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言葉でなく。

京都駅の改札口でおんなのひとが声を掛けてきた。
 
「bunbukuroさんですか?」

知的ですっきりとした、意思を感じられる顔立ちのその人とはネットで知り合った。

関西在住のひとなので、同窓会のための帰省を利用して彼女と会うことにした。

感性の豊かなアーティストである彼女のきりっとした言葉が、あたしは大好きだった。

お互いの顔を知らないが、会ったらなんとなくわかるはずと思いながら、待っていた。

「はじめまして」

想像通り素敵なひとに会えて、うれしい思いであいさつをかわすうちに、空模様があやしくなり、雨が降りはじめる。

傘をもたないふたりは思案の末、えきビルの美術館で写真展を見ることにした。
 
「メープルソープ&アラーキー 百花乱々展」

そのタイトル通り、ふたりの写真家が切り取った花々は、どれも意味ありげに、生き物としての思いを訴えるように咲いていた。

入口ちかくに荒木経惟の挨拶文があった。原稿用紙を埋める手書きの文章が大きく引き伸ばされていた。

写真家は亡き妻の日記の中に「京都」を見つける。自分が金閣寺を撮りに出かけてしまったあと、妻がひとり京都の街中で過ごした時間とその思いを知る。

帰り来ない人の帰り来ない時を、言葉がかたどる。
 
病に倒れ、死の床にいる妻を見つめる写真家の言葉が続く。

写真家が妻の指を握りしめると、意識のない妻はイヤイヤをする。死ぬのがいやだというように。
 
「いい文章だね」とあたしが言うと彼女がそっとうなずく。その首の角度がとてもやさしく感じられた。

向き合って語るのではなく、並んで同じものを見ることで、彼女の輪郭がくっきりとしてくる。

陽子夫人の最期の日、写真家は大きなコブシの花枝を持って病院にむかう。

その日付の入った白黒の写真が二枚、会場にある。ただ、作品の制作年はその一年後になっている。

その二枚は、ただ「コブシ」と題されて、色とりどりに咲き乱れるたくさんの花の写真とさりげなく肩を並べている。

灰色の階段を背景にコブシが写っている。そしてそれを写している写真家の影が階段に落ちている。

まさにその日、妻は死んだのだと、先の文章が教えている。

言葉にできそうにないものが胸のなかを行き来して、その前で足が止まってしまう。

写真が閉じ込めた時間を思う。

彼女はその写真を含めて、考え深げにそれぞれの写真をゆっくりと眺めている。

その速度がひとつひとつの作品への礼儀のように思えて、好ましかった。
 
コトバデハナイモノガ カタルコトガアルノネ。

絵を描くひとである彼女の目に、花々は何を語りかけているのだろう。彼女はなにをうけとったのだろう。

礼儀知らずに、さっさと見て回ったあたしは、写真ではなくそんな彼女を見つめていた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️