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ブルガリアの航空機メーカー その③ カプロニ・ブルガリア「KB」

※この記事は、個人ウェブサイト( https://pier3.penne.jp/bulavia/top.html )に掲載した記事(https://pier3.penne.jp/bulavia/aflist1.html)を基に執筆したものです。

1941年より運用されたKB-11軽爆撃機。愛称の「ファザン(фазан)」は「キジ」の意。(1941年撮影・パブリックドメイン)

【カプロニ・ブルガリア社】

ブルガリア語: Капрони Български
1930年設立・1942年「国営航空機工場『DSF・カザンラク』」に改称・1950年代中ごろ閉鎖


 ブルガリア中部のカザンラク市に設けられたメーカーであり、イタリアの航空機メーカー「カプロニ・ミラノ」社の傘下にあった。なお1942年には国有化され、国営航空機工場「DSF・カザンラク」に改称された。

 1926年、カザンラク市で航空学校が開校すると、隣接地域に航空機工場を設ける機運が高まった。そこで1927年、チェコスロバキア・アヴィア社との提携により工場の建設が開始された。新工場は1928年に完成したが、共同生産の条件をめぐってブルガリア・チェコスロバキア間での交渉が難航したことから、航空機の生産は行われなかった。アヴィア社は宙に浮いた工場で自動車車体を生産して糊口を凌いだが、1930年には工場を「カプロニ・ミラノ」社に売却した。

 カプロニ傘下となった工場は1932年より稼働を開始した。当初はイタリアで設計された機体を基に、ブルガリア側の技術者が改良・生産するという形がとられていたが、ヌイイ・シュル・セーヌ条約の制限もあって生産機種は低馬力エンジンを搭載した練習機・連絡機に限定されていた。この制限は末期には撤廃され、Ca.309爆撃機をベースとした双発爆撃機「KB-6」や、オリジナル設計の軽爆撃機「KB-11」の製造も行われたが、1942年には第二次大戦の進行に伴って倒産した。倒産した「カプロニ・ブルガリア」社の工場はブルガリア政府の管理下に置かれ、国営航空機工場「DSF・カザンラク」となった。

 1945年までKB-11型機および訓練用グライダーの製造を担当し、共産党政権下の1949-50年ごろに機密保持の観点から「第6工場」(Завод 6)に改名した。また、DSF・ロヴェチ(1941年にロヴェチ市に建設された、国営航空機工場)にて設計・製造された「Laz-7」型機のうちおよそ20機は、1950年から1952年までの間に本工場において製造されたとされる。「第6工場」は1950年代中頃に航空機工場としての役目を終え、油圧ポンプ製造工場へと転換された。
 「カプロニ・ブルガリア」社では1932年の操業開始から1942年の倒産・国有化までの間に、以下の8機種が設計・製造された。

DAR-1 / 1A 初等練習機(1926~)
DAR-3 ”ガルヴァン” 戦闘機(試作1927~ 量産1936~)
DAR-4 輸送機(1930 試作のみ)
DAR-5 練習機/軽戦闘機(1930 試作のみ)
DAR-6 / 6A 初等練習機(1931~)
DAR-7 戦闘機 (1930 ペーパープランのみ)
DAR-7 SS.1 連絡機(1933 試作のみ)
DAR-8/8A"スラヴェーイ" 練習機(1937~) 
・DAR-9 "シニゲル"
初等練習機(1940~)
DAR-10A/F"ベカス" 襲撃機/軽爆撃機(1940・1945 試作のみ)

また、リストに掲載されていない無動力機(グライダー)なども製造されていたことが確認されている。

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