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源氏物語 現代語訳 帚木その5

 ようやく長雨もおさまり、今日はお天気も回復しています。こう宮中にばかりい続けていらっしゃっては、義父の左大臣のご心中も察するに余りありますので、この辺りで一度お里にお下がりになられます。邸宅の佇まい、奥方の姫君のご機嫌も相変わらずしゅっと上品で、乱れたところなぞ微塵もなく、ああこの人はやはり昨夜の話で捨てがたい女のひとりに数え入れられた誠実で信頼のおける人であるなぁ、そうお思いになりながらも、その隙のないご様子が今ひとつとっつきにくく、こちらが恥じ入ってしまうほどきちんと身を処しておられるのに気が引けて、中納言、中務といった若い綺麗所の女房たちと冗談を交えての会話を楽しまれ、暑さのあまりお衣装が少々乱れておられるそのお姿を、女房たちは夢見心地でひたすらぼぅっと見惚れております。そのうち左大臣もお見えになりました、源氏の君のいたくくつろがれておられるお姿をご覧になり、ご自身も几帳を隔ててお腰をおろされ、お話を始められましたが、「暑いんですから」と苦々しいお顔をされましたので、皆がくすりと笑いますと、「これこれ」とたしなめ脇息にお凭れになられておられます、まことにくだけたお振る舞い申せましょう。

 暗くなってきまして「今晩、こちらのお屋敷の方角は、宮中から見て天一神が巡っておられ塞がっております」と某が申し上げます。「おおそうだったね!常にお上が忌まれておられる方角であった!とは云うものの自宅の二条院も同じ方角だし……、どちらに方違えすればよいものか……、面倒だなぁ」と横になられます。「実に困った事だ」と近習たちが囁き合っております。「こちらのお屋敷と昵懇の紀伊守の、京極の辺りの家が、昨今は庭に水を引き入れるなどして涼しげな風情となっております。」そう申し上げますと、「それはよいではないか。こう暑苦しくてはかなわないから、牛ごと車を停められる所でないと」仰います。こっそり通われておられる方違えに適した家はいくつもあるでしょうが、久方振りにおいでになった日を、わざと塞がった日を撰んですぐさま他へ移られると勘繰られるのも心苦しいと思われたのでしょう。

 紀伊守にお言葉が下されますと、恐縮しながら承りましたが、「父である伊予守の家で物忌みがございまして、女どもがごっそり移ってきております、なにせ狭い家です、失礼がなければよろしいのですが……」と内々で不安がっているのを耳にされた源氏の君は、「人が大勢いるのがいいんだよ。女が近くにいない旅寝は考えただけでぞっとするね、ほんのその几帳の裏に寝かせてもらおう」と仰いましたので、「仰る通り、今宵の宿にうってつけでございます」と使いの者を走らせました。物音ひとつ立てずにこっそりと、取り立てて立派でもない屋敷に急ぎお移りになられるのですから、左大臣へのご挨拶も抜きで、気心の知れた腹心だけをお供にお連れになりました。

「あまりに急でどうしてよいものか……」と紀伊守は困惑しきりですが、誰一人気にも留めません。寝殿の東廂の間を取り払い、急拵えの御座所を設えます。遣水の風情などもずいぶんと趣向を凝らしてあります。田舎風に雑木を結った垣根を巡らして、草木も入念に植え込まれています。風も涼しく、どこからともなく虫たちのすだきが聞こえ、蛍もさかんに飛び交って味わい深い景色となっています。皆々、渡殿の下より流れて来る泉の水を覗き込みながら酒を飲んでいます。主人の紀伊守が酒肴を調達すべく、「こゆるぎの磯」さながらに駆けずり廻っている間も、源氏の君はゆったりとした気分で庭を眺めておられ、先夜の話題に出た「中の品」とはきっとこんな家のことなんだろうな、などとふと思い出されたりもいたします。

