作る近代的な芸術家像とはまた違ったスタイルをお持ちです。ぜひ、現在においてどういった作品を作られていて、どういった活動をされているのかをお話いただければと思います。 

末永史尚 作品紹介

末永:ここからは、僕がお話させていただきます。あまり自覚はしていなかったのですが、そうなのかも、という思いでお話を聞いていましたが、いろいろな作品を作っている中で、横山さんが言うような美術史との関わりが考えられる作品について、自分なりに紹介しようかなと思います。と言っても僕は、美術史上のトピックをそのまま取り上げて作品化するようなことはしていなくて、美術史が僕の目の前にあること、その肌感覚を作品に持っていくというようなことをやってきたと思っています。

末永:インターネットの検索サービスであるGoogleに画像検索というものがありますが、それを使って画家の名前を検索すると、その画家の作品図版がずらっと縦幅を揃えて表示される。この作品はその画面をモチーフにして描いた絵画作品です。これはシリーズで何点か制作しているものです。お見せしているのは、「ロバート・ライマン」で検索下画面がモチーフの作品です。

末永:あるいは、これは日本の画家の「小村雪岱」を検索した時の検索結果をモチーフにした作品です。

末永:これは、「マーク・ロスコ」で検索した時の結果をモチーフにした作品です。
これらのシリーズの作品を描くきっかけになったのは、チェーン系のカフェで壁にマーク・ロスコの絵が掛かっていたのを見たことです。横山さん、見たことありますか?

横山:よくありますね(笑)。

末永:そうですよね。あれがきっかけでした。マーク・ロスコは、アメリカの抽象表現主義に属する画家とされている人ですが、特徴は抽象であると同時に人の身体の大きさを超えた巨大なスケール感にあると思うんですね。でも、それがイメージとして流通するとスケール感が捨象されてA2くらいのサイズになって、カフェでも飾られると。そういう現実があり、絵が元々あって、イメージがあって、自分の目の前に現れてしまうという感覚を絵として残しておきたいなと思い、制作を始めたのがこのシリーズです。
僕も学生時代には真面目に抽象表現主義について調べたり、展示をしたりしていたのですが、東京にいると、画家が意図したように正しく展示された作品と出会うことよりも、イメージとして絵画に出会うことの方が圧倒的に多い。それをまず絵にしたいなと思い、制作していました。美術館で見た絵をもとに制作するだけではなくて、何かしら複製を介して接する、俯瞰するということに近いのかなとは思っています。

横山:そうですね。私も作品について調べたり、展覧会の準備をしたりする時に、Googleで画像検索した時にこういった画面をたくさん見ています。2014年に新国立美術館で『印象派の誕生』という展覧会を担当していて、このように画家の作品の画像を検索していて、とにかくこの画像検索の画面を見続けていたので、そのことについてカタログに書いたことがあるんです。
印象派の画家たちが誕生した当時は何段にも展示をするということが一般的でしたが、今は実際の作品を観るよりもGoogleで観る回数の方が圧倒的に多いので、そういう意味では必然的にこういう体験の方が自分にとって近く感じているなと思っていて。なので、末永さんのこのシリーズの作品を初めてギャラリーで観た時に、とても共感する部分がありました。
しかも、末永さんは全ての情報を拾って絵にしているわけではないですよね。少し解像度を落として抽象性を残しているところもすごく面白いなと思っています。

 末永:自分が作るときは、この画像は僕にとって記号みたいな存在というか。絵として観るというよりは、パッと見て「北斎だ。ピカソだ」みたいなやり方をしているので、それをどう描くかみたいな省略の仕方を意識してはいます。実は、これ以前に似たような問題意識を持って制作した作品があります。

末永:こちらは、僕の学部の卒業制作です。印刷物の網点をモチーフにしています。僕は田舎出身で、山口県山口市というところで生まれ育ちました。高校時代はインターネットもなかったし、山口の美術館に行ってもいい作品はありますが、ピカソのような作品がすぐに観られるような場所ではないんです。そうなると、古本屋で画集を集めるとか、過去のカタログを眺めるとかでしか美術の知識を得られなくて、「その感覚も絵にしてしまえばいいのではないかな」と思いました。間接的な媒体を通してしか絵の勉強をできなかったことを、ですね。絵画の印刷図版を拡大して出てくるドットを描き写して、絵を描くということを大学4年の時にやっていました。最初にこれがあって、この作品のインターネット版が先ほどの作品だったと。

 横山:こちらの(末永さんの作品を指差しながら)作品は、初めて観ました。

末永:いい着眼点だったなと、今では思うんですけどね(笑)。

末永:もう一つ、こちらの作品は愛知県美術館で開催した『ミュージアムピース』という展覧会です。美術館を全体を使った企画展というわけではなく、若手を紹介する企画みたいなもので、展示をやらせてもらいました。メインは壁にかかっている作品なのですが、これは美術館にある絵画作品を額縁を含めた大きさで採寸して、その大きさでパネルを作って、額縁を含めて写し取って絵を描くと。絵画にあたる部分は、単色で塗りつぶすという作品です。

