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三浦哲郎作品に潜る

今年やってみたいことがある。
『三浦哲郎自選全集』を、十三巻まで読破することだ。

こんな目標を掲げてはいるが、つい最近まで、三浦哲郎の作品で知っているのは、中学生の頃に国語の教科書で読んだ「盆土産」だけだった。
そもそも本を読む習慣があまりなく、中学生以来彼の作品に接する機会もなかったのだが、その「盆土産」をひょんなことから思い出し、気付けば図書館で『三浦哲郎自選全集』を借りてくるようになっていた。

もう2年ほど前になるが、有休を取って親知らずの2度目の抜歯に行った日のことだった。
大学病院から自宅に戻るとちょうど麻酔が切れて顎全体が痛み始め、また思うように食事のできない一週間が始まるのだとウンザリしていたとき、
頭の中に突然、揚げ物料理が浮かんできたのだ。
食べられないと思うと急に食べたくなる、
唐揚げ、とんかつ、えびフライ……。

えびフライ。
この言葉で、「盆土産」の記憶のスイッチが、パチンと入った。

「盆土産」は、東北地方のとある田舎に暮らす家族の元へ、東京へ出稼ぎに行っていた父親が、盆に土産を持って帰省してくるという短篇作品だ。その土産というのがえびフライであり、作中に繰り返し登場するキーワードでもある。

中学生の頃に読んだきりの割に、話の筋はハッキリと思い出せた。
当時は新学期に国語の教科書が配られると小説だけ真っ先に読んでいたのだが、「盆土産」もそんなふうにして読んだのが最初だと思う。
この作品を初めて読んだとき、思わず音読したくなるような文章だと感じたのを覚えている。すっきりとした読みやすさや、生き生きとした方言のリズムの良さが理由かもしれない。とにかくこの文章が気に入って、教科書を開くついでがあると度々読み返していた記憶があるから、それで大人になっても覚えていたのだろう。

急に懐かしくなり、抜歯の痛みもそっちのけで、手元のスマホで「盆土産」と検索してみた。
そして、いくつか検索結果を見ている内にふと、
「盆土産」(三浦哲郎)教材研究のための覚え書き
という見出しに目が止まった。

何気なくページを開くと文字がずらりと並んでいて、思わず身構えた。
論文のPDFだったようだ。
しかし「盆土産」が印象に残っていた一方で、授業の記憶はさっぱりなかったので、作品にどんな解釈がなされているのか気になり、興味本位で読んでみることにした。
初めは物語を復習するような気持ちで読んでいたのだが、次第に「盆土産」という作品には、中学生のときには気付けなかった側面がいくつもあることが分かってきた。
中でも衝撃を受けたのは、「語り」の問題について取り上げた以下の部分だ。

「祖母と、姉と、三人で」(「私の」のような表現が省略されている)といった記述から、語り手自身が視点人物である限定視点の一人称小説であることが分かるが、全篇にわたり一人称の主語は一度も出てこない。このような省略の徹底化により、語り手の実態は語り手自身により曖昧にされているわけだが、その一方で語り手が、「ゆうべ、いきなり速達で、 盆には帰ると言ってくるのだから、面くらってしまう」などと、出来事をほぼリアルタイムに語っていくことで、語りの現在は一九六〇年代半ばであるかのように装われる。
  そして、これら語り手が仕掛けた装置により、〈語り手=小学三年生の子供〉と、読者は錯覚させられていくのである。
 加藤は、そうした語り手=「小三の息子」という図式は不正確であり、「小三の息子の背後に」、「大人になった息子」という「もう一人の語り手の存在が想定できる。つまり、「盆土産」の語りは二層になっている」と指摘している(注)。

(注)加藤郁夫(二〇〇六)、六四頁

(黒田 , 幾田 2018, p.13)

一人称の主語が一度も出てこない。語りが二層になっている。
そんな装置をいつのまにか仕掛けられていたことに、思わずゾッとした。
「盆土産」の文章は、読みやすく素朴でありながら、慎重に選ばれた言葉で緻密に設計されたものでもあったのだ。そうした緊張感を初めて意識した途端、作品の奥行きが増すというレベルを超えて、底の見えない深い穴を覗き込んだような気持ちになった。
それ以来(その後かなり時間を空けつつも)、この論文の参考文献となった別の論文や、三浦哲郎に関する論文なども探してみるようになった。

和田悦子「三浦哲郎短篇小説論 -<出稼ぎもの>における<崩壊>の構図-」は、三浦哲郎が〈出稼ぎ〉をモチーフとした短篇を数多く書いていることに着目し、それらの作品について論じているが、これが他の短篇も読んでみたいと思うきっかけになった。そして『盆土産と十七の短篇』が2020年に出版されていたことを知り、昨秋、手に取ったのだった。

こちらの短篇集にも、出稼ぎの父親が登場する作品がいくつか収録されている(特に「鳥寄せ」はまた別の機会に感想を書いてみたい)。
また、出稼ぎものではないが、やはり徹底して主語がない「とんかつ」など、「盆土産」に共通する要素がそこかしこに見つかるのも興味深かった。(なお、エッセイ風の作品もとても面白い)。

こうして別の短篇作品も読んでみると、先述の論文で示されていた、「盆土産」が「家族関係そのものの崩壊を招くであろうことを暗示させる内容」(和田  1997、p.61)だという解釈もなるほどと思うようになったし、語り手が実はすでに大人であるという読みも、より腑に落ちる。
表向きでは家族と過ごす温かなひとときを描きながら、この語りの仕掛けによって、二度と帰ることのなかった父親への思いも滲ませていると読むと、一つひとつの描写にまた別の意図が見えてくるのは、本当に見事だ。
子どもの頃の思い出を夢で見ているような、自分自身のことでありながらどこか少し距離を取って物事を見ているような、この独特の語りの視点は、単に子どもの視点として読んだときとは違った切なさを呼び起こす。

他の作品を読むことでさらに面白さが深まるのだから、もっと読んでみるしかない。もういっそ、順を追って三浦哲郎の創作の跡を辿ってみようと手に取ったのが、『三浦哲郎自選全集』だったわけである。

本を読むのは、こんなにも面白かったのか。
ひょんなことから覗き込んでしまった、三浦哲郎作品の奥にある底の見えない深い穴、どこまで潜っていけるだろうか。


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