 時にここの娘はそうとうにお高くとまっているとの噂を耳にされたことがありましたので、ご興味が湧き、耳を澄ませておられますと、今いらっしゃる寝殿の西側に人の気配がありました。さらさらと衣擦れの音が聞こえ、漏れ聞こえてくる若々しい声も悪くありません、さすがに源氏の君を憚ってかひそひそ声で喋ったり笑ったりしているのが、少々わざとらしくもあります。廂の先の格子は上げてあったのですが、紀伊守が「はしたない」と叱って下げてしまったため、灯火が障子の上の隙間から漏れてくるだけです、源氏の君はそっと近寄り、見えるかなと思われましたが、隙間ひとつないので、ただ耳だけを傾けてられておられますと、ここの近くの母屋に女たちが集まっているらしく、内緒話に囁き合っているのはどうやら他ならぬ源氏の君のお噂らしく、「ずいぶんと生真面目な風にお見受けいたしますけど、あんなに早くからきちんとした奥様がいらっしゃるなんてちょっと物足りないと感じておいでじゃないかしら」「とは云ってもそれなりのお宅にこっそり忍び歩きされておられるのよ」等々とかまびすしいのですが、当のご本人は心の奥底に秘めた方がいらっしゃいますから、ふいにはっと胸を打たれ、こんな会話の際にそのことが漏れたりするのを聞いたりしたら……と不安にかられます。そのうち特段そのような話にもならないようですので、聞き耳を立てるのをお止めになりました。源氏の君の従妹にあたられる式部卿宮の姫君に朝顔を献上した際の歌などを、やや間違えつつ話しているのが聞こえてきます。こんな風に日々歌なんぞ口にしながら暢気に暮らしているんだろうな、でも実際逢ってみるとおそらく見劣りするに違いあるまい、と思われたりもいたします。

 そのうち紀伊守がやって来て、軒に吊るした灯りを足して明るくし、酒肴の菓子だけを差し上げます。「寝具はどんな具合だね。そちらにも気を配ってくれないのは無粋な主人というものだよ。」そう仰いますと、紀伊守は「何がおよろしいのか……、承れずにおります」と恐縮して固くなっています。御座所の隅の方に、ささやかな仮寝のような形でお寝みになられましたので、辺りはひっそり静まりかえりました。

 この紀伊守には愛くるしい子供たちがいました。幾人かは童殿上しており、源氏の君も見馴れた者がおりました、中に伊予守の子供もいて、数多くいる中でもとりわけいたいけな十二、三歳になるやならずの子がおります。「どの子がどの親の子供なのかな」などと問い掛けられますと、「この子は亡き衛門督の末子にございます、それはそれは猫可愛がりに慈しんでいたのですが、まだ幼い頃に親を亡くし、姉の縁を頼り当方に参りました。学才もあるようでして、悪い子ではありませんから、いずれのこと殿上童にと考えておりますが、まだすんなりとお仕えする事は出来かねるようでございます。」と申し上げます。

「気の毒になぁ。で、この子の姉君が君の継母ということかな」「仰せの通りでございます」、とお答えいたしましたら、「なんとも似つかわしくない親を持ってしまったものだねぇ。お上におかれましてもその女人のことはお気に留められ、近く宮仕えいたさせますると漏れ聞いたが、その後どうなったのだろう、などといつだったか仰っておられたよ。人の運命というものはどう転ぶかわからないものだねぇ……」そう訳知り顔で仰います。「ゆくりなくもこうなってしまったのでございます。男と女の間柄は、さように今も昔も定め難きものがございます。就中、女のさだめにつきましてはさながら水に浮かぶ根なし草、哀れに思えてなりません」そんな風に申し上げます。

「ところで伊予介はその女人をさぞ丁重に扱っているのだろうね。まるであちらが主人のように想うておるに違いあるまい」「まさしく仰る通りでございます!自分一人の主と心からそう思い、溺愛ぶりが度を越しているものですから、私はもちろん家族一同少々辟易いたしております」と申します。「気持ちは解るがそうは云っても、本当に相応しいのは君たちのような今時の若者だろうからそうやすやすと譲り渡したりはしないだろうよ。伊予介という男はあれでなかなか自分に自信があるし若いつもりでいるようだから」等々お話になられ、「時にその女人は何処にいる」と問われました。「女たちには全員下屋に下がるよう指示いたしましたが……、下がり切らないのかもしれません」とお答えいたします。近習たちはすっかり酔いが廻り、全員簀子にうつぶせになって静かに寝入っています。

