見出し画像

鬱金桜

  夜ごとくりひろげられる狂態の祭り。男が美しい男を買うその祭り。
 写真に映るその祭りを見ているうちに、市三はさむざむしいものを覚えた。師の部屋である。人形たちが市三を見つめている。その目差しは、写真を見つめている市三を責めるような目差しである。人形たちは意志を持たないが、命は持っているように市三には思える。しかし、魂はない。
 古今東西の人形たちがおびただしく部屋を埋め尽くしている。ひな人形や日本人形、ビスクドールに、球体関節人形、ぬいぐるみ、オルゴールの自動人形。師である潤二のコレクションである。人形は家族と呼ばれていた。
 潤二が作ったものもたくさんある。潤二は人形師で、名前は売れていた。彼の人形は百万、時には千万単位の金を動かした。潤二の住む屋敷は、下鴨神社の糺の森のすぐ横手にあった。百二十坪の豪邸で、古い時代からあって、屋敷は工房も兼ねていた。潤二は多くの仕事を抱えていて、それは企業から依頼されたものもあれば、趣味を兼ねているような、小さなものもあった。透明から人形を作り出し、命を与えるのが、潤二の仕事だった。
 しかし、市三に触れながら、自分の作るものには魂がないと、潤二は嘆いていた。
「御前のように美しい肌に作ってあげられたらねぇ。」
涙はきれいで、市三はそれを紅差し指で掬ってやった。しかし、夜が明けると、潤二は乱暴になってしまう。市三への優しい触れ合いが、霧散してしまう。その変わり身に、市三には、潤二こそが人形で、ほんものではないのではないかという思いが浮かぶこともあって、しかし、それも夜が来ると忘れてしまう。
 屋敷の玄関で、御代に会った。御代は御髪を紫の花簪で留めていて、部屋の影に隠れると、市三にお辞儀をした。市三は二十、御代は十六である。花の腐るような匂いは御代がいたからかと、市三は帰り道にひとり思い当たった。 
 家に戻ると、小さな人形たちが出迎えた。潤二よりも、ずっと小さなコレクションである。愛らしい人形たちで、硝子細工のものもあれば、ビスクドールもあった。狼を従えた少年の人形である。靴以外は全てターコイズブルーの洋服で、帽子までおそろいだ。そのせいか、肌が透き通るように白い。脣の赤いのも、少年特有である。革のベルトを締めていて、精緻な作りだった。人形の付き従える狼は黒い毛に覆われていて、一見すると犬のようである。それは、この人形を手にする少年と少女が、怖がらないようにするための、作り手の配慮なのかもしれない。
 『ピーターと狼』という曲がモチーフの人形だった。ロシアのセルゲイ・プロコフィエフが作曲した、子どものためのオーケストラだった。市三の好きな曲で、それは、おさない頃の記憶に、重なるからかもしれない。部屋に入り、電気を点けると、羽ばたきが聞こえた。真白な羽根と、黒い目の、美しいメンフクロウがいる。そのほほを撫でてやると、甲高く鳴いた。目はきれいに光って、宝石だった。
 上着を脱いで、机の上に置かれた作りかけの人形に手を触れた。今市三が作っているのは、少年と少女の人形である。ふたりの子どもが手をつないで、眠っている。材料は木と紙と硝子が主だった。どの素材にも、魂はない。
 作りかけの人形を見ていると、市三に、それが自分と同じように思う。潤二の作る人形とは、似ても似つかない、模造品に過ぎないそれを、市三は机に戻して、天井を見つめた。メンフクロウが鳴き続けている。餌が欲しいのか、市三の二の腕ほど大きさの、ふしぎな顔したフクロウは、寺の蚤の市で買ってきたのだった。今はもう二歳だが、ふしぎな黒い目は、何を見ているのかわからない。
