見出し画像

やめてみた、やってみた

子どもの頃は好奇心旺盛にいろんなことに純粋な疑問を感じて、面白がって不思議がっていたなぁと思う。
自分を偽る必要を感じなかったし、そのままでたくさん遊び学んでいたなと思う。

大人になった今でも時々疑問を抱くけど、はたしてそれが純粋無垢なものなのかと問われたら、なんか違うなと思う。
世の中で起きていることだとか、今あるよくわからない仕組みだとか、みんなが知らず知らずのうちに意識している”普通”だとか。
なんというか、そういう不満の感情を抱くようなことに直面したとき、同時に疑問を感じる。
あとは、安心できる夫や家族の外に一歩でたら、ありのままの自分ではなくてよそ行きの自分で対応するようになった。つまり、良くも悪くも自分を切り替えることができるようになった。
私はこの切り替えがどうも下手だったようで、疲れポイントになってしまった。

もうすこし面白く生きていたいと願う私は、やめてみようと思う。やってみようとも思う。
そう、小さい単位から、できそうなところから。

まずは、「いい人ぶる」ことをやめようと思う。
昔から人に「優しいよね、いい人だよね」と言われることが多い。
それが本当なのか、本当じゃないのかはわからない。
というのも、生まれ持ったありがたい特性と合わせて、たぶん、知らないうちに自分自身でつくりあげてしまった仮面をかぶせている部分もあるから。

私が「優しくていい人」の真偽は本当でも本当じゃなくてもどちらでも良い。だから、私のことを過去にも未来にも「優しい、いい人」と思ってくれた人のその言葉や感情を否定するつもりはない。ありがたく、それはそれで受け止めたい。

やめるのは、しんどくなる自分の思考やそれに伴う行動。
本当はいっぱいいっぱいなのに「大丈夫です」と言うこととか、私が行かなくてもいい飲み会とか、気が乗らない空白の予定を埋めるためだけの約束とか、見渡してみると結構そういうのがあることに気が付く。

NOと言いづらいことって、大抵その後が怖くて言えない・受け入れてしまうことが多い気がするけど、今年の私は「この際いっぺん言ってみよう!」という心持ちでいたい。

あとは、「自分の気持ちを否定しないご機嫌とり」をやってみようと思う。
感情の起伏というのか、感情の変化が激しいのが悩みのひとつ。
もう少し歳を重ねたら、結婚したら、何かの折々で変わるかなと他力本願(?)でそう見守っていたが、特に大きく変わることはなかった。
感情の波をその都度チャチャっと操作することも難しい・・・
ここ数年でそう痛感したから、ここらでちょっと方向を変えてみる。

大きな出来事がなくても疲れるし、理由もなく急にネガティブな思考になりがちな私。まずはその特性を立派な個性なんだ!と、少し強引な解釈でもいいから、そのまんまを受け入れることからスタート。
そうしてあげると、少しだけ心が楽になったような気分になる。
他人からいくら否定されてもいいけど、自分だけはいつのときも絶対自分の味方でいてあげたいものである。

自分の負の気分をそのまま受け入れたその後は、できたら文字にして外に出してみる。
ここ(note)もいいし、アナログな日記も良い。
書くことが好きなら、それがひとつの発散方法にもなる。

さて、私の問題はまだ続く。
ネガティブモードの時の私は、夫に八つ当たりしてしまうことが多々ある。
これもどうにかしたいのだが、ここでも自分の感情を操作しようとするのではなくって、夫にありのままに伝えて物理的な距離とすこしの時間を取るという作戦にしてみたいと思う。

「いま気分が落ち込んでるから、すこし放っておいてほしい」
「気分が落ちてて、ネガ(ティブ)モードだけど、話をただ聞いてほしい」その時の気分に合わせてとりあえずしっかり伝えてみようと思う。

こうやって自分であれこれ考えながらやめてみた、やってみたを実行してみた結果、何か変化が起こるかもしれないし、何も変化しないかもしれない。
自分に期待しない。

結果を期待するって、(至極当然ながら)自分にとって都合良いことを思い描く。
その期待感はワクワクをくれるし、楽しみのひとつにもなる。
けれど、それと同時に期待している(現在)・期待していた(過去)から苦しくなることもある。
だから、私は自分自身に対してもそうだし、身の回りのことに対して、特に大きな期待は込めずに目の前のことを面白がりながら淡々と、そして飄々とした人でいたい。

2024年も自分にも愛情を注いてあげようねー!
イヤなことには(こっそり)あっかんべーするからな!!
ちょっとしたご褒美を用意しながら、自分とうまく付き合っていく1年にしたい。ヨシ!

おわり

#やってみた
#やめてみた

この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?