 源氏の君はくつろいでおられますが、なかなかお寝みになれません。独り寝は味気ないものだなと思えば思うほど御目が冴え渡り、お寝みになっておられる間の北の障子の向こうに人の気配を感じられ、さてはあそこに先ほど話題に出た女人が隠れているのだな、不憫な女よと情が湧き、おもむろに起き上がられて立ち聞きされたところ、あの子供が「ねぇねぇ何処におられるの」とかすれ声で愛くるしく訊いています、「ここよ。お客様はもうお寝みになられたかしら。いかにもお近くと思っていましたが、存外離れているのですね」と答えます。半分眠っている気だるそうな声が、あの子の声とよく似ていますので、姉だなと当たりをつけられました。「廂の間でお寝みになられていますよ。噂に高いお姿を拝見いたしました。あんなにお美しい方は二人とおられませんよっ!」興奮ぎみに小声で云います。「昼間だったならねぇ、こっそり拝ませていただくところだけど……」そう眠たげな声で応え、夜着を被る音がしました。口惜しい、もう少し熱を入れて弟に私の事を問い糺さないかね、源氏の君は歯痒く思われます。「僕は縁側の端で寝るね。それにしても暗いなぁ」と云い、少年は火を強くしているようです。件の女君はどうやらこの襖のほんの斜め向こうに寝ているらしいのです。「女房の中将は何処にいるのかしらん。あまりに人気がなくてちょっと怖いわ」と云うので、長押の下で臥せっていた女たちが答えました。「下屋で湯を使っておりますが、すぐに参ります」とのこと。

 一人残らず眠りに就いた様子ですので、源氏の君が掛金を試しに引き上げられますと、なんとあちらの掛金は締まっていません。几帳を障子の前に立て掛けてあり、薄暗くぼんやりとした内部をご覧になりましたら、唐櫃らしきものが置かれていて、ずいぶんと散らかっている中を分け入るようにして進まれ、気配の感じられた辺りにたどり着かれましたところ、独りぽつんと小さくなって寝ています。煩いとは思いつつ、被っていた夜着がはね除けられるまで、女はてっきり戻ってきた女房とばかり思い込んでいました。

「中将を呼んでおられたようですので、私のことを密かに想ってらっしゃるしるしかなと思えまして」と近衛中将が仰いますと、「あ!」と怯えた声がしましたが、顔には源氏の君の衣がかかり、声になりません。「あまりに唐突ですから、深い想いを抱えてのことではないと思われるでしょうね、当然です、ただずっと秘めてきた思いの丈を聞いてもらいたくて知ってもらいたくてのことなんですよ。以前からこんな機会を待ち望んでいました、ようやくこうなったのもきっと浅からぬ縁と思っていただきたいのです。」諭すような優しい口調で仰います、鬼神でさえ事を荒立てるのを控えてしまうような気配に、見苦しく「ここに人が!」と叫ぶわけにもゆかず、そうかと云って辛い心はただただ千々に乱れ、あってはならない事と思うにつけ嘆かわしく、「人違いをなさっておいででしょう」と口にするも息も絶え絶えなのです。

 今にも消え入りそうなほど困り果てている姿のあまりに不憫で可憐なところに、ぐっと惹き付けられた源氏の君は、「人違いなぞしようはずもないくらい思い詰めたこの心に、思いもよらぬお言葉は心外というものですよ。ほんの出来心でこうしてお逢いしているわけではないのです。いささかでもこの想いをお伝えしたくて」そう仰って華奢な身体を抱き抱え障子のところまで出てこられたまさにその時、先ほど探していた女房の中将が戻ってきたのに出くわしました。「おや」とついひと言とお漏らしになられましたので、女房も不審に思い、探り探り近寄って来ましたら、えもいわれぬ典雅な薫りがあたり一面に満ちており、まるで顔に降りかかるかのような錯覚さえおぼえ、粗方察しがつきました。どうしましょう……、一体何が起こっているのでしょうとひたすら惑い乱れますが、言葉になりません。その辺にいるような並の男なら、思うさま荒々しく引き剥がすのも手ですが、だとしても騒ぎ立ててそこらじゅうに知られ渡ってしまうのもいかがなものかと、動転のあまり追い縋ってきますが、源氏の君はお構いなしに奥の御座所にお入りになられました。