 厨に立つと、冷蔵庫から冷凍マウスを二匹取り出して、湯煎であたためた後、包丁を入れる。ボウルの中に湯と血が溜まって、血の池地獄を連想する。マウスの切り身を口元に運んでやると、美味そうにそれを嘴でついばんで、飲むように食べる。嘴で何度も指先を噛む。痛みもあるが、愛情のしるしかもしれない。そうして、造化の妙をつくしたように白く美しい顔で、市三を見つめる。触れてやると、やわらかな羽根に包まれて、からだがないようだ。だが、目の色で、魂があるのはわかる。
 翌朝起きると、新雪に目を洗われた。メンフクロウを腕に乗せて、外に出ると、こまかい雪がはらはらと、その羽根に落ちてひと色だった。雪が冷たいのか、寒そうに目を細めてお辞儀をする。市三の掌に落ちた雪は、すぐに水になった。
 部屋に戻ると御代がいて、ちいさな掌を電気ストーブに近づけてあたためていた。メンフクロウを木に移してやると、市三は椅子に腰を下ろして、御代を見た。御代は紺絣の着物に、鮫小紋の帯締めをしていた。
「雪のようにきれいね。」
「雪に晒されたときは、もっと美しいよ。」
御代は窓の外を見つめた。雪は勢いを増していて、この中に紛れれば、メンフクロウは見えなくなりそうだ。部屋の暖気に御代のほほはあたたまって、血の色が生きている。しかし、それ以上に、市三のほほは桃色で、匂うような色香だった。
「これからお尋ねしようと思っていたんだ。」
「それが今作っているお人形?」
御代が手を伸ばして、作りかけの人形に触れた。人形に囲まれた家に育まれて、御代も人形だった。陶器のように白いのに、女の匂いがした。
 御代はときおり、御機嫌うかがいと称して、市三の家にやって来る。行きがけに野菜や肉を買い込んで、簡単な料理を誂えてくれる。少女のおさない恋の行いを見ていると、市三に加虐的な心が浮かんでくる。御代は、父親の行いを知らないし、市三の思いを知る由もないだろう。
 厨に御代が立って調理をはじめると、市三は雪を見つめるのにも飽いて、また人形に手を伸ばした。少年と少女の正しい愛を形作るのに、苦心をしているのは、自分の魂の欠落からであろうか。
 厨からは美味そうな匂いが漂ってきて、また市三は人形を作る手を止めた。御代が机の上に食器を並べながら、
「恋人どうしのお人形?」
そう問われて、市三は小さく首を振った。
「そう見えたわ。」
御代の耳たぶに、鈍色の輝きがゆれて、そこにまた恋のおさなさが映った。
「だれとだあれ?」
「僕は誰かを見立てて人形を作らない。先生もだろう?」
「どうかしら。お父さまは、人間観察が好きだって、よく言うわ。それは人形を拵えるための準備だって……。」
「僕にはそうは言わなかった。人形は人間じゃないから。人間の肌は、こんなにもきれいなんだって。」
市三は御代を見つめた。御代はほほを赤らめた。
 市三の頭の中に、マネキンの並ぶ、潤二の屋敷が再生された。色々な人が形作られているその場所に、人間は潤二と御代だけである。あそこにいると、自分までもが人間ではなくて、人形のように思える。潤二の手触りは、人形を愛でるように優しかった。
 食事が終わり、コーヒーを飲んでいると、どこからかピアノが聞こえた。このアパートメントでは、午前中のこの時間、拙いピアノの音色がどこからか聞こえる。その音色を聞いているうちに、つられるかのように、市三も御代も、テーブルの突っ伏して眠りそうになる。
「ピアノを聞いていたら、お家を思い出すわ。」
屋敷にもピアノがあった。御代は屋敷ではよくピアノを弾いていて、その音色を聞きながら、市三は人形を作っていた。指捌きが見事で、音楽の才があった。ピアノも琴も三味線も習わされていて、いつかは音楽家になるのだろうと、市三は思っている。