横山:キャプションもついていますね。

末永:そうなんです。愛知県美術館の他の展示室のキャプションのルールに則って、高さや大きさなども揃えています。
美術館の作品を観ている時には、絵は観ていると思いますが、額縁は意識に残らない。ただ、必ず視野には入っていると。その額縁をモチーフにした絵を展示することによって、美術館の中で絵を観るということをちょっと変容させることができるのではないかと思い、このような展示を作りました。

横山:末永さんのこの作品を観ていると、今では当たり前に美術館で絵を観る体験というのは、本当は無数にある選択肢の一つでしかなくて、今日お話したようなサロンだったり、ギャラリーだったり、いろんな試行錯誤があった延長線上でこのようなかたちになったのだろうなと、改めて思いますね。これからまたNFTとかができて、変わっていく可能性もありますよね。

末永:時間がないので少し急ぎます。2020年にもう一度取り組んだ際の個展の様子です。先ほどの作品は愛知県美術館の絵がモチーフだったのですが、こちらは世界中の美術館で作品を観た時の経験をもとに作りました。自分の作品については、ここまでなります。

末永:先ほど、横山さんからもお話があったギャラリーについて駆け足で説明します。僕は作品を作る以外にも、美術に関する研究活動もやっていました。私の出身地である山口にギャラリーシマダというギャラリーがかつてあったのですが、そこの記録を調査しました。ギャラリーシマダと聞いて「知ってる!」という方はいないとは思うのですが、ここは1984年から2004年まで活動していた日本のコマーシャルギャラリーです。84年から90年くらいまで山口にあり、その後東京にギャラリーを移しています。
この表は各ギャラリーの開廊した年と閉廊した年をまとめたものです。今だと、ギャラリーというと小山登美夫ギャラリーだとかスカイザバスハウスだとか、みなさんご存知だと思うのですが、それらは90年代半ばにできています。その10年くらい前にできて、2004年で終わってしまったという歴史を持つのが、このギャラリーシマダです。ブームよりもちょっと早かったんですね。

末永:ギャラリーシマダは、どういうアーティストの展示会をしていたかというと、これは河原温さんの展覧会の様子で、後はデイヴィッド・ハモンズだとか、ダン・グレアムだとか、その当時、既に国際的に活躍していたアーティストの展覧会を開催していました。アートケルンやアートバーゼルといったアートフェアにも日本から最も早く参加していたギャラリーでもあります。84年開廊で、僕は当時10歳なので、山口時代の活動は直接観ていないんですね。その活動を知りたかったので、オーナーさんにインタビューをしようと人を辿って会いに行ったら、資料がたくさん残っているということだったので、2年間、調査に取り組んだわけです。

末永:その調査結果をお見せしたいなと思い、山口で去年『ギャラリーシマダアーカイブ展』を、山口情報芸術センター[YCAM]学芸員の吉崎和彦さんと共同キュレーションしました。この写真は、山口市内のオルタナティブスペースDo a frontという場所です。ギャラリーシマダで開催された主要な展覧会13回分を僕が模型で再現したものを展示しました。地元の美術館や大学のいろいろな組織と共同してレクチャーやシンポジウムをやっていたので、その記録も展示していました。

末永:これは、模型の一つです。これは、ライナー・ルーテンベックというドイツのアーティストの個展の再現模型です。作品もちゃんとミニチュアで作って、中に入れてあります。

末永:これは書籍にまとめたものです。全展覧会の記録を見せつつ、オーナーさんへのインタビューも掲載しています。このような調査を僕は初めて行ったのですが、やってみて感じたのは、「情報の不確かさ」です。インターネットでサッと調べられる、例えばディヴィッド・ハモンズの経歴を見ると「山口のギャラリーシマダで個展開催した」と書いてあるのですが、その表記の年にはギャラリーは東京にあるんです。なので、間違いなんです(笑)。
これはまた別の話ですが、ベルギーの展覧会で展示を行ったアーティストに図版を取り寄せたら、図版が左右逆に載っているんですよ。「こんなことばっかりなんだ」と、自分の中の情報の信頼度が一気に下がってしまって(笑)、これを正すために美術館で企画展をやって、図版や記録を残しているのだと思うと、本当に「学芸員さんを超尊敬します!」という感じになったというのが、この調査の結論です。僕からは、以上になります。 

横山:ありがとうございます。ご苦労お察しします(笑)。確かに、インターネットができて調べ物をするハードルは下がったのですが、正しいか正しくないのかを見極めるのは本当に難しくて、私も文献やカタログを書いていて思うんですが、「必ず現物をあたる」という。「現物をちゃんと見て、ちゃんと奥付けが確認できないものは書くな」ということで、作家の記憶も曖昧だったりするので、その当時の一次資料として存在するものだけを確認するというのが大前提でしたね。
私が今日お話したことも、当時の美術雑誌にかなり頼っているのですが、同時代の記録というのもすごく重要で、それがあるかないかで作品の評価も変わってきます。作品があるだけでは美術史というものは紡がれず、そういう意味では、作家だけでなくいろいろなプレイヤーも重要かなと思います。

質疑応答

スタッフ:お二人とも、ありがとうございました。ここからは、会場の参加者の方から質問や感想などを受け付けたいと思います。

参加者1:僕は今高校生なんですが、学芸員に興味があります。どうしたら学芸員になることができますか?