 障子を引いて閉め切られ、「夜が明ける頃にお迎えに参れ」とお命じになられます、女人は、こんなことを云われてこの女房がどうとるかと考えただけで死んでしまいたいくらい悲観し、汗びっしょりで苦悶の表情を浮かべています。可哀想とは思いながらも、源氏の君はいつものごとく何処から引き出してこられるのやらと感心するお言葉の数々で、神妙に切々と口説かれますが、女人の後ろめたい気持ちは依然として拭えず、「とうてい現実のこととも思えません。取るに足りないこの身ではございますが、そんな私をずっと蔑んでこられたお気持ちが痛いほどわかりますだけに、浅からぬ縁などとはとうてい思えません。こうなってしまった分際の女にはそれ相応の相手がございます。」そう云い、このような無体なお振る舞いをなさいますのを、心底嘆かわしくまた忌まわしいことと非道く落ち込んでいる様子ですので、さすがに気が咎めばつが悪く感じられたのか、「仰られる相応しい分際という言葉、初めて耳にしましたよ。そこいらの男たちと同列に扱われ喜んでいいやら悲しんでいいやら困り果てます。私のことはおおかた噂に聞かれていることでしょう。戯れの浮気心なんぞ起こしたこともありませんのに、男と女の縁とは妙なもの、こんな風に邪険にされることもわからんでもないと思えるほど道に迷ってしまったのが、私自身信じられないのです。」等々、いかにももっともらしく言葉を尽くされるのですが、絶世の美貌を前にして、最後の一線を越えてしまうのがどうしても恥ずかしさが先に立って気遅れし、たとえ強情で気の廻らない女と思われようとも、いっそその道に疎い女を演じてやり過ごそうと、ことさら無愛想に応対するのでした。元来心優しい質が、無理に強気に出ようとしましたので、しなる竹のごとく折れそうで折れないのです。真実心を痛め、言葉とは裏腹な扱いをされていることが残念でならず泣いておりますのも、心打たれるものがあります。

 不憫ではあるが、ここでこの縁を逃したらきっと後々後悔するだろうと思われます。慰めようもないほど滅入ってしまっている姿に、「なぜそこまで邪険になさるのです。こうして偶然に巡り逢えたことを運命と思っていただきたいのです。右も左もわからぬような小娘のふりをなさるのはあまりにつれない仕打ちです」と恨み言を申されますと、「この悲しい立場がまだ定まっていない、かつての身の上でそのお気持ちを目の当たりにいたしましたら、恥ずかしながら当時は誇りもございましたので、いずれ見直していただけるはずと自分を慰めもいたしましたが、ただ今のこんな仮初めの関係を思えば、ただただ困惑するばかりでございます。どうか、私に会ったと誰にも仰らないでください。」そう云って悩んでいる姿はしごくもっともと云えましょう。源氏の君も、さぞやあれこれとお約束し言葉を尽くされてお慰めなさったに違いありません。

 やがて、一番鶏が鳴きました。近習たちが起き出してきて、「いやぁずいぶんぐっすり眠ってしまったなぁ。ささ、御車を引き出そうか!」と云い合っています。そのうち紀伊守が起きてきました、女たちの中には「御方違えとのことですけどねぇ……。なにもまだ夜が明けぬうちからそう急がれることもございませんでしょうに。」などと云う者もおります。源氏の君は、再びこんな好都合な機会がそうあろうはずもなく、ましてやあらたまって訪れるなどもってのほか、手紙のやり取りをすることすら厳しい現実を思いを馳せられますだに、非道く胸が痛むのでした。奥に留められていた女房の中将が姿を現して険しい顔をしますので、一度はお放しになりましたが、またぞろ引き留められ、「今後どうすればやり取りが出来るでしょう。見たことも聞いたこともないような貴女のお仕打ちのつれなさ、そして我が身の哀れぶり、今となれば浅からぬ一夜の記憶となってしまいましたが、何もかもが世にも珍しい一例となりましたよ」そう仰られ、さめざめと涙を流されるお姿にはえもいわれぬなまめかしさがおありです。鶏の鳴き声がかまびすしくなってきました、それに急き立てられるように、

恨んでも恨み切れない貴女の薄情、なじり終わらぬうちに東の空が明るんできました、これも鶏が私の目を覚まさせようとしてるのでしょうか

女人は自身の置かれた立場を顧みますに、あまりに不釣り合いで恥じ入るばかり、こうまで丁重に扱っていただいても感激するいとまもあらばこそ、常々がさつで気が利かないと見下していた夫伊予介のことが脳裏を過り、夢にまで出てきそうな気さえしてそら恐ろしく身が縮みあがる思いがします。