 将来の音楽家であるこの少女は、今は微睡んだ目で、市三を見ていた。しかし、指先はテーブルを鍵盤に見立てて、まぼろしの音色を市三に届けた。
「聞いたことある。何ていう曲?」
「モーリス・ラヴェルの『ボレロ』。」
まぼろしの音楽はいつしか市三の耳朶の中で、ほんとうのボレロになった。しばらくそうしていると、御代がまぼろしのピアノを弾くのをやめて、人差し指をそっと伸ばして、市三のほほに触れた。市三はその指を右手でおさえると、テーブルに戻してやった。
「将来はピアニスト?」
「私より巧い子なんて、ごまんといるんだから。」
御代はまた目を閉じた。その目ぶたの薄いのに、市三の目は留まった。目ぶたが開くと、色素の薄い、青みがかった目がまばたきもせずに市三を見つめる。市三は何も言わずにその目を見つめ続けた。もう女であった。
 昼を回り、雪が溶け始めると、市三は身支度を整えて、玄関に向かう。メンフクロウがさみしげに鳴いて、市三はその頭をかるく撫でてやった。やはり幽霊のようで、からだがないようだ。少し元気がないようで、さきほど外に出たのが堪えたのか、かすかにふるえているようにも見えた。市三はその羽根に優しく口づけすると、背を撫でてやった。
 外にはもう御代が待っていて、帯の紋様が、降りはじめた雪のように見える。ぼたん雪だった。市三は傘をさすと、御代を入れてやった。ふたりでも、充分に大きい傘だった。
「雪はきらい。」
「きれいだって言っただろう。」
「きれいだけど、きらいよ。だって、足下は濡れちゃうし、手も悴むわ。それに、ちいさな動物たちはこの寒さでみんな死んじゃうでしょう。」
寒椿に雪がかかって、頭が垂れている。寒さの中に、白色が光った。
 潤二の屋敷につくと、御代はぱっと傘から飛び出して、まだ踏まれていない玄関先の雪の中に、雪駄を滑らせた。白い足袋が雪の中で一等に白い。玄関を開けて先に屋敷に上がると、そのまま姿を眩ませて、市三はひとりになった。草履を揃えると、そのまま屋敷に上がって、潤二のいる仕事部屋へと向かった。
潤二は疲れているのか、部屋で頬杖をついて眠っていた。作りかけの人形が、部屋に転がっている。まだ彩色もされていない、裸の少女だ。木枠でも、その肌のなめらかなのがわかる。潤二は長い髪を乱れさせ、かすかな寝息を立てている。かすかに、酒の匂いがした。
 起きる気配もないから、潤二に毛布をかけてやると、市三は屋敷の掃除をはじめた。弟子に入ってから、欠かさず毎日訪れて、屋敷中をきれいにしてやる。人形についた埃を取り払うのも一苦労だった。二日三日も経てば、もう塵が積もって、汚れはじめる。それを全て洗いとるのが、市三の役目だった。潤二はものを作る代わりに、屋敷を汚した。
 はじめて潤二と眠ったのは、弟子になってから三月ほど経ってからだった。中学に入り立ててで、声変わりすらしていない。弟子入りしてから毎日、言いつけ通りの仕事をこなしていた。梅雨で、雨が降っていて、窓に一枚の青い葉がついていたのを覚えている。硝子越しに、葉脈のひとつひとつが鮮明に見えた。何故か、それを今も覚えている。窓硝子を拭いていると、障子が開いて、潤二の腕が伸びてきて、部屋に引き入れられた。唐突で、何が起こったのか理解出来なかった。潤二の顔が近づいて、荒い息だった。脣をふさがれて、もう一度息ができるようになると、目から涙がこぼれた。潤二の手がほほに触れて、その力強さに、腰が抜けた。
 女のように愛らしい顔をしていた。今窓硝子に浮かぶ顔は、精悍な顔つきで、あの日の脣のあかあかとした美しさ、白いほほを透かす血は、もはやない。魂だけが、あの日のままである。