 横山:ありがとうございます。今、学芸員になる一番確実な方法としては、大学で美術関係の勉強した後に大学院に進学して、修士号をとって就職するという方法です。本当はもっと大学院で勉強しただけではないいろいろなキャリアの人がいても面白いかなと思うのですが、一方で先ほど末永さんがおっしゃったように、正確な美術史の資料を見つけ出して展覧会や調査をしていくという技術を身につけるという意味では大学院での体験は大きな経験となると思います。
ちなみに、私自身は大学は美術系の大学ではなく、外国語大学でフランス語を専攻していて、大学に進学する時点では美術関係の仕事をしようとは思っていなかったんですね。でも、外国語大学で作家でもあり、美術批評家でもある教授との出会いがあって、美術というものをちゃんと考えるようになり、ボナールという画家について卒論を書いて、大学院に進学して、そこで引き続き研究して、修論を出した後にすぐに世田谷美術館で非常勤学芸員として働き始めました。今はいろんな美術館でボランティアやインターンを募集していると思うですが、大学院時代にはそういったものに応募して、少しずつ学芸員の仕事に触れて何とか非常勤に採用されて、その後は非常勤時代が長かったのですが、紆余曲折あり、今の東京国立近代美術館に勤めています。もちろんこれは一例に過ぎないのですが、本当に目指すのであれば大学院への進学も視野に入れてもいいのかなと思います。

末永:大学の先生をやっている僕からすると、あなたが思い描いている学芸員の姿がどこまで明確かわからないので、学芸員に期待している仕事でどこが一番大きいのかを考えて、美術館で仕事をするといってもいろいろな仕事があるので、そこをもうちょっと調べてみてもいいかなと思います。 

参加者2:アーティスト活動をしているのですが、学芸員さんに前から聞きたかったことが1つあります。横山さんが最初の方で印象派のスキャンダルを紹介されていましたが、正直に言って、作品が予期する炎上することに対してどう思っていますか?「面倒だな」とか「できるだけ避けたいな」と思うものなのでしょうか?

横山:ありがとうございます。そうですね、マネとかクールベとか印象派の画家たちが当時、物議を醸したというのは美術館ではなく個展だったり、サロンだったり、自分たちで企画した展覧会だったりしたので、その批判を受け止めるのも芸術家だけだったり、近くにいた批評家は擁護したりという感じだったと思います。
今、美術館の中でそういったことが起こった時にどうするのかというのは、また違う問題だとは思うのですが、私個人としては、美術館で展示をすることを選択している時点で、その作家を評価してきちんと見せるべきだという考えでやっているので、そのようなことが起こった時は、まずは作家を守るように動く、というのがいいと思います。一方で炎上が起こってしまうことによってその作家をはじめ、同じ展覧会に出品している作家まで含めてフラットな視点で見てもらえないということも起こると思います。特に今の時代はSNSなどあるので。その辺りをどう考えるのかというのはとても微妙なところで、美術館というところは保守的だと思われがちなんですが、できる限り炎上のリスクを回避している場所だとは思います。それはやはり、作品をちゃんと観てもらうために必要なことだからです。結果的に起こってしまった時の対処方法は個別に検討するしかないのですが、わかっていてそのままそれを展示するということはなかなかないです。作品と作家をちゃんと観てもらうためにいろいろな対策を練っていくことが、美術館の役割かなと思います。

参加者3:今日のお話の中で「情報の不確かさ」みたいなことをお話されていましたが、作家以外の人が残してきた情報が残ってこういう結果になってきていると思います。現代で作家活動をしていくにあたって、作家本人ができる情報の残し方にはどんなものがありますか?

横山:末永さんもすごく立派なホームページを作られていますが、今はやはり作家さん本人がしっかりとサイトを作って、そこで展覧会歴や作品紹介をシステマティックにされていて、そこをカタログの編集の時に参照することも多いですが、どうでしょう? 

末永:そうですね。若いうちは大丈夫なんですが、だんだんと記憶があやふやになっていくので「やったらすぐに記録」ですかね。作品の記録は全てエクセルに入れて、画像もちゃんと貼って、間違えないようにするというのを心がけています。あとは、印刷物をこまめに作ると安心かもしれないですね。

横山:確かに、印刷物だとその都度校正してしっかり読むので、いいかもしれないですね。
あとは、過去の芸術家について調べている時に、本当に細かい部分を参照する時はアジェンダや日記みたいなものは、毎日書いているものなので、かなり正確だと判断して参照することが多いですね。なので、意外にアナログでこまめな情報というのが大事だと思います。

スタッフ:本日はお時間となりましたので、これで終了とさせていただきます。横山さん、末永さん、本日はありがとうございました。