この身の辛さを嘆きに嘆いて飽くことがないのにいつしか明けてしまう夜、鶏の鳴き声と唱和するようにいっそ大きな声で泣きましょうか

どんどんと辺りが明るくなってゆきますので、障子口までお送りになります。内外ともに人が活発に動きだしましたので、障子を引いて締め切り、いよいよお別れとなりました、気もそぞろで覚束なく、これが歌に聞く『隔つる関』というものかと合点がゆかれたようです。

 御直衣ほかをお召しになり、南側の欄干にお凭れになられ、ぼんやりと景色を眺めておられます。西に面した格子をさささと上げて、何人かがこちらを覗き見しているようです。縁側の簀の中程に立てられた小振りな衝立の上からかすかに目に映る神々しいお姿に、心底心酔している浮かれ女たちでしょう。消えかかる月の、光を失い影ばかりとなった姿が、かえって趣深い明け方です。なんということもない空模様も、見る人次第で艶やかにも殺風景にも見えてしまうものなのです。源氏の君の伺い知れぬお心には、重い痛みがわだかまり、誰かに言伝てするすべもなく、後ろ髪をひかれるようにお立ちになられました。

 ご自邸にお戻りになられても、すぐさまお寝みにられるはずもなく、またの逢瀬もかなわない中、あの方のご心中は察するに余りあり、悶々としてお過ごしになられております。取り立てて抜きん出た所はないけれど、体裁よく対応してくれた心映えは、あれこそ中の品というべきか、こと女の話題に関しては蒐集家とさえ云える左馬頭の語った事は実に的を射ている、としみじみ思い当たられるのでした。

 しばらくの間は大殿だけでお過ごしになられます。依然として便りは途絶えてしまっています、今頃どう思っておいでだろうかと考えるだに愛しさが募り、胸の痛みに耐えかね紀伊守をお召しになりました。「先日の中納言の子を呼んでもらえないだろうか。愛くるしい顔立ちだったね、ぜひ私の身の回りの世話をさせたいと思うのだがどうだろう。そのうち宮中へは私から差し上げよう。」と仰いますので、「なんとありがたいお言葉でしょう!あの子の姉に訊いてみますね」そう答えられただけて胸が締め付けられるのですが、「時にその姉君とやらには、君の弟がいるのかな」「いえいえそんな者はおりません。父と結婚して二年少々になりますが、宮仕えさせたいとの父親の望みに背いてしまったと嘆いてばかりおります。不満たらたらだと聞き及んでおります。」「お気の毒だねぇ。なにかと評判のいい人と聞いているけど……、本当かな。」とお訊ねになられましたら、「どうでしょう……、悪くもないとは思いますが。なにせ継母ですから離れて暮らしておりますし、世間の例のようにあまり親しくしてはいないのです」そうお答えしました。

 そういうわけで五六日過ぎた頃、紀伊守はその子を連れて参上いたしました。よくよく見れば取り立てて美形というわけでもありませんが、どこかしら清潔な色香があり、いかにも貴人の呈です。お側に寄らせ心をこめて親しくお話になられますので、少年は子供心になんとありがたいと胸がいっぱいになります。姉君のことにつきましてもあれこれとご質問なさいます。お話すべきところはお答え申し上げて、後は恥ずかしそうに黙っていますから、源氏の君もなかなか核心に近付くことがお出来になりません。それでも根気よく噛んで含んで云い聞かせておやりになります。そのうちなるほどそういうことでございましたかと薄々感じ取り、意外ではありましたが、さすがにまだ子供ですのでそれ以上のことには想像が及びません。
  
 お手紙をお預かりし姉君にお渡ししますと、姉君は途方もないことと涙があふれてしまいました。弟の前だとしてもみっともなく、さすがに顔を隠すようにして広げます。長い長い文面です、

お逢いした夢をもう一度見たいものよと嘆くあまり、瞼が閉じることもなく虚しく時は過ぎてゆきました
 
 眠れる夜がありませんから、等と見るもまばゆい流麗な筆致に、こみ上げる涙で視界が曇り、またひとつ罪作りな記憶が増えてしまった我が身をただただ嘆き悲しみその場にうち臥してしまいました。