 行為の後に、部屋にひとり取り残されて、心細さに、市三は潤二の縮を抱きしめた。匂いが身体に取り憑くようで、心が安らかになった。その縮は透けるような白色で、雪晒しに出して帰ってきたものだと、後から耳もとにささやかれた。市三は、自分の魂までが雪に晒されたようで、白くなったように思えた。
 屋敷内を埋め尽くす数多の人形を見つめていると、いまにもしゃべり出しそうで、市三はときおり怖れすら抱く。潤二の人形たちの中でも、老人と少年は、ほんとうの人間に生き写しだった。それは、自分の魂がここに込められているからかもしれないと、少年の人形に胸に掌を当てながら、市三は思った。老人は、潤二だろうか。
 物音が聞こえて、影が動いた。市三がそちらを向くと、少年がいた。美しい少年で、年はあの日の市三くらいだろうか。
「おはようございます。兄様。今日からここでお世話になります。」
おかっぱ頭の少年は、着慣れない袴に帯締めで、しずしずと頭を下げた。
「先生のお弟子?」
「はい。先生の人形に憧れております。」
少年は茜色の脣を少し開いて、ほほえんだ。市三は頷くと、その手を伸ばして、少年の頭を撫でてやった。触れた手に、やわらかい髪が匂うようだった。
 市三は立ち上がると、そのまま潤二の部屋に戻った。潤二はまだ寝息を立てていて、深い夢の中にいるようだった。ふいに、部屋に置かれた鏡台に映る、精悍な男が見える。刈りあげたうなじが、やわらかい髪と対象的で、古い人形になった心地だった。
 帰る道すがら、雪はどんどんと勢いを増していて、寒さで手が悴んだ。頭にかかるぼたん雪が、急に姿を消したから、振り返ってみると、傘を差して立つ御代の姿があった。御代は息を切っていて、白い息だった。
「送るわ。」
「近いからいいよ。」
「今日はお父さまに会わないの。」
「お酒を飲んで寝ているよ。それに今日はあの子の調子も悪いから、心配なんだ。」
「フクロウね。元気に飛んでいたわ。」
「それからしばらくしてね、冷えたのかもしれない。子どもの頃から、僕が育てたんだ。あの子は拾ったんだ。」
「あなたと同じね。」
その言葉は、御代には悪気はなくとも、市三の心に、氷刺すようだった。市三はかすかにほほえんで、頷いた。そのまま何も言わずに、御代に背を向けると、ひとりでアパートメントまでの道のりを行った。
 部屋に帰ると、ピーターと狼が、市三を待っていた。そのほほ色と脣の赤さに、市三はあの少年を思い出した。ビスクドールを手にとって、親指で髪をかき上げると、うなじから首筋にかけて、番号が振られている。レプリカである。市三は、ただそれを見つめた。そのまま部屋に入ると、メンフクロウは静かに眠っていた。市三が近づくと、目を開けて、見つめてくる。その目の黒い光に、市三は魅入られるようだった。
 人形のように思えた。市三は静かにメンフクロウを抱き寄せて、その白い羽毛にほほを近づけた。脣で、そのやわらかい羽毛を遊ぶと、目がやわらかくなった。指先で喉を撫でると、禽獣の筋肉が、市三の掌にたしかに動いて、市三は魂を感じた。市三は衣を脱いで、メンフクロウを抱きしめた。心臓の鼓動が、ふたつ小さくとくとくと重なり合う。御代の掌の感覚を思い出した。潤二の掌の触角を思い出した。触れ合う夢を見た。
 そのまま、裸のまま、アパートメントの外に出ると、雪の中に身を委ねた。雪に洗われ晒されて、脣はますます赤くなった。反対に、メンフクロウの羽毛は、陽の光に晒されて、指先のなかで、美しい鬱金桜の色になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?