 翌日、またしても源氏の君は小君をお召しになられましたので、これから参上いたしますと姉君にお許しを乞います。「かようなお手紙を読む者はおりませぬとお伝えしておくれ」と云われますと、小君はにっこり笑って、「人違いなどとは仰いませんでしたよ、ですからそうお伝えするわけにはまいりません」と云いますので、姉君は後ろめたい気持ちになり、さては何もかも余すところなくこの子にお話しなさったのですね、と思いあたるにつけ身を切られるような辛さに苛まれます。「これ!分かった風な口を利くのはおよしなさい!そんなことを云うのなら参上せぬがよい」と不機嫌になられましたが、「お召しですから行って参りますね」と参上いたしました。

 紀伊守には、少々下心があり、この継母の現状をあまりにもったいないと思っており、ご機嫌取りにこの子を連れ歩いているのです。

 待ちかねていた源氏の君は、すぐさま小君をお側にお召しになり、「昨日はお前の帰りをずっと待ちわびておったのだよ。どうやらお前は私と心が通じ合ってはおらぬようだね。」そう軽く責められましたら、小君は赤面してしまいました。「で、お返事はどこにある」とお訊ねになりますので、小君はかくかくしかじかと経緯を申し上げましたところ、「使えぬ奴め!話にならんではないか!」そう口走られ、またもお手紙をお渡しになります。「お前は知るはずもあるまいね。あの伊予介の爺よりずっと前から私は昵懇なのだよ。にもかかわらず私のことを甲斐性なしのひょろひょろ玉とみなして、あんな不細工な旦那と一緒になり、こんな風に私を辱しめられるのだ。だからお前は私の子になりなさい。あの爺さんの老い先もそう長くはあるまいからね。」と仰られますので、小君も、そんなことがあったのですね!ならなんとも申し訳ないことをしてしまったなぁ、と納得している様子を愛い奴と思し召されます。この子を四六時中お近くに置かれ、宮中にも連れて参上なさいます。自邸の裁縫係に装束一式をあつらえさせ、まるで実の親子のように接しておられます。

 お手紙を遣わすのは毎日のことです。とはいえ、この子はなんのかんの云ってもまだ幼い、何かの拍子に誰かに喋ってしまうようなことがあったら、この上に尻軽女の汚名までも頂戴してしまうであろう我が身をかえりみるだに、どう考えても分相応なのだから、たとえお気持ちはありがたくともこちらの身の上を思えばどうしようもないことと諦めており、親密なお返事もいたしません。あの夜、仄かに拝見したお顔は確かにこの世のものとも思えぬ美しさで、ふと思い出すこともあるけれど、そんな自分をお伝えしたところで何になろうと思い返しています。方や源氏の君は、一時たりとも想い及ばないなどということはなく、ただひたすら恋い焦がれておられます。あの日の困惑した表情がなんとも痛々しく胸が傷んだのを、心の曇りも晴れぬまま今更のように思い出していらっしゃいます。とは云え、人の目の多い場所に軽々しく出入りするのもいかがなものか、あちらにとってもよいはずがないとお迷いになり悩んでおられます。

 例によって、宮中にて何日もお過ごしになられておられる間も、都合のよい物忌みの日を待ち構えておられました。さも急用を装い、道すがら再びお立ち寄りになられました。紀伊守の驚き様たるやいかばかりか、これぞ遣り水のご利益でございます、と恐縮して感激しています。小君には予め昼間のうちに「今日はこういう予定だからね」とお話しになり約束されていいました。片時もお側から離されませんので、今宵もなにをおいてもまず真っ先にお召しになられます。女君にも同様のお便りがありましたので、周到に謀られた逢瀬に対しさすがに浅い想いとは思われませんでしたが、とはいえ心を許しこのみすぼらしい姿をお目にかかけてしまうのも、虚しく夢のように過ぎていったあの嘆きをまた性懲りもなく重ねてしまうことになるのかとひたすら思いは乱れます、お便りにあったようにさも待ちかねていたようにお逢いするのは恥ずかしく気が引けて、小君がお側に伺っている隙に「お客様のお近くに居過ぎるのもあまりに体裁が悪いものです。それに朝からずっと身体が怠いので、こっそり揉んでもらおうと思っていますから、離れたところに移ります。」と云って、渡殿にある中将という名の女房の局に身を隠しました。

 源氏の君はすっかりそのお心積もりで、近習たちを早めにやすませ、その旨知らせておやりになりましたが、小君はどうしても姉君を見付け出すことが出来ません。あらゆる所を探しあぐね、渡殿に入り込んでようようのことで見付けました。なさりようの非道さつれなさに辛くなり、「源氏の君は、私のことを頼み甲斐のない奴とお思いになることでしょう。」と泣き出さんばかりに云うものですから、「どうしてそんな破廉恥な心遣いをするのです。そもそも年端もゆかぬ子供をこのようなことの御使いにするなぞもってのほかなのですよ!」そう叱りつけ、「『体調がすぐれませんので、人払いをせず誰かに身体を揉ませておられるようです。』そうお伝えしておくれ。誰もが皆怪しみますよ。」ときつい口調で云いながら、心中、このように身分が定まっておらず、かつての両親の想いがたっぷり詰まった屋敷で、稀においでになるのを心待ちにしていたならば、夢も見られたことでしょうに。強いて知らん振りを貫いて気配を消し去っておりますから、さぞや身の程知らずな女と思われておいででしょう、自ら進んでそうしたことではありながら、それでもなおずっと思い悩んでいるのです。何はともあれ、今となってはいかんともしがたいさだめなのだから、心を持たぬ冷酷な女と、意にそぐわないからお終いにしようと、そう思われても致し方ないと腹を括ったのでした。

 源氏の君は、小君がいかなる手妻を弄して説き伏せてくるのか、そこはやはりまだ子供ですから不安を抱えて寝待ちになっておっれましたが、戻ってきて肩透かしに終わったことをご報告申し上げますと、呆れ果てるばかりに頑ななその心に、「こちらまで恥ずかしくなってきたよ……。」と傍目にも意気消沈されておられるのがわかるほどです。しきりと唸られるばかりで苛々されておいでのようです。

近づけば姿を消す帚木の心も知らず、難路で名高い園原の道にはからずも迷い込んでしまったのかなぁ

と詠まれました。女君もさすがに寝つけず、

取るに足りない陋屋に生えているその名が辛過ぎて、身の置き所もなく消えてしまう帚木です

とお返しいたしました。源氏の君がお気の毒でならない小君が、眠りたいとも思わず懸命にお二人の手紙を取り次いでいるのを、周りの者はきっと不審に思うに違いないと困惑されています。

 例によって、近習たちはだらしなく寝こけています中、ただお一人悶々としたお心を持て余しながら、女君の人でなしな心情が、本物の帚木とは真逆にありありと立ち上り目に映るのが忌々しく、そう感じるにつけその頑なさに自分は惹かれているのだなとも思われて、いっそう目が冴えわたり頭にきて、どうとでもなるがいいと自暴自棄になりかけますが、さりとてそこまで吹っ切ることも出来ず、小君に「隠れておられる所に連れていっておくれ。」と仰いましたら、「厳重に戸締まりされてお付きの者も大勢おりますので、畏れ多いことでございます。」と申し上げます。小君は、そこまで姉を想う源氏の君を心から崇めいとおしく思っています。「いいか、せめてお前だけは私を捨てたりしないでおくれよ。」そう仰り、隣に寝かしつけました。小君は、若さみなぎる源氏の君の親しみの持てるお姿を拝見し、幸せな寿く気持ちで胸がいっぱいになっておりますので、靡こうともしない姉なんぞよりこの子の方がよっぽど愛しいと思われておいでのようです。

●編集後記●

〇空蝉
人妻でありながら、光源氏に強引にせまられ、一夜を共にしてしまう。

〇小君
空蝉の弟。光源氏に気に入られ、お傍に置かれる。彼と光源氏の間にもただならぬ関係があったよう。

〇頭中将
光源氏の親友。女性のランクを「上中下」に分けてみたり、体験談を話してみたりと、とても仲が良い様子が分かる。

「帚木」は、令和のいま考えてみると
灰色どころか真っ黒な犯罪話であると思うのですが
当時としてはこういう話も、ままあったのでしょうね。

また店主に、「ドラマにするなら?」の配役について聞いてみました。
・空蝉→深津絵里さん
・頭中将→斎藤工さん
思わず「分かるー」と深くうなずいてしまいました。
(特に頭中将の斎藤工